狩り
この先に“アイツ”がいる。
木々が無秩序に並び立つ森の中。
似たような景色ばかりが続く獣道を、道なき道を、飛鳥は駆け抜ける。
暗闇に包まれ、空も見えない。
迷いの森と化したこの空間をどう進めば良いのか、飛鳥には分かっていた。
――――ココダ
声が教えてくれている。どこを進めば良いのか、ハッキリと。頭に響く声を頼りに茂みの中を掻き分けていく。
一心不乱に飛鳥は走る。地を張り巡る木の根に足を引っ掻けようが、尖った枝で頬の皮膚を切られようが関係ない。
……待っているんだ、“アイツ”が、オレを。
やがて飛鳥は森を抜け、開けた場所に出た。今しがた通った天を覆い隠す程の自然の領域とは打って変わり、夜の空を仰ぎ見る事ができる開放的な空間に。
そして……その空間の中心に“アイツ”がいた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らしながらたどり着いた場所で飛鳥が見たのは、傷だらけで倒れている巨大な黒い鳥と、目を疑うような壮絶な惨状だった。
落下の衝撃で出来たと思われる深く抉れた地面。辺り一帯には、所々焼け焦げた痕がある黒い羽根がいたるところに散乱していた。
「……なんだ、これ……?」
あまりもの現実離れした現状に思わず心の声が漏れる。その声に気づいた黒い鳥が首を上げ、飛鳥の方に顔を向けた。
ルビーのような深い紅の眼が飛鳥をジッと見つめてくる。とても綺麗な瞳をしている。それが飛鳥の第一印象だった。
そして、この巨大な鳥からは聖霊が発する気を、霊力を感じる。となると、この巨大な鳥は聖霊という事になる。それは間違いないと思う。
だが、飛鳥が感じたのは普通の霊力じゃない。この鳥から感じ取れる霊力の中には、暗くて重苦しい、禍々しいモノが混じっている気がした。
感じた事のない歪な気。
けれども怖くはなかった。
もしかしたら感覚がマヒしているだけなのかもしれない。それでもこの聖霊の事が放っておけなかったのだ。
「お前がオレを……呼んだのか?」
目の前の聖霊にそう尋ねる。
答えて欲しい。オレを呼んだのはお前なのか。
だとしたら何故呼んだんだ……オレにどうして欲しいんだ。
その思いに基づいて、飛鳥は一歩前に足を出した。
知りたかったのだ。お前がいったい何なのか。何故、自分の頭の中に声が響くのか――そして、
どうして初めて逢ったばかりであるお前の事をこんなにも、強く、愛おしく想ってしまっているのか……知りたかった。
だが黒い鳥に近づこうと飛鳥の右足が地面についた瞬間、その答えを知るよりも先に、予期せぬ方向へと事態が大きく動き出した。
「――――っ!?」
踏みしめた地面を基点に、眩い程に光り輝く、大きな円の模様が突然浮かび上がったのだ。
それと同時に全身が急激な脱力感に苛まれ、身体中の力を抜かれていく感覚に襲われる。
この感覚、そして大地に浮かび描かれた円陣。
覚えがある。
忘れる訳がない。
何度も何度も繰り返し行い、そして、つい数時間程前にも同じ事をしたばかりなのだから。
「っ、これ……契約の儀式……!?」
突然始まった儀式。
だが驚く事はそれだけに止まらなかった。契約の円陣が出現したと同時に目の前にいた黒い鳥の体躯から突如、
……真っ黒に染まった異質な炎が吹き出され、それに包まれてしまったのだ。
「っ!?」
黒炎に包まれ、焼かれていく黒い鳥の姿に飛鳥は息を飲んだ。
突然の出来事の連続は飛鳥に言葉を失わせるのは容易く、皮膚をチリチリと焦がす熱風の前にただただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
しだいに、浮かび上がった円陣は輝きと共に消え失せ、黒い炎もあの猛りが嘘のように消失した。
再び静けさを取り戻した森の中心部。残ったのは自分と、あの聖霊の成れの果てとも言える、塵積もった灰の山だけだった。
……だが、
