逃走
……いったいどれだけの距離を、この連なった木々が延々と続く、夜の闇と混濁した暗い森の中を走り……逃げ続けているのだろう?
振り返ればあの骨だけの化け物がすぐ後ろにいる。
足を止めれば獣の形をしたあの怪物に食い殺されてしまう。
だから振り返らずに走り続けろという、強迫観念にも似た生存本能が、今の飛鳥の原動力になっていた。
――しかし、
「はぁ……はぁ……っ、くそぉ……」
それは走り続けている疲れからなのか、はたまた背中に貼り付いて離れない恐怖から足が竦んでしまったのか。
気がつくと飛鳥は逃げる足を止め、近くにあった大木に撓垂れ掛かっていた。
「っ……おかしい……」
聖霊校で体術だけは特待生レベルと評されている飛鳥は、体力だけには揺るぎない自信を持っていた。
例え五キロメートル以上の長距離を全力で走ったとしても、今みたいに息切れをおこしたり身体中が汗まみれになる事なんて決して無かった。
なのに、今はそれどころか、
(……足が思うように動かない……それに全身から力が抜けていくような感覚がさっきから……)
理由の分からない疲労感が飛鳥の心身を苛なんでいく。
いったいどうなってしまったんだ。まるで自分が石になってしまったかのように身体が重い。こんな事は初めてだ。
……それに身体の中にある霊力がどんどん消耗していってる。肉体強化をしている訳でもないのにどうして?
まるで何かに霊力を吸いとられているような感じだ。
「もしかして、お前か……?」
飛鳥は腕の中で眠り続ける黒い鳥の聖霊に目を落とした。思い返せば、自分の身体が変調をきたしたのはこの聖霊を抱え込んでからだ。
何事も無かった筈の飛鳥の霊力が、膨らんだ風船に開いた穴から空気が漏れていくかのように抜けていく。
恐らくはこの黒い鳥の聖霊が、飛鳥の霊力を喰らっているのだ。活動機能が低下した聖霊は無意識に、生命維持装置のように飛鳥から霊力を供給しているのだという考えに飛鳥は至った。
「本当にお前は……なんなんだよ……」
飛鳥の中で、黒い鳥の聖霊に対する疑念が深まる。だが自分でも不思議とこの聖霊の事を憎らしくは思えなかった。
これも契約を交わしてしまった影響によるものなのだろうかと。
そう考えあぐねていたこの時間が。
自分を追い詰める要因になってしまったという事に、頭上で木の枝が大きく揺れた音で飛鳥はようやく気がついた。
「っ!?」
ビクッと背筋が伸び、咄嗟に顔を真上へ向ける。
そこで飛鳥の視界一杯に映りこんだのは、
大口を開きながら大木の上から飛鳥目掛けて飛び降りてきた骨の化け物……霊気の獣の姿。
「うわぁっ!?」
刹那、飛鳥は地面を思いきり蹴っ飛ばして間一髪、前方へ飛び込んだ。
無様にもゴロゴロと地面を転がって難を逃れた飛鳥の目の前に、酸化した血の色を連想させる朱殷の瞳を向けた霊気の獣が立ち塞がる。
「くっ! しつこい……!」
飛鳥は即座に立ち上がり、霊気の獣を睨み返しながらも恐怖でおののく足で後退りする。霊気の獣はゆっくりと、そして焦らすように、ヒタリヒタリと飛鳥へにじり寄って来る。
……まるで獲物を狩ろうとする獅子と追い詰められた鹿の図だ。
完全に狩られる側と化した飛鳥はそのせいで、一歩一歩と後退する事しか出来なくなってしまっていた。
眼前にまで迫る死の脅威。だがそれに意識を向け過ぎていたせいで飛鳥は気づけなかった。
飛鳥の背後に続くのはただの獣道ではなく……屹立した崖にも等しい、急激な下り坂であるという事に。
「っ!? うぁっ!」
下げた右足が踵からすっぽ抜ける感覚。
後ろに道が無いと気づいた時には、飛鳥は身体のバランスを崩して急な坂道を転がり落ちていた。
コイツだけは絶対に離してなるものかと、黒い鳥の聖霊をギュッと強く抱き寄せる。
バキバキッと途中にある小さな木々を折りながら、土埃を纏わせて飛鳥は坂下へと落ちた。
静けさを取り戻した森の中、
俯せに倒れる飛鳥の指がピクリと動く。
「……つぅ」
――生きてる。あの高さから落ちてもなんとか。自分の丈夫さに驚きつつ胸の方に視線を落とすと、先程と変わらず眠り続ける鳥の姿が。
聖霊も無事だ。
その事にホッと胸を撫で下ろす飛鳥の目の前に、上からダンッと飛び降りてきた霊気の獣が現れた。
「っ!?」
再び姿を現した『死』。
飛鳥はすぐに立ち上がり、その場から逃げようとするがそれよりも早く――
「……!」
――霊気の獣の鋭い牙が飛鳥の脇腹を食い千切った。
「がっ」
口から空気が抜けると同時に肉と皮が裂けた箇所から血飛沫が噴き出る。それは渇いた土と、緑の草木に飛び散り、それらを絶望の紅へと染め上げていった。
グツグツと煮えたぎるような熱を発する傷口を手で押さえながらよろける飛鳥は、倒れるような勢いで後ろにある木に背中からもたれ掛かった。
もはや立っている事すら困難だ。
飛鳥は体重を預けたまま、木の表面でずりずりと背中を削りながらその場にへたり込んでしまった。
「……う、……っ!」
血が止まらない。どれだけ強く手で押さえても、ヌチャリとした紅い液体が手の間をすり抜けてどんどん外に流れていく。
――痛い。
痛い痛い痛い痛い……痛い!
