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疑似家族小説

大樹とサボテン、冷蔵庫にマヨネーズ

 欲望のままにかき抱いてくる手も、下心の透ける甘い囁きも、粘り着くような視線も、何もない。

 肉欲の気配さえ感じないこの毎日は、私にとってまるで天国のような日々だった。

 この幸福がどうぞ続きますように。と、私は冷蔵庫を開けるたびに思うのである。


 ユニットバスから、きゃあ。と低い声が聞こえた。

 私はそれに構わず、手元のスクランブルエッグに集中する。ふわふわに仕上がるか、かちかちになるか、それはたった数秒で決まるのだ。

「……よし」

 今日のスクランブルエッグも成功。知らない間に強張っていた肩を下ろして、私はほっと息を吐く。一口コンロしか置けない小さなキッチンで、私は毎朝こうして戦っている。

 子どもが使うような小さなフライパン、これがスクランブルエッグを作るのに、とてもいい。

 青いフライパンの上には、黄色くふわふわの幸せな固まり。この美しさに、私はほれぼれした。

 とろとろのそれを真っ白な皿にそっと移しながら、ようやく私は風呂場向かって話しかける。

「どうしたのヒロ。虫でもでた?」

「やだ! 虫とか言わないで!」

 ユニットバスの扉が開くと、中から湯気が香る。朝に浴びるシャワーの香りだ。蒸し暑い夏の朝に、シャワーの湯気がさらに熱気をプラスした。

 夏を乗り切った、と思っていたが盛夏より残暑のほうがより厳しい。エアコンをつけることも考えた方がいいかもしれない。と。私は顎に流れた汗を肩口で拭いながら考えた。

 今年の夏は特に、暑い。同居人が増えたからだ。

「虫じゃ無いわよ、髪型失敗したの!」

 その同居人は、狭いユニットバスから飛び出してきた。 

 長身の男だ。細身の体にシンプルな白シャツ、飾り気のない黒のズボン。

 シンプルなのに決まるのは、素がいいからだろう。ズボンに包まれた足は憎たらしいほど長いし、体には無駄な肉が一つもついていない。

「そう? 変わらないと思うけど」

「違うの! ここ、跳ねてる! 直んないの! 熱湯つけたのに!」

 彼はぴょんとはねた前髪を押さえて口をとがらせる。そうすると、まるで子どもが拗ねているようだった。

「変! すっごく変」

「おかしくないよ。いつも通り格好いいよ」

「可愛いって言って」

 そうやって彼はいうけれど、実際彼は可愛いより、かっこいい。だ。

 しゅっとた輪郭と、切れ長の目はどこからどうみても、かっこいいというのにふさわしい。

 今日もまたそんな男の顔を見つめた後、私はテレビを指さした。

「ヒロ、大丈夫? 時間」

 テレビはちょうど、朝8時を表示している。この家から彼の働く美容院までは1時間。食事の時間を入れると、ぎりぎりだった。

「あ」

 すると彼はいそいそと席に着く。どれだけ嫌な事があっても、御飯の時にはちゃんと席に着く。それがこの家における、唯一無二のルールだった。

 席といっても六畳一間の狭いアパートのまんなかに、ぽつんとおかれた丸い折りたたみテーブルだけれども。

「マユ、マーユ。マヨネーズとって」

「はい」

 真っ白な皿にたっぷり盛られたスクランブルエッグ。それに添える、カリカリの薄い食パン。丸いコップにはたっぷりのカフェオレ、砂糖抜き。そして一口だけのヨーグルト。

 小さな丸テーブルに二つ並んだ朝ご飯。唯一違うのは、彼の皿にだけ、たっぷりとマヨネーズが盛られている、ということだけだ。

「いってきまぁす」

 いただきます。からいってきます。までの時間は短い。あっと言う間に食べ終えて、彼は素早く立ち上がった。

「あ。マユ、今日はデートないからすぐ帰るわね」

 そして私に向かって投げキッス。

 私は苦笑してそれを受け止めて、そして考えるのだ。

 さて、今日の晩ご飯は何にしようか、なんて幸せな未来を。



 彼は……ヒロは、恋多き男である。いや、乙女と言った方がいいのかもしれない。少なくとも、ヒロの心は乙女で満ちあふれている。

 彼との出会いは、梅雨も終わったばかりの夏の始まり。私はこの夏はじめての夕立に襲われて、困り果てていた。

 そこを、彼の傘に救われたのだ。

 濡れちゃうよ。と彼はいって、微笑んだ。びしょ濡れで今にも泣き出しそうな私は、顔を上げて、彼を見る。

 ……美しい男が、そこにいた。

 ヒロは冗談抜きで、輝いていた。傘を私に差し出したせいで、彼の肩が雨に濡れたのだ。そこに光が差し込んで、ヒロは本当に綺麗だった。

 いかにも少女漫画のような展開だ。異なっているのは、彼がゲイだった。ということだけである。

 ヒロは私の持っているスーパーの袋をみて、きゃあ。と可愛らしくも低い悲鳴をあげたのだ。袋の中には、マヨネーズが入っていた。

「それ、買えたの? 出たらすぐ売り切れるから、品薄って聞いたのに」

 それは近所のスーパーで時折安売りをするもので、普通のマヨネーズとは違う。ホテルでも使われる、美味しいマヨネーズなのである。

 といっても私はマヨネーズが苦手だ。だというのに、何故か私はその日、そのマヨネーズを買うためだけにスーパーへと急いだ。魔が差したとしかいいようがない。

 15年も勤めていた仕事を首になり、ハローワークでは心をぽっきり折られた、そんな日だったからである。

 いつもと違うものを買って、いつもと違う料理を作って、いつもと違う音楽でも聴けば、きっといつもと違う明日が来るはず……なんて思っていた。あるわけがない、明日はあくまでも今日の地続きである。

 それに、いつもと違う料理どころか家に辿り着く前びしょ濡れだ。すでに心は萎えていて、購入したばかりのマヨネーズをその場でまき散らしてやりたいくらいには、荒んでいた。