「…………いる」
感じる。
さっきよりも強く、身近に。
禍々しい気配は微塵も無くなったが、あの聖霊が元々放っていた霊力を感じ取れる……あの灰の中から。
飛鳥は急いで駆け寄り、灰の山を両手で無我夢中に崩していく。
助けないと……オレが助けないと。その想いだけが飛鳥を突き動かしていた。
そして、山頂の大部分を崩し終わった時、飛鳥の探し求めていた“アイツ”の姿を見つけた。
先程までの巨大な体躯は見る影もなく、よく見かけるカラスと同等の大きさにまで縮んだ、一羽の黒い鳥が灰に埋もれて横たわっていた。
飛鳥は煤まみれの手で、そっと掬い上げるように聖霊を抱えこんだ。微弱ではあるが聖霊の鼓動が手に伝わってくる。どうやら眠っているだけのようだ。
「生きてる……けど」
ここに来てほんの数分しか経っていないのにも関わらず、色々な事がいっぺんに、台風のように過ぎていった。そのせいで頭の中がグチャグチャだ。
結局、肝心な事は何も分かっていない。
この聖霊が何故、空から墜ちてきたのか。
オレを呼んだのは本当にコイツなのか。
だとしたら何故、オレなのか。
本当に分からない事だらけだ。だがそんな中でも、確かに言える事が一つ。
「オレ、コイツと……契約しちまった、のか」
徒神 飛鳥は今日、この聖霊と契約を結んだ、と言う事だけだった。
「――まさか、我々以外にもこの場所に訪れる人間がいるとはな」
「っ!?」
突然聞こえてきたくぐもった声に、飛鳥は眼をギョッとさせながらもすぐに振り向いた。
気づけなかったのだ。
腕の中にいる聖霊の事だけに意識を集中しすぎたせいで、背後からやって来た二人の来訪者の存在に。
どちらも黒いロングコートで身を固め、白い仮面で顔を隠すという妙な出で立ちをしていた。
「見たところ一般の学生らしいが……あの少年の抱えているのが例の物か? 聞いていた話しと違って随分と小さいな」
「恐らく『第八位』殿との戦闘で疲弊しきったのだろう。元の姿を維持出来ぬ程に。だが私達、回収班としてはやり易い事この上ない状況だ」
「フッ、言えてはいるな」
仮面のせいで聞き取りづらいが低い声色の感じからして両方とも男だ。
そして目的は分からないが会話の内容から察するに、仮面の男達のお目当ては飛鳥が抱えている聖霊のようだった。
「……なんなんだよ、次から次へと」
空から墜ちてきた聖霊に突然の契約。その上、胡散臭い仮面をつけた危なそう連中ときた。
もう無理だ。
頭がおっつかない。
目まぐるしく、突風のように移り変わりが激しい状況に飛鳥の脳みそはオーバーヒート寸前だった。
「しかし……運のない事だ」
仮面の男の片割れが放ったその言葉に飛鳥は首を傾げた。それはいったいどちらに向けた台詞なのか。
飛鳥か、
それとも仮面の男自身か。
……そしてその言葉が意味するのは。
「どんな理由があってかは知らないが、君はこの場所に来てしまい、“それ”を見つけ、我々の姿を見てしまった。そしてそのせいで君は無事に明日を迎える事が出来なくなった……我々と出逢ってしまったせいでね。まだ先が長い少年の未来を刈り取ってしまうのには僅かばかり抵抗があるが……」
まぁ、仕方ない事かと男は言う。
どうやら男の言葉は前者であり、飛鳥に向けられていたものだった。
しかもその内容はとてつもなく物騒で、言葉の奥深くに仄暗い狂気の火が見え隠れしている。
「さっきからナニ訳わかんねー事を勝手にヌかしてんだアンタ等は!? アンタ等いったいダレなんだよっ!」
飛鳥の問いに、もう一人の仮面の男が静かに、しかしハッキリと、こう答えた。
「私達が何なのかなど貴様のような餓鬼には関係ない。それに知ったところで意味もない……どうせ貴様の命はここで終わるのだから」
「っ!?」
言葉が出なかった。最初の男の回りくどい言い方とは違う。明確な敵意が飛鳥の喉を刺し、詰まらせた。
「では……そろそろ出番だ」
仮面の男が徐に指をパチンと鳴らす。
