婚約破棄の場に居合わせたので、王太子殿下に空気を読まずに質問してみた
皆様のおかげで、(日間)総合-すべて、で1位をいただきました。
全て日頃から応援してくださる皆様のおかげです。
今後も皆様に楽しんでいただけるような作品を作ってまいりますので、よろしくお願いいたします。
卒業パーティーの大広間で、王太子フレデリク殿下が婚約破棄を宣言したとき、俺は鶏の香草焼きを口に入れたところだった。
「イザベラ・ロートシュタイン! 私は、君との婚約を破棄する!」
楽団が止まった。グラスの音が止まった。
俺の顎も止まった。鶏の皮が、歯の間で中途半端に残った。
大広間の真ん中で、殿下は片手を胸に当てていた。
その隣に、特待生のリナが立っている。平民出身で、学年で三本の指に入る成績の女の子だ。殿下の袖を、そっとではなく、けっこうしっかり掴んでいた。
殿下の正面には、イザベラ嬢がいた。
ロートシュタイン公爵家の令嬢。殿下の婚約者。銀色の髪をきっちり結い上げて、背筋をまっすぐに伸ばしている。この学院で「理想の淑女」と言われたら、全員がこの人の顔を思い浮かべる。
「私は、生まれたときから王太子だった!」
殿下は、声を張った。
「物心ついたときには、もう王になるための教育が始まっていた! 剣も、礼法も、外交も、税も、全部だ! 父上ですら、私を息子より先に王太子として見た! 周りの大人は褒めてくれる。だがそれは、王太子の私を褒めているだけだ!」
大広間が、しんとした。
ここまでは、正直、ちょっと分かると思った。
「そんな私を、初めて一人の人間として見てくれたのが、リナだった!」
殿下は、リナの手を取った。
リナが、真っ赤になりながら頷いた。
「彼女は、私の身分に怯まなかった。私の話を、王太子ではなく、フレデリクとして聞いてくれた。私は、この人と共に、この国を良くしていきたい!」
あ、これ知ってる、と俺は思った。
前世で読んだやつだ。
孤独な王子。身分を気にしない平民の少女。冷たい婚約者。最後は真実の愛が勝って、めでたしめでたし。
日本で会社員をやっていたころ、通勤電車で何冊も読んだ。わりと好きだった。
俺は鶏の皮をようやく飲み込んで、成り行きを眺めることにした。
転生して十八年。ハーゲン子爵家の次男、アラン・ハーゲンとして生きてきた俺にとって、これは生で見られる王道展開だった。不謹慎だが、ちょっと楽しかった。
――殿下が、次の言葉を言うまでは。
「イザベラ。君は十二年間、一度も私を見なかった。君が見ていたのは、いつも王太子という役目だけだ。王族の責務、王族の誇り、王族の振る舞い。君の口から出る言葉は、それだけだった」
イザベラ嬢は、何も言わなかった。
扇を持った手が、少しも動かなかった。
「君といると、息が詰まった」
大広間の空気が、変わった。
それは、言うのか。
本人の前で。全校生徒の前で。十二年間、婚約者をやってきた人に。
俺は、皿を置いた。
◇
周りの生徒たちは、誰も動かなかった。
公爵令嬢に同情したいが、王太子に逆らいたくない。そういう顔が、大広間じゅうに並んでいた。
そのとき、俺の左の脇腹を、誰かが肘でつついた。
同じクラスのマルクスだった。
「……おい」
「何だよ」
「お前、何か言えよ」
「何で俺なんだよ」
右から、別の肘が来た。ヨハンナだった。伯爵家の令嬢で、普段は俺のことを「空気の読めない男」と呼んでいる。
「こういうときこそ、あなたでしょう」
「どういう評価だよ!」
「先月、歴史の講義で教授に『その戦争、勝った側も損してません?』って聞いて、講義を二時間延長させたのは誰?」
「あれは、本当に損してたんだよ!」
「その調子でお願い」
「何でこういうときだけ、俺の空気の読めなさを評価するんだよ!」
後ろから、さらに三人くらいが小声で言った。
「いけ、ハーゲン」
「いつものやつ」
「頼む、俺たちには無理だ」
俺は、大広間の真ん中を見た。
殿下は、まだ喋っていた。
リナは、殿下の手を握っていた。
イザベラ嬢は、扇を持ったまま、ずっと立っていた。
――十二年、と俺は思った。