「好きなの? マヨネーズ」

 人見知りの私はすさんでいた。普段なら、男にたやすく声をかけることなんてしない。

 やけっぱちだった。いつもと違う明日なんて、来るはずもないのだし。

「マヨネーズ好きって顔には、みえないけど」

「そお? あたし、マヨネーズ大好きなの」

 ヒロはヨダレをながさんばかりの顔で、マヨネーズを見つめる。正直、美形もこんな顔をするんだ。と私は思った。

「じゃあ、あげる。傘に入れてくれた御礼に」

「え、悪いわ」

 まるで女の子のような言葉も、彼が口にするとなぜか嫌味に聞こえなかった。彩度の高い緑の傘も、彼が持っていると不思議と似合った。

 その傘の内側に立つと、なぜか雨音が聞こえないほど、静かな心地になれた。

 森のような男だな。と、私は思った。

 荒んだ心が平坦になるような気がした。私の言葉は、彼の傘に守られてゆるゆると柔らかさを帯びる。

「だって私マヨネーズ嫌いだから、料理に使わないし」

「だってあたし、料理嫌いだから貰っても」

 二人、ほぼ同時に呟いた。

 その瞬間、ヒロの腹が冗談のように大きな音を立てた。

 塀に囲まれた狭い路地裏。その音は響き渡って、ヒロは首まで真っ赤に染める。どこかの家から、午後を知らせるニュースの声が響いていた。

「……もしかして」

 私はヒロを見上げる。夕立はとんだゲリラ豪雨だったようで、始まりも唐突なら終わりも唐突。

 空には、うっすらと青空も見え始めていた。厚い雲の隙間から、光が一筋地面に差し込む。この光を天使の梯子というのだ……と、遙か昔の小説で読んだ。

 その光を浴びても、ヒロは傘を手放そうとしない。それだけが、彼の支えであるように。

「お腹、すいてる?」

「……実は一昨日、同棲してた彼に振られて、追い出されて」

 ヒロは傘を握ったまま、悲しげに微笑んだ。

「雨降ってたから、傘だけ持ってきたの。これ、彼のすごく良い傘。きっと今頃困ってるわね。ざまあみろだわ」

 明るくいいながら彼はもう今にも泣き出しそうだ。

「……ごめんねあたし、家なき子なの」

 フランスの映画で、そんな話を見た事がある気がする。フランス語で紡がれる、重苦しいほど濃厚な歌がよく似合う。

「じゃあ」

 呟いたヒロの手を、私ははじめて握った。

 手は暖かく、湿っていたのに不思議といやな気持ちはしない。

 大きな木にふれたとき、確かこんな感じがした。

「私の家においで。御飯、作ってあげる」

 そして人生で初めて、私は人を家に招き入れたのである。

 いつもと違う明日は、天使の梯子の下に落ちていた。



 ヒロはゲイだ。男が好きで、男に抱かれる。それを世間が異常と責めるなら、私のことは何といって責めるのだろう。

「ヒロ、最近どう、恋してる?」

 夕ご飯の支度を終えて、洗い物をしながら私はいう。ちょうどヒロが風呂からあがってきたところだ。彼は上半身裸のまま、タオルで髪を必死に拭いている。

 彼の髪は風呂上がり限定で、くるりと丸くなる。まるで子どものような癖っ毛だった。

「まだ運命の恋には辿りついてないみたい。マユは? アセクシャルの壁を破った?」

「この壁は、やぶれないし、破る気もない」

 私は炊飯器のスイッチを切って、ほこほこに炊きあがった御飯を大皿に移す。そしてそこに、漬け込んであったミョウガの酢漬けを勢いよく、かけた。

 ミョウガをつけると、不思議と綺麗なピンク色に染まるのだ。白い御飯に混ぜると、可愛いピンクの寿司飯が出来上がる。

「……男と付き合うのが嫌じゃなくて、恋をしたら触れ合わないといけないのが、やなの」

「そんな自分に気付いたとき、マユは恐かった?」

 ヒロが静かに尋ねる。彼もまた、自分の性に気付いた時、恐怖を感じたのだろう。それは誰とも共有できない、恐怖のはずだ。

 そして彼はその恐怖を私に語ろうとはしないし、ことさらに主張もしない。

「そうね」

 私は米を切るように混ぜる。香りが立つように。

 米を研ぐときと大根をおろすとき、そして米を混ぜるときは、苛々とした気持ちでやってはだめだ。味が悪くなるから。かつて母は、私にそう教えた。

 そんな母や父とも疎遠になったままである。

 20才を超えた頃、だろうか。私が自分自身の異常に気付いたのは。

 誰も愛せない。男性の欲望を受け付けられない。かき抱く手に吐き気を覚える。口づけに、恐怖を覚える。

 それはうぶな感情ではない。ただ、ただ気持ちが悪い。普通の生物が普通にできていることが、私にはできない。

 そんな自分の深層に気付いた時、私は気も狂いそうだった。

「私、これでも優等生だったからね。運動も勉強も、クラスで一番。性格もよくて、料理も上手で」

「褒めすぎよ。まあ料理は上手だけど」

「だからね、恐いと思ったのは男に対してじゃないの。これまで順風満帆だった自分の人生に、汚点があったことが恐かった」

 その壁を破ろうと、無意味に男と肌を重ねた。しかし、何の感情も、私の中に萌芽しなかった。男に抱かれるたびに、自分の性への決別を知った。

 これをアセクシャルというのだそうだ。無性愛、人を愛せない。欲望を抱けない。

 つまり、生物として、狂っている。

 母に泣かれて父に責められ、私は家を飛び出した。彷徨って辿りついたのがこの狭い狭い6畳一間のユニットバス付き安アパート。

 今なら分かる。両親が怒ったのは、私の無性愛に対してではない。男遍歴について、だ。しかし両親は気付かなかった。私が受験勉強を挑むように男に抱かれていたことを。そしてその受験に私は落ちた。絶望が、私を一人にさせた。