ガスバーナーで炙られるような激痛が、朦朧とした意識を無理矢理つなぎ止めて責め苦を与え続けてくる。
オレは死ぬのか? そんな考えが飛鳥の頭を埋め尽くしていく。
こんな誰も居ない真っ暗な森の中で、
目の前にいる骨の化け物に食い殺されて、人知れずに死ぬのか?
「……そ、んなのは……嫌だ……!」
自分がいったい何をした?
自分はただ、この黒い鳥の聖霊に呼ばれてここに来ただけ。誰にも迷惑なんか掛けていないし、聖霊を助けようとしているだけだ。あの仮面の男達の『目撃者の排除』という名目で殺される謂われなんか無い。
「……お前が……」
――むしろ、消えるべきは目の前でこちらを威嚇している化け物の方だ。
命を平気で刈り取る、仮面の男達の手先であるこの醜悪な造物こそ消えて然るべきではないか。
瀕死の飛鳥の喉元に喰らいつこうと牙を向けている霊気の獣に、飛鳥は自分の中にあるドス黒い感情を剥き出しにした。
「……消えろ……」
消えろ消えろ消えろ……キエロ!
「――オマエガ、キエテシマエ!」
飛鳥がその呪いにも似た言霊を発した瞬間、霊気の獣に異変が起きた。
それは夢か幻か、
はたまた飛鳥の強い感情が天に届いて起きた奇跡か、
霊気の獣の体躯が突然、黒い炎に包まれてしまったのだ。
「……え」
黒い炎は周囲の草木を巻き込んで、霊気の獣を燃やし尽くしていく。苦しみもがいている骨の化け物。そのあまりの出来事に飛鳥の思考が一瞬止まる。
いったい何が起こってる。
どうしてあの化け物は急に燃えだした。
訳が分からない。そう呆然とその光景から目が離せないでいると、視界の上の方で何かがフワリと通り過ぎていったのが見えた気がした。
フッ、と顔を上に向けてみると、
「は、ね……?」
霊気の獣を取り囲むように、沢山の黒い羽根が宙を舞っていたのだ。
いつの間にと思っていた――その矢先の事だった。空を漂う大量の羽根がヒラヒラと舞い落ちてきたその瞬間、
羽根は黒い炎へと変わり、霊気の獣を焼いていた炎と交わってその勢いを急激に加速させた。
あの羽根が炎の元だ。
あの黒い羽根が黒炎を生み出していた――言うなれば火種だったのだ。
霊気の獣という薪を燃料にして更に燃え上がる黒い炎。
大地を焦がすその炎は、木々を焼き貫き、天にまで立ち上る一本の黒い炎柱へと昇華し、瞬く間に霊気の獣を灰塵に変えていく。
まるで助けを求めるかのように弱々しく灯る赤黒い双眸を飛鳥に向けて獣は消し炭と化して、跡形もなく消えていった。
――それが霊気の獣の最期の姿だった。
突然出現した黒い炎。
そして宙を舞っていた黒い羽根。
それらに関連しているであろう、その二つの点に結び付く存在に、飛鳥はすぐに気がついた。
(……お前がやったのか……?)
そう視線を腕の中に落とそうとした時にはもう、飛鳥の意識は切り離される寸前だった。
それは、へばりついていた死の恐怖から解放された事によって訪れた安堵感からなのか。はたまた単純に身体が限界にきていた事による解離だったのか、今の飛鳥には分からない。
意識が途切れる寸前に飛鳥が見た最後の光景は、
弱々しくも薄く目を開き、深紅の瞳を向けて心配そうに飛鳥を見つめる……黒い鳥の聖霊の姿だった――。
◇◇◇
「……ここだ。この辺りで霊気の獣の霊力が途切れた」
飛鳥が意識を失ってから物の数分後。反応が途切れた霊気の獣を追い、獣が纏っていた霊力の残滓を辿って仮面の男達は急な下り坂がある場所、
――つまり、飛鳥が足を踏み外して落ちた坂下の上にまで来ていた。
「ここにいた事は間違いないようだな。足跡が残っている……獣と、あの餓鬼のであろうモノが……だが」
片割れの男は辺りを見回すが、その両方の姿は見当たらなかった。
……おかしい。
姿が見えないのもそうだが、獣は何をそんなに手こずっているのだ?
霊力が使えると言っても相手はただの子供。不死身に近い身体である霊気の獣が遅れをとる等と言う事はない筈、そして何より……何故、獣の霊力が途切れた?