俺は、手を挙げた。
「……あの。質問、してもよろしいでしょうか」
大広間じゅうが、俺を見た。
殿下が、眉を上げた。
「ハーゲン子爵家の。……よい。申してみよ」
殿下は余裕のある顔をしていた。
たぶん、応援の言葉が来ると思っていた。
◇
「殿下のお気持ちは、分かる気がします」
俺は、まずそう言った。本心だった。
「生まれたときから王太子で、自分の人生を自分で選べなかった。周りからは役目でしか見てもらえなかった。それは、つらかったと思います」
「そうだろう!」
殿下の顔が、ぱっと明るくなった。
リナも、ほっとした顔をした。
「それで、一つだけ伺いたいんですけど」
「何だ」
「イザベラ様は、何歳から婚約者でいらしたんですか」
「……六歳だ」
「じゃあ、イザベラ様も、六歳から王妃になるための教育を受けてこられたんですよね」
「それは、そうだが」
「イザベラ様は、それを自分で選んだんですか?」
殿下が、止まった。
「六歳の女の子が、『私、王妃になりたいです』って自分から言ったんですか」
「……いや、それは、家同士の」
「ですよね」
殿下は、すぐに立て直した。さすがに頭の回転は速い。
「だが、イザベラにも別の人生があるだろう! 婚約がなくなれば、彼女は自由になれる! これは彼女のためでもある!」
「なるほど」
俺は頷いた。
「では、殿下にも、別の人生があるのでは?」
「私は王族だ。血筋から自由になることは、そう簡単ではない」
「ええ。その通りだと思います」
これも、本当にその通りだった。殿下は、馬鹿ではない。
「だからといって、他の方の人生を、殿下が勝手に決めていいことにはなりませんよね?」
「勝手に決めてなど――」
「イザベラ様に、婚約破棄していいか聞きました?」
殿下が、口を開けた。
閉じた。
「……今、言っているではないか」
「それ、聞いてるんじゃなくて、宣言ですよね」
マルクスが、俺の後ろで、すげえ、と小さく言った。
いや、すげえじゃない。お前が押したんだろ。
「フレデリク様は、優しいんです!」
リナが、殿下の腕にしがみついたまま言った。
「だから、イザベラ様に面と向かって言えなかったんです。ずっと我慢してたんです!」
「じゃあ、今日も我慢しててよかったのでは……」
「今日しかなかったんだ!」
殿下が叫んだ。
「なんでです?」
「卒業パーティーだぞ! 全員が揃う! 一生の記念になる!」
「記念!?」
大広間のあちこちで、同じ声が上がった。俺だけじゃなかった。
「人の婚約破棄を、記念に!?」
「私の記念だ!」
「イザベラ様の記念にもなりますよね、悪い意味で!」
「そこまでは考えていなかった!」
「考えてください!」
殿下は、咳払いをした。
それから、胸を張った。
「とにかく! 王太子である私が決めたことだ!」
俺は、思わず聞き返した。
「……さっき、王太子としてしか見てもらえないのが、つらいって仰いませんでした?」
「…………」
「こういうときだけ、王太子なんですか?」
殿下は、口を開けたまま、止まった。
後ろで、ヨハンナが「それ」と小さく言った。
◇
「待ってください!」
リナが、殿下の前に出た。
「フレデリク様は、間違ってません! この国の貴族は、生まれだけで全部決まってしまう。平民がどれだけ頑張っても、上には行けない。そういうのを変えたいって、フレデリク様は言ってくれたんです!」
「それは、大事なことだと思う」
俺は、すぐに言った。
リナが、拍子抜けした顔をした。
「え」
「身分の差で、学ぶ機会が違うのはおかしい。俺もそう思う。リナさんの問題意識は、正しいと思う」
「……じゃあ」
「ただ、平民なら自由ってわけでも、ないよね」
「……え?」
「農家に生まれたら、畑を継ぐことを期待される。商家に生まれたら、店を継ぐことを期待される。鍛冶屋なら、鍛冶屋。それも、生まれで決まる人生じゃない?」
リナは、黙った。
彼女の実家は、たしか王都の東の、粉屋だったはずだ。
「王族とは重さが違う。それは分かる。でも、自由なのは平民だけ、窮屈なのは王族だけ、ってわけじゃない。みんな、それぞれ何か背負ってる」
