プロローグ
地上から遠く離れた高度一万メートル上空。
夜空に浮かぶ月を背景に二つの巨大な影が縦横無尽に飛び交っていた。
一つは細長い体躯をくねらせ、水面を滑るように空を泳ぐ歪な影。そしてもう一つは、冷たい風と夜の闇を両翼で引き裂きながら空を駆ける影。
それは人間を優に丸呑み出来る巨体を誇る大蛇。
そして漆黒の大空を渡る巨大な鳥。
先を飛んでいるのは暗闇の中でも一際輝く、黒水晶を彷彿させる鮮やかな羽根で身を包んだ黒い鳥。
その後を追うのは毒々しい赤い斑模様に紙のような薄い羽根を生やした蛇だ。
系統は違うはすれどその二体は共通して、人間を優に超える大きさをもった巨体だと言える。
「……流石に速い」
そしてよく見れば大蛇の背には人の姿があった。
黒いコートを纏いフードを深々と被っている。そのため顔は全く見えない。黒いコートの人物は自分の素性を隠すかのよう夜の闇に溶け込んでいた。
「だがその傷ではもう限界だろう」
大蛇の背に立つ人間から起伏のない低い声が発せられる。
――男の声だ。
それも渋味のある声色からして、それなりに齢を重ねた人のものだというのが聴いて取れる。
その男の言うように巨鳥の体躯には所々火傷のような傷痕が目立っていた。はためかせている黒翼の動きも何処か弱々しく、何だか心許ない。
――黒い巨鳥は追われていたのだ。赤斑の大蛇と、それを駆る黒いコートの男に……。
「そろそろ仕上げだ」
男の言葉を合図とし、大蛇はその巨大な口を大きく開く。まるで卵を丸呑みする勢いで開いた仄暗い口腔の奥から夕陽のような淡い橙色がジワリと灯っていくのが見える。
「撃ち落とせ、ナバール」
次の瞬間、蛇は前方で飛ぶ鳥に向かって口から炎の塊を吐き出した。例えるなら火に包まれた岩石。火球は一直線に射出され、男の言葉通りに巨鳥を撃ち落とさんとしている。
危険を察知した巨鳥は即座に両翼をいっぱいに広げ、羽ばたかせて回避行動をとる。
胸の部分を掠めはしたものの炎をギリギリの所で躱して見せた。標的を見失った炎弾は巨鳥の前方で爆発した。
空気を焼き、空を焦がす熱をばらまく洋紅色の光。傷ついた翼でそれを避けれたのは正に紙一重だった。
それでも追撃の手が緩む事は無かった。間髪を容れずに大蛇はさらに口から炎を次々と射ち出す。
一発、
二発、
三発、と。
だが巨鳥は息つく暇なく襲いくる炎の波状攻撃を危なげながらも避け続けていった。
その様子を大蛇の背から眺めていた男は思案しながらポツリと呟く。
「しぶといな。そこまで動ける気概がまだあるか……」
男は「ならば」と右の掌から炎を生み出した。何もない空間からまるで手品のように現れた、毒々しい赤い炎は次第に形を取り留めていく。
細長く伸びた炎は緩やかな曲線を描いていった炎は男の手に、赤く透き通る『弓』の形となって残った。
「……もう一手、加えるとしよう」
大蛇が大きく息を吸い攻撃体制に入ると、次に吐き出されたのは先程よりも大きな炎だった。
満身創痍の巨鳥はこれを避けるのは至難の技だと感じ取ったのだろう。身を翻し、迫りくる脅威に立ち向かう体勢をとった。
両翼をまるで風を巻き起こすかのよう盛大に振ると、翼から抜け落ちた数枚の黒羽根が炎に向かって投じられていった。放たれた羽根はみるみると形状を変え、先の尖った細長い鉄製の棒のような物へと変化していく。
――“黒い槍”
黒羽根はその純黒な色彩だけを残し、槍へと形状を変えたのだ。
漆黒の槍と紅い猛炎が激突する。
ぶつかりあった二つは弾け、宵闇の空に轟音と赤い曙光を瞬かせた。