まさか……敗れたと言うのか? 学生風情に?
ある筈がないといった思いの反面『もしや』と言う一抹の不安が、凝り固まった小さな痼り(しこり)となって頭の片隅から離れないでいる。
――そしてそれは何処からともなく轟いてきた耳をつんざく甲高い鳥の鳴き声によって、男の脳裏に過った不安を現実のものとさせた。
「っ!? 今のは……!」
仮面の男達が鳴き声に気がついたその時には、
坂の下から草や木々を揺らす風を巻き起こして羽ばたき上がる、一体の巨大な黒い鳥が姿を現していた。
「っ! 凶ツ鳥……!」
それは飛鳥がこの森の中に足を踏み入れた理由。
飛鳥を呼び、飛鳥が命懸けで仮面の男達から守り続けていた存在。
――凶ツ鳥と呼ばれた聖霊……その真の姿だった。
「ば、馬鹿な……あれだけの傷を負って衰弱していながら何故……!?」
声色を震わる仮面の男がある事に気づく。
こちらを威嚇するように睨みつける凶ツ鳥の背に、誰かが眠るように横たわっていた事に。
あれは……さっきの餓鬼!?
「これは……!?」
凶ツ鳥はその大きな両翼を一杯に羽ばたかせて突風を巻き起こす。まるで飛び立とうする自分の邪魔をさせないと言わんばかりの風圧だ。
「くっ!?」
仮面の男達が風で怯んでいるのを見るやいなや、凶ツ鳥は飛鳥を背に乗せたまま空へと羽ばたき飛び去っていった――。
後に残された仮面の男達は、夜の闇と同化していく凶ツ鳥の後ろ姿を呆然と眺めている事しか出来ず、ただただ立ち尽くしていた。
「――いったいこれはどういう事だ!? 何故凶ツ鳥は力を取り戻した! どうしてあの餓鬼と一緒にいる! 霊気の獣は何をやっているんだ!」
仮面の男の行き場の無い怒りが声となって森の中に霧散していく。想定外である事態。目的を果たせなかった男の積み重なる憤りは如何許りか。
もはやぶつける相手がいない叱咤を代わりに答えたのは、坂の下を見下ろしているもう一人の仮面の男だった。
「……どうやら、あそこにある“アレ”が答えのようだぞ」
「なに? ――!?」
仮面の男が向けた視線に映ったのは、地面の一部分を円く刳り抜いたかのような、真っ黒に変色する焼け焦げた大地。
草木が鬱蒼と生い茂るこの森の中でその場所だけが、木はおろか雑草の一茎も存在していない。
まるでそこの土壌だけが死んでいるように、命の芽吹きを感じられなかった。
「なんだアレは……!? 何故あの場所だけ焦土と化している! これも凶ツ鳥の仕業だと!?」
「……いや、恐らくアレはあの少年がやった事だろう……“聖霊術”を使ってな」
「聖霊術、だと……! まさか!?」
有り得ない。そんな筈がないと慄く男を尻目に、もう一人の仮面の男は現状を把握しようとするかのように語りだす。
「……聖霊術は聖霊と契約を交わす事に成功した人間――つまり聖霊術士にしか使う事が出来ない秘術だ。行使出来る術の性質は、契約した聖霊によって異なるが……アレは凶ツ鳥が纏う黒炎に焼かれた惨状と酷似している……衰弱していた聖霊には到底出来ない芸当だ。だから代わりにあの少年が焼き払ったモノだろう」
霊気の獣諸共なと、仮面の男は冷静に徹しながらそう言い切った。
「正気か!? 貴様は自分が何を言っているのか分かっているのか!」
もしそれが本当だとしたら――
「あの餓鬼が……契約したと言う事だぞ! 四〇〇年前にこの世界に現れた最初の聖霊の一体――」
――あの『大災害』を起こした“凶聖”
「……凶ツ鳥の『カルエデス』と!」
重苦しい空気に包まれた両者の間に冷たい風が吹き流れていく。
風によって揺れ動く木々が立てるザワザワとしたその音は、まるで今の男達の心情を表しているかのようだった。
「ああ、重々承知しているさ。これが由々しき事態だと言うことも……ここから引き上げるぞ」
「引き上げる……だと? 奴等をこのまま見逃すというのか!」
「奴等がどこに行ったのか検討がつくのか? 例え奴等の居場所が分かってもどうする事も出来ん……我々は霊気の獣を失ってしまったのだからな」
「っ……!」
男はそれ以上、何も言い出せなかった。
霊気の獣という自分達にとって唯一の手段を、聖霊と対抗できる力を失ってしまった事を、男もまた嫌という程に痛感していたのだから。
もう一人の仮面の男は、飛び去っていった凶ツ鳥が消えた夜空の向こうを見据えながら、拳を強く握り締める。
「……こうなってしまった以上、もう一度あの方に出向いてもらうしかないだろう。我等が組織の幹部……“ナンバーズ”の『第八位』殿に……」
……“炎蛇の弓手”に――