「でも、だからこそ変えたいんです! 私、王妃になれば、もっと大きな改革ができます!」
「それは、そうだろうね」
俺は認めた。認めてから、聞いた。
「それで、王妃になるための準備は?」
リナが、止まった。
「外交。財政。法律。国内の貴族の利害関係。王室の儀礼。王妃としての公務。イザベラ様が十二年かけてやってきたことを、リナさんは、いつ、どうやって?」
「…………」
「私が支える!」
殿下が、リナの肩を抱いた。
「そうですか。ちなみに殿下、王妃の公務って、年に何件あるかご存じですか」
「…………」
「来月の、南方三国の使節団の接待役、今のところイザベラ様のお名前で準備が進んでますけど」
「……なぜ、お前がそんなことを知っている」
「うちの父が、接待の食材の発注を受けてるので」
ハーゲン子爵家は、王宮に食材を卸している。地味だが、こういうときだけ役に立つ。
「改革以前に、まず引き継ぎからですね」
大広間の後ろのほうで、誰かが噴き出した。
◇
リナは、唇を噛んでいた。
「……私だって、考えてないわけじゃありません」
リナは、懐から紙を一枚出した。
「王都の下町に、読み書きの無料教室を作りたいんです。教会の空き部屋を使えば、建物のお金はかからない。先生は、学院の卒業生に一年だけ頼む。そのかわり、その一年を、官吏の採用のときに経験として数える」
俺は、紙を受け取った。
読んで、驚いた。
ちゃんとしていた。予算の見積もりまで、書いてあった。
「……これ、すごくいいと思う」
「本当ですか」
「本当に。教会の空き部屋を使うのも、卒業生の一年を経験に数えるのも、うまい。これ、王妃にならなくても、今、学院の名前で提案できるよ」
「え……」
「特待生って、そのための制度でしょ。国が、優秀な平民の頭を借りたくて作った制度。リナさんがここにいる時点で、もう、国を変える側に入ってる」
「待て」
殿下が、横から紙を取った。
目を走らせたのは、ほんの数秒だった。
「教会の空き部屋は、冬は使えない。下町の教会は、十一月から三月まで救貧院の寝床になる。それに、卒業生の一年を官吏の経験に数えるなら、採用規則の改正が要る。人事院と財務局、両方の印がなければ通らない」
俺は、黙った。
言われてみれば、全部そのとおりだった。
「……そこは、確かにそうですね」
「冬のあいだは、学院の講堂を夜だけ借りればいい。規則の改正は、私が人事院長に話を通せる」
リナが、目を輝かせて殿下を見上げた。
「フレデリク様、すごい……」
「当然だ。十八年、こういうことを学んできたからな」
殿下は、胸を張った。
それから、勢いのまま続けた。
「だからこそ、私と結婚すれば、リナの改革は全部通せる!」
「……殿下」
「何だ」
「今、殿下、人事院長に話を通せるって仰いましたよね」
「言った」
「それ、結婚しなくても、殿下が王太子として推薦状を一枚書けば済む話では?」
殿下が、止まった。
「…………」
「…………」
「……済むな」
大広間のどこかで、誰かがテーブルに額をぶつけた音がした。
リナは、紙と俺の顔を見比べた。
「じゃあ、なんで私、王妃にならなきゃって……」
「それは、殿下が王太子だからじゃない?」
リナは、殿下を見た。
殿下は、リナを見た。
二人とも、何か言いかけて、やめた。
それから、リナがぽつりと言った。
「……あの。王妃になったら、礼儀作法とか、ああいうの、全部、私がやるんですか」
「やるね」
「イザベラ様みたいに?」
「イザベラ様みたいに」
「……私、さっきまで、イザベラ様のことを、礼儀ばっかりで冷たい人だって」
リナの声が、小さくなった。
それから、顔を上げた。
「必要な礼儀なのは、分かりました。でも、だからって、冷たくしていい理由にはならないと思います。私、入学したとき、イザベラ様にご挨拶したんです。目も、合わせてもらえませんでした」
俺は、少し考えた。
「……それは、確かにそうかもしれない」
そのとき、それまで一度も口を開かなかったイザベラ嬢が、扇を下ろした。
「ええ。それは、私の落ち度ですわ」