「なんで男女とか男男とか女女とか、付き合うと触れなきゃいけないのか、意味わかんない」

「お米、あおいであげるね」

 ヒロは膝を折って、寿司飯を団扇で扇ぎはじめた。混ぜる寿司の粒に、つややかな色が乗る。つやつやと、米粒が輝く。酢の香りが、蒸し暑い室内に広がった。

「ヒロ、扇ぐの上手になったねえ」

「マユの教え方がうまいからかしら」

 料理がからきしダメだという彼に、調理アシスト方法を根気よく教えたところ、今ではこんなに立派に成長した。

 ご飯を作ってあげるから家においで。最初のきっかけは確かにそれだった。それ以来、ヒロは帰る切っ掛けを失って、私は追い出す切っ掛けを失って、何となく二人、6畳一間で暮らしている。

「あたしが男に抱かれるのは、気持ちいいからじゃなくて……んー、気持ちはいいんだけど、それだけじゃなくて」

 ヒロは時々こうやって、自分の愛を語った。私に強要するわけではなく、ただ語る彼の言葉は心地よかった。

「植物って、水がないと死ぬじゃない? あたしにとって、そんな感じ」

「じゃあ私はサボテンなのかもね」

「……マユは男と触れ合うとぞっとしちゃうの?」

「ぞっとするのじゃないし、面倒ってわけでもない。ただ、理解できないって感じ」

 例えば雨の日に、傘を差して歩くな。と命令されているようなものだ。雨は体にまとわりついて不快だし、体は重い。

 でも周囲を見ると皆、傘も差さずに幸せそうに歩いている。水を求める植物か、水を浴びすぎると枯れてしまうサボテンかの違いだろう。

「お母さんのお腹の中にいたから、人が人と触れ合いたいのは本能だっていうけど、それってたった10ヶ月のことでしょ。それを何十年も引きずるとか、人間ってそんなに本能が弱いの?」