静寂の中にその音が広がった後、男達の背後にある真っ暗な森の奥から、パキッ、パキッ、と枝を踏み砕きながら現れた“それ”に、飛鳥は自分の眼を疑った。
「骨だけの……バケモノ……!?」
皮も肉も無い。
その全てがごっそりと削ぎ落とされた獅子のような大きな体躯。
四足動物の形をした、骨だけで動く異形の怪物が暗闇の中からのっそりと姿を現した。
青味を帯びた冷やかな白い霊気を纏い、眼球が無いはずの双眸の奥に灯る、赤黒い不気味な鈍い光りが飛鳥を睨みつけていた。
「様々な生き物の骨を繋ぎあわせた骨格に我々の霊力を流し込み、仮初めの命を宿した疑似聖霊『霊気の獣』……我々の最高傑作だ。これ以上『ナンバーズ』の手を煩わせまいと連れてきたが、どうやらこの判断は正解だったな。コイツがいれば……簡単に君の“処理”が出来る」
男の処理という言葉に霊気の獣と呼ばれるおぞましい怪物の姿。恐怖心を掻き立てるそれら要素が飛鳥に最悪の未来を想像させ、背筋を一瞬で凍りつかせた。
「処理って……冗談だろ……!?」
獰猛な肉食動物を彷彿させる尖った牙で肉を千切られ喰い殺される自分。
刃物のように鋭く伸びた爪で身体中を引き裂かれて殺される自分。
脳裏に過ったのはいずれも悲惨な結末を迎えた自分の成れの果て。このまま何もしなければ確実にそのどちらかの道にぶつかってしまうのは明白だ。
「では始めよう。目標物の回収と……目撃者の排除を、な」
仮面の男の言葉を合図に、霊気の獣は地面を強く蹴りあげ、走り出した。標的を見定めた骸の集合体は一直線に獲物の方へ。
……飛鳥に目掛けて突進してくる。
(――来る!?)
距離を積めた霊気の獣は大口を開いて牙を剥き出しに、飛鳥の顔を目掛けて飛び掛かってくる。
咄嗟の判断で飛鳥は上体を素早く左に剃らし、霊気の獣の牙を紙一重で躱す。通りすぎていった獣が纏うヒヤリとした空気が鼻先を掠めていく。
「っ! っぶねぇ!」
ギリギリの刹那。それは飛鳥の肝を冷やすには充分すぎる驚異だった。
だが一撃を避けたぐらいで相手は止まらない。
最初の動作が不発に終わった霊気の獣はすぐさま踵を返しては、何度も喰らいつこうとしてくるが、飛鳥はその都度躱して難を逃れていく。
けれど、このまま避け続けていても此方側が不利なのは変わらない。
相手は得体の知れない存在。
攻撃をあしらい続けても、体力という概念が無さそうなあんなバケモノの相手を延々としていれば、逆にこっちがガス欠になってしまう。
しかも飛鳥の腕の中には、奴等の目的とも言える聖霊がいる。コイツを仮面の男達なんかに絶対に渡したくない。だが、聖霊を庇いながら立ち回るのも流石に難しくなってきた。
……だったらもう一か八か、打って出るしかない。
体内に流れる霊力を右足一点に集中させて強化。再び飛び掛かってきた霊気の獣に、
「この……ウザッてぇんだよ!」
渾身の回し蹴りを放った。
霊気を帯びた右足が獣の顔面を捉える。振り抜いた足は霊気の獣の顔骨格を粉々に打ち砕き、執拗に迫ってきたバケモノを黙らせた。
「はぁ……はぁ……っ、くっ……」
死骸……という言葉がこの化け物に当てはまるかは分からないが、地面に転がる獣の残骸を見下ろす飛鳥の耳の奥で、自分の中で激しく鼓動を打つ心臓の音が鬱陶しく鳴り響いていた。
……危なかった。
一歩間違えば骨ごと右足を喰い千切られていたかもしれない危険な賭けだったが……なんとか撃退することが出来た。
「っ……どうだこんちくしょうっ! 体術の特待生ナメんじゃねーぞコラァ! テメーらもこうなりたくなかったらさっさと失せやがれ!」
間髪いれずに飛鳥は仮面の男たちに向けて脅しをかけた。だがそれは言ってしまえばただのハッタリだ。
この極限の緊張状態から一秒でも早く脱したいという飛鳥が言い放つ精一杯の。
男たちの言動から、人の命を奪うことなど何の躊躇いも無いというドス黒い意思が、それこそ吐き気がするくらいに伝わってくる。