大広間が、静まった。
「王太子殿下の婚約者が、特定の学生と親しくすれば、派閥が生まれる。そう教わって、必要以上に距離を置きました。あなたにだけではなく、どなたにも。……申し訳ありませんでした」
イザベラ嬢は、リナに向かって、完璧な角度で頭を下げた。
リナは、両手を振った。
「あ、いえ、そんな、私、別に……」
「いいえ。おっしゃるとおりですわ」
リナは、何か言おうとして、言えなくて、結局、殿下の袖を握り直した。
◇
殿下は、まだ負けていなかった。
「ハーゲン! お前の言うことは、すべて後からなら何とでも言える理屈だ!」
「はい、そうかもしれません」
「それに、私には信頼できる側近がいる! ベネディクト! ガストン! ウィルフレッド!」
殿下は、後ろに控えていた三人を振り返った。
宰相家の長男、ベネディクト。
騎士団長家の次男、ガストン。
財務卿家の嫡男、ウィルフレッド。
全員、成績上位。全員、将来の国の中枢。全員、さっきから一言も喋っていなかった。
「彼らも、私の決断を支持している! そうだな!」
三人が、顔を見合わせた。
「……殿下のご判断ですので」
ベネディクトが言った。
俺は、三人のほうを向いた。
「皆さんは、殿下の今日の計画、ご存じだったんですか」
「……ある程度は」
「止めなかったんですか」
三人は、また顔を見合わせた。
「宰相になる方なら、まずい政治判断は止める役目ですよね。騎士団長になる方なら、無茶な命令は止める役目。財務を預かる方なら、お金の流れを無視した話は止める役目」
俺は、三人を順番に見た。
「今回、なんで誰も止めなかったんですか?」
ベネディクトが、ガストンを見た。
「私は、騎士団長候補が諫めるものと」
ガストンが、ベネディクトを見た。
「俺は、宰相候補が言うもんだと」
ウィルフレッドが、二人を見た。
「私は、お二人のどちらかが」
大広間に、妙な沈黙が落ちた。
「全員、他人任せ!?」
俺の声が、思ったより大きく響いた。
殿下が、側近たちを振り返った。
「お前たち、そんなことを考えていたのか!」
「殿下が聞いてくださらないからです!」
ガストンが、思わず叫んだ。
「去年の夏、北の砦の兵の配置について申し上げたら、殿下は『細かい話は後で』と!」
「秋には予算の件で!」
「冬には、まさに婚約の件で!」
「言ってたのか!?」
「言いました!」
「三回とも聞いてなかったんですか!?」
俺が言うと、殿下は言葉に詰まった。
「……聞いた気はする」
「聞いた気はする!?」
俺は、三人のほうに向き直った。
「じゃあ、冬に婚約の件は言った。それはいいとして」
「はい」
「今日、ここで、卒業パーティーで婚約破棄を宣言するっていうのは、知ってました?」
三人が、黙った。
「……昨日、伺いました」
「止めました?」
「私は、『おやめになったほうが』と」とベネディクト。
「俺は、『マジっすか』と」とガストン。
「私は、黙って頷きました」とウィルフレッド。
「最後のは何!?」
殿下が、三人を振り返った。
「お前たち、なぜもっと強く止めなかった!」
「殿下が『歴史に残る』と目を輝かせていらしたからです!」
「輝かせていない!」
「輝いてました」
「ベネディクト、お前まで!」
「殿下は、目を輝かせているときに止めると、三日口をきいてくださいません!」
「それは子どもの頃の話だろう!」
「先月もそうでした!」
「四人とも、ちょっと黙ってください!!」
俺の声が、大広間に響いた。
四人とも、黙った。
ベネディクトが、苦々しい顔で言った。
「……それでも、もっと強く申し上げるべきでした。それは、私たちの怠慢です」
「それ、今言えるんだ……」
「今だからです」
俺は、少し調子に乗った。
「そもそも王太子殿下の婚約って、王家典範の第七条で、本人の宣言だけでは解消できないことになってますよね」
「第九条です」
ベネディクトが、即座に言った。
「……え」
「三年前の改正で、第七条は王族の財産の規定に移りました。婚姻は第九条です」
「……すみません」