「……でも。あたしとは平気よね」

 ヒロは団扇を置いて、私の手にそっと自分の手を乗せた。

 それはこの夏の始まりの頃にも触れた温もりだ。不思議なことに、彼とは触れ合っても、嫌な気持ちにならない。

 大雨の中、突然現れた大樹のような人だった。

「あたしも、女の子に触れたのなんて、ほんと久しぶりだったの。いやな気持ちにならなかったのも、久しぶり」

「たぶん、ヒロとは魂のレベルで近いのかも」

「それか、あたしとマユはお母さんのお腹にいるとき、どこかですれ違ったのか、実は双子の片割れとか」

「そうじゃないと理解できないよね、ヒロ」

 二人で顔を見合わせて、笑う。

 ヒロは冗談で言っているのだろうが、私は本気だった。私にとってヒロは半身なのだろう。私の体に流れ込むはずの愛や欲の固まりが、ヒロという形になった。

 そして私の半身は今日も男に抱かれにいく。せめて気持良くありますように、悲しみませんように、と私は半身のために祈るのだ。

「で、ヒロはこの間振られて、次の彼氏は?」

 ミョウガ寿司の上に胡麻を振りかけてテーブルに運ぶ。あとは魚の煮付けと、お吸い物。

「聞かないで……体だけ、弄ばれて棄てられたのよ」

 テーブルに着くと、ヒロは迷わずマヨネーズに手を伸ばした。

 といってホテルで使われる立派なやつではない。安売りの、とってもチープなマヨネーズ。

 ヒロと一緒に暮らし始めて、私は彼のマヨネーズ偏愛を知った。

 今日もヒロは嬉しそうに、マヨネーズを煮魚にかける。

「マヨラーだから振られるんじゃない?」

「そんなことないわよ。好きな男にはこんな食生活みせないもの」

「そこはさらけ出さなきゃ」

「アセクシャルのくせに」

 ヒロは軽口を叩きながら、美味しそうに御飯をほおばる。

 窓から心地いい風がふいて、窓辺につるした風鈴がりん、となった。

「マヨネーズが男なら、あたし迷わず彼についてくわ」

「脂っこい男が好きとはしらなかった」

 食べながら私は窓の外をみる。都会の空は一見灰色に見えるが、気をつけてみていると、季節ごとに色が違うことに驚かされる。

 彼と暮らし始めて二ヶ月。盛夏が過ぎて、空気に秋の香りが混じりはじめてた。蝉の歌も、もう名残の声だ。残暑は厳しいが、季節は確かに巡っている。

「マヨネーズなら、あたしのこと振ったり別れたりしないと思わない? 家に帰ったら、冷蔵庫の中に必ずあるの。無くなれば、スーパーに買いに行くの」

 ヒロは愛おしげにマヨネーズに口づけを。私は苦笑して、ミョウガを箸の先でほじくり食べる。

 夏の終わりの味がした。


 そんな風に、終わりは唐突にやってくる。


「運命的な恋だとおもう」

 数日経って、ヒロが朝帰りした日。彼は歌うように叫びながら、家に駆け込んできた。

 私は一度だけ目を閉じて、頷く。

 終わりは唐突なのだ。