一際大きな真紅の発光が夜空を切り裂いた。それは時間にしてほんの数秒の光、だが誰の眼にも永遠に焼きついて離れないであろうと言うくらいの眩さであった。
そして次第に光が落ち、シンと静まり返った後には、爆発の名残とも言うべき爆煙が周囲に蔓延していた。
灰色よりも濃く、霧よりも深い。
それは巨鳥の視界を遮るには充分すぎる程だった。それほどに深かったのだ。
右も、左も――そして対峙していた大蛇の姿も視認できない程に巨鳥を覆っていた。
そして――
「――これで詰みだ。『凶ツ鳥』」
男の声と同時に前方から煙を穿って一筋の赤い光が走った。
その閃光は巨鳥の分厚い右翼を鋭く射ち貫き、そして糸も容易く風穴を開けた。
『――――ッ!?』
突如訪れた痛み。
悲痛な金切り声を空に木霊させると、巨鳥は背面から倒れるようにそのまま地上へと落下していった。
煙が晴れた空には当然の如く大蛇と男の姿があった。
男は弓を構え、弓道で言う矢を放った後の姿勢、残心の状態で大蛇の背で佇んでいた。
「……『炎蛇』の攻撃を凌いだのは流石だったが、今のは避けられなかったか。“眼”の差が勝敗を分けたな、凶ツ鳥」
あの爆煙の中、辺りが見通し難くなっていたのは男も同じ筈。にも関わらず男は正確に翼を射ち抜いてみせた。
いったいどうやって狙いをつけたというのか。
フードの奥で弓の構えを解いた男の瞳がギラリと光っていた――金色に染まった、妖しく光る双眸が。
「あの傷では満足には動けんだろう。後の“回収”は別動隊に任せるとするか……」
巨鳥が落ちていった、木々の生い茂っている地表を見下ろしながら男は、
「“凶聖”と呼ばれていても所詮は宿主がいない聖霊。契約者がいなければこの程度か……」
興醒めだなと残念そうに呟き、夜空の海を大蛇と共に去っていった。
鬱蒼とした森。
所狭しと乱立した木々が覆う森林の中心に、傷つき、横たわる巨鳥の姿があった。
地面には鉄球を引きずったかのような大きく抉れた跡が出来ている。それが墜落時に起きた衝撃の度合いを充分に物語っていた。
巨鳥は何度も立とうとする様子を見せる。
だが、射ち貫かれた翼が重いのか、その度に右へ傾き倒れてしまう。
右翼の真ん中に空いた握り拳大の痛々しい風穴からは血が止めどなく流れていた。
そして巨鳥は、とうとう立ち上がろうとしなくなった。倒れたまま、呼吸で体躯を僅かながら上下に動かす事しか出来なくなってしまったのだ。
儘ならない身体。
巨鳥の瞳が諦念に充ちた暗い感情に沈んでいく。
そして巨鳥は全てを諦めるようにゆっくりと眼を閉じようとした。
――その時だった。
「……なんだ、これ……?」
声だ。男の声が聞こえてきた。
あの大蛇を駆る男のとは違う、若い男の声が。
それに気づいた巨鳥は項垂れていた首を上げ、声の方に顔を向けた。
そこに居たのは、眼を見開き、口を半開きにして心底驚いた表情をしている白髪の少年だった。
白いパーカーの上に紺色のジャケットを羽織った学生風の服装。まだ幼さが少し残る顔つきからして、年齢は一六、七と言ったところか。
「お前がオレを……呼んだのか?」
その言葉を、
唇を震わせながら呟いたその少年の言葉を、
巨鳥は永遠に忘れないだろう。
何故ならそれは、忌み嫌われ続けてきた自身にとって初めて出来た――“友人”との最初の邂逅なのだから。
西暦二〇二四年、四月一四日。満月が巨鳥と少年を照らしたその夜。
“凶聖”と畏怖される聖霊と、
聖霊のいない“聖霊術士”、
徒神 飛鳥は出逢った。