マルクスが、後ろで「間違えた」と小声で言った。うるさい。
「でも、内容は合ってます」
ベネディクトは、眼鏡を押し上げた。
「宣言だけでは解消できません。国王陛下とロートシュタイン公爵家の、正式な手続きが要ります」
「それ、殿下に言えばよかったのに!」
「ですから、今申し上げております」
◇
殿下は、肩で息をしていた。
リナは、自分の改革案の紙を握りしめていた。
側近の三人は、半歩ずつ、殿下から離れていた。
それでも、殿下は顔を上げた。
「……私は、平民の女性を愛した」
声が、少し震えていた。
「彼女と共に、この国を良くしたいと願った。その願いが間違っているとは、どうしても思えない」
大広間が、静まり返った。
「私は十八年間、王になるために学んできた! 国を良くする方法を考え、王族としての責任を果たそうと、努力してきたんだ!」
殿下の拳が、震えていた。
「その私が、初めて自分の意思で、共に歩みたい人間を選んだ! その選択まで、否定されるのか!」
その声には、本物の痛みがあった。
殿下の十八年は、本物だ。
毎朝早くに起きて剣を振り、夜遅くまで本を読み、笑いたいときに笑えなかった十八年。それは、嘘じゃない。
だから。
「殿下。リナさんを好きになったことを責めてる人は、ここには一人もいません」
「……何?」
「責められてるのは、婚約の片づけ方のほうです。それと――」
俺は、殿下の顔を見た。
「貴方が、それを言いますか?」
「……何?」
「殿下の愛のために、イザベラ様の十二年が、今まさに否定されかかってるんですけど」
殿下が、目を見開いた。
「殿下の十八年は、大切です。本当にそう思います。でも、イザベラ様の十二年は?」
「それは……」
「側近の皆さんが、殿下を支えるために勉強してきた年月は?」
「…………」
「殿下は、さっき、自分の人生を選ぶ権利があるって仰いましたよね」
俺は、イザベラ嬢のほうを見た。
イザベラ嬢は、まだ、扇を持ったまま立っていた。
最初から、ずっと同じ姿勢で。
「イザベラ様には、いつ、その権利があったんです?」
殿下は、口を開いて、閉じた。
それから、もう一度、口を開いた。
「……だが。私との婚約が、本当に彼女を幸せにしていたのか?」
それは、今夜いちばん、まともな問いだった。
「それは、分かりませんね」
俺は、正直に言った。
「ならば!」
「ですが、それを決めるのも、殿下お一人ではありませんよね?」
「……」
「イザベラ様に、ご自身の希望を、尋ねたことは?」
殿下は、拳を握った。
「私は、彼女のためにも婚約を解消すべきだと考えたんだ! 王妃などという重荷から、解放してやるべきだと! 彼女だって、本当は――」
「殿下」
イザベラ嬢の声が、大広間に通った。
大きな声ではなかった。
いつもの、鈴を転がすような、完璧な声だった。
「私の幸せについて、私抜きでお話しされるのは、そろそろおやめいただけます?」
殿下が、止まった。
大広間の誰も、動かなかった。
殿下は、イザベラ嬢を見た。
十二年間、隣に立っていた婚約者の顔を、もしかしたら初めて、ちゃんと見た。
「……」
「……私は、君のことを、何も知らなかったんだな」
殿下は、それだけ言った。
しばらくして、もう一言、付け足した。
「……すまない、イザベラ」
イザベラ嬢は、初めて扇を閉じた。
「殿下」
鈴を転がすような、完璧な声だった。
「謝罪を、お受けいたします。婚約の件は、陛下と父の正式な手続きをもって、お話を進めさせていただきますわね」
「……ああ」
「それから」
イザベラ嬢は、優雅に一歩、前に出た。
「殿下。最後に一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「……ああ。何でも言ってくれ」
殿下は、神妙な顔で頷いた。
イザベラ嬢は、微笑んだ。
十二年間、王宮のあらゆる場で磨き上げられた、非の打ちどころのない淑女の微笑みだった。
「ありがとうございます。では」
「一発だけ、殴らせてくださいませ」
「へ?」
ドッッッッゴォォォォォォォン!!!!
殿下が、消えた。
正