「やっと、振り向いて貰えたの、これ運命の恋だとおもう! 奇跡の恋だとおもわない?」

 ヒロの働く美容室に通う、常連の男前。ヒロの誘いにとうとう引っかかった。

 朝までファミレスで語り合ったのだという。おかしいほど、彼らの恋は健全だ。

 ヒロは全身で喜びを打ち震えさせて、私に抱きつく。

 湿ったような温もりが皮膚を伝わったが、嫌悪感は浮かばない。大樹に包まれているような心地よさがあるだけだった。

 彼は大慌てでシャワーを浴びて、もう寝ずにこのまま仕事にいくのだ。とはしゃいで言った。

「今夜、デートなの。どう、この格好」

「可愛いよ」

 とっておきの服で頭の先からつま先まで固めて、彼はモデルのようにその場で回ってみせる。

 彼の柔らかい癖毛が朝日に照らされ、黄金色に見えた。

「すっごく、可愛いよ。ヒロ」

 彼が恋をするたびに、私は姉のような、娘を持つ父のような覚悟でその姿を見送ってきた。

 彼と私の間には、離れてはならないという規則はなにもないのだ。

(さようならさようなら私の半身)

 いつもの黄色いスクランブルエッグは今日に限ってかちかちだ。しかしそんなことにもヒロは気付かず、マヨネーズをたっぷりかけてご機嫌顔。

 そして大きく手を振り、玄関に駆け出していくのだ。

 ヒロと別れることは辛いとは思わない。人を好きになって苦しいという気持ちも分からない。

 そもそも人の事を好きだなんて、どんな感情かも分からない。それはペットを可愛いとか、花が綺麗だとかそういう感情なのだろうか? それを生きている人間に思うなんて、とても滑稽だとおもうのだ。

 しかし私はマヨネーズが嫌いでヒロは好き。

 たとえばヒロがこの家を出てしまうと、私はマヨネーズを買わなくなり、結果、冷蔵庫からマヨネーズも消えてなくなる。

 そしてそれ以降、スーパーやコンビニでマヨネーズを見かけたら、ちょっと苦しい気持ちが口の中に広がるに違い無い。

 それを愛だとか情だとかいうのなら、きっと私はヒロに何らかの感情を抱いているのだろう。

 擬似的な、とても擬似的な、愛なのだろう。

「いってきます」

「ヒロ、頑張って」

「運命であり、奇跡だからね」

 お得意の投げキッスを一回。きしむ玄関を開けて飛び出していくその背は、淡い黄金に包まれて見えた。



 またいつかのように、大雨が降っていた。

 ぼんやりとスーパーのチラシをみているうちに部屋が薄暗く染まっていた。

 硝子を叩きつける雨の音で、やっと意識が戻った。顔を上げると、ぬるぬると雨の滴が硝子を伝わって落ちるのがみえた。

 ねっとりと湿った、それでいて冷たい空気が部屋を包んでいた。どこかで感じたことがある。そうだ、これは薄暗い消毒プールの香りだ。ぬるりとして薄暗い。水の音ばかりが耳に響く。あの閉息感、私は泳ぐのも大嫌いだった。