……それが何を意味しているのかも嫌という程に。
この男たちにとって“こういう事”をするのはきっと初めてでは無い。
今までに何人もの命をその手にかけてきたと思しき連中。そんな奴等を飛鳥は遠ざけたかったのだ。
幸い、仮面の男たちがよく使う手段の一つであろう霊気の獣は倒せた。男たちが強い自信を持っていたあの骨の怪物をだ。
それを下した今なら、こっちが強く出れば仮面の男たちはすぐさま逃げ帰るだろうという淡い期待を抱いたのだが、
「フム……今のは霊力を使った肉体強化か。それだけでも驚かされたが、まさか一撃で粉砕するとは……流石に言葉もでにくいな」
「どうやらこの餓鬼は、この街の聖霊校の生徒のようだな……よりによって『聖霊省』の息がかかった教育機関の人間に見られるとは。とんだ失態だな」
「まったくだ。だがそれも、この少年を片付けてしまえば全て丸く収まる」
「確かに……それもそうだな」
全く動じていない。それどころか、仮面の男たちはいまだに飛鳥を消すつもりでいる。
「おいっ! オレの話し聞いてんのかよアンタら! 骨のバケモノはブッ倒したんだ。いい加減諦めてとっとと帰りやがれ!」
両者の間に飛鳥の虚勢が、その名の通りに虚しく響く。
虚勢は所詮虚勢。
中身の無い、ちょっと押しただけで倒れるただのハリボテだ。
――だからそんな脆いモノは、仮面の男たちが紡ぐ言葉によって、こうも簡単に壊されてしまう。
「ん? ……あぁ、これは失礼。別に無視をしていた訳ではないんだ。しかし、何をそんなに粋がっているのかと思えばその程度の事か。得意気になっているところを申し訳ないが、それは“一度”破壊したぐらいではどうにもならんよ」
「は? …………っ!?」
飛鳥の背後でカチッ、カチッと、まるでパズルをはめるような、何かが組み上がっていく音が静かに聞こえる。
嫌な予感がした。
後ろにあるのは先程倒した骨の怪物の残骸だけ。それ以外なにも無いからだ。
恐怖心が冷たい滴となって頬を伝う。固くなった首を精一杯動かし、恐る恐る視線を後ろに向けると、
「嘘だろ……!?」
砕け散っていた筈の骨の破片が元の形に戻ろうと次々に修復されていく。
それもひとりでに。
まるでビデオテープを逆再生にして観ているかのようだった。
しだいに修復した骨は頭部の無い獣の残骸に集い、元々の形へと戻っていく。
そして、霊気の獣は再び立ち上がり、蘇った。
「霊気の獣は、それを形作っているパーツ全てに霊力が流れている命の集合体。言うなれば……骨の一つ一つがこれの本体だ。例え何処かが破損しようと、一ミリでも欠片が残ってさえいればいくらでも再生する事ができる……跡形も無く消えない限りはな。さぁ、どうする?」
仮面の男が突き付けた現実は飛鳥を芯から震え上がらせた。それが本当なら飛鳥の力ではどうする事も出来ない。例えどんなに細かく砕く事が出来たとしても破片一つ残さずというのは不可能……無理だ。手の打ちようが無い。
(どうする!? このままじゃホントに殺される!)
飛鳥は必死で考えた。頭が沸騰するくらいに思考をフル回転させて。一七年間という人生の中でこんなにも頭を使った事なんて今まで無かった。それぐらいに切羽詰まっていたのだ。
そして飛鳥が考え抜いて出した、今出来る最善の策は、
「っ! ああっ、クソォ!」
――逃げる事だ。
何処でもいい。とにかく人の多い場所へ……でなくても早く此処から離れるんだ。
「逃げるのか? それも良いだろう。やってみろ、コイツから見事逃げ仰せてみろ……無駄だろうがな!」
森に向かって走る飛鳥の背中を、あの仮面の男の自信に満ちた高らかな、嘲笑を含んだ声が押してくる。
声を聞いて直ぐに分かった。
支配者気取り。
弱者をいたぶる強者の位置。
連中は浸っている、逃げる自分の姿を見てこの上無い優越感に。
――奴等は今、楽しんでいる。
「さぁ楽しめ……狩り(ハンティング)だ」