「御飯、作らなきゃ」

 意味もなく声を出す。部屋に声が響いておちた。6畳一間ってこんなに広かったっけ、なんておもう。いつもと違う昨日は、去った。

 また、いつかの夕立の日からやり直すのだ。ただ、それだけのことじゃないか。

「今日はショウガ焼きにしよう」

 今日はヒロが大好きな生姜焼きにするのだ。

 ざまあみろだ、と私は思う。

 立ち上がって、野菜入れからタマネギをとった。

 硬くて冷たいそれは、私の心に似ている。先を切り落として、皮をめくる。一枚、一枚めくっていくと真っ白な本体が顔を出す。

 しかし私の心のタマネギは、めくっていくと空虚があるだけなのだろう。

 がむしゃらにタマネギを切る。小さなテーブルの上で、さくさくと、白い汁を流して切れるタマネギはまるで泣いているようだった。

「ただいま!」

 雨の音が強くなる。それは玄関が開いたからだ。玄関と台所の距離はほんの30センチ。

 顔を上げると、いつかの緑の傘をもったヒロが笑っている。

 ああ。と、私は呟いた。

 そして、唐突に涙が溢れた。

「やだ泣いてるの? 手きった? 大丈夫?」

「タマネギが目にしみて」

 ヒロは慌てて部屋に駆け上がって、私の手を取る。私はまるで子どものような言い訳で、目をこすった。今度は本当に、タマネギの汁が目に染みる。

「いたっ」

「子供みたい。あ、そうそう、いいもの買って来た」

 ヒロは手からさげた紙袋から、小さなバケツを取り出した。手に包めるほど小さな可愛いバケツ。そこには、色とりどりの石が詰められて、真ん中には緑のサボテンがちょこんと鎮座していた。

「サボテンよ……この間、マユがサボテンって言ったでしょ。今日、雑貨屋さん覗いたらこの子がいたの」

 サボテンは小さいくせに、トゲトゲだけは立派で一人で気を張っているようだった。

「お店の人に聞いたんだけど、サボテンってね、やっぱり水が無いと生きていけないんだって。ただ、尖った棘に水を受けて、少しずつ体内にいれるんだって」

 棘を無くせばごくごく飲めるのに、それができない。ごくごくと水を飲む仲間を眺めて、サボテンは羨ましく思うのだろう浅ましく思うのだろう。それでも頑なに、棘に溜めた水を飲む。

 私はサボテンの棘を軽く撫でる。それは思ったより、心地のいい痛みだった。

 そしてやっと、私はヒロを見上げた。

「そういえば、奇跡の男とデート。しなかったの?」

「ぜんぜんだめ。やっぱり夜だけ格好いい人ってダメね。昼にみると、全然ダメ」

 待ち合わせの段階で、振ってきた。と、ヒロは張った。いつか雨の日に棄てた男と、その男が被ったのだという。

「運命の恋って、案外難しい……あ!」

 きゃあ。とヒロは女の子のような悲鳴を上げる。

「生姜焼きね!」

「晩ご飯、ちょっと遅れるよ。だってヒロが戻って来るなんて、聞いてなかったし」

 じゃあ御飯を炊こう。いつも通り、二人分の御飯を。流れる水で米を研ぎながら、私は肩口で涙を拭った。

 何が嬉しいのか、何が寂しいのか、何が苦しいのか、私の涙はずるずる流れる。口に流れ込んだ涙は、水の味がする。

「奇跡ってどこにあるとおもう?」

 ヒロが着替えながら、ぶうぶうと口を尖らせるのがみえた。せっかくのお気に入りの服を、彼は丸めてランドリーボックスに投げ入れる。

「絶対、奇跡な恋だと思ったんだけどなあ」

「さあ……やっぱりマヨネーズなんじゃない? ヒロの運命の人」

「じゃああたし、冷蔵庫の中に嫁がなきゃ」

 からから笑う彼を眺めて、続いて手元の真っ白いとぎ汁を眺めて、私は小さく「これが奇跡だ」とつぶやいた。

 この平穏が奇跡なのだとしたら、それが続くことへの感謝と祈りを。私は生まれてはじめて、見たこともない神に祈った。

 一雨ごとに秋が近づく、そんな頃。6畳一間に、甘い甘い、生姜焼きの香りに包まれる夕暮れの頃。

 夕立は、いつの間にか降り止んでいた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 二人のやりとりを見ていてすごく癒やされました。 このちぐはぐさがたまらなく好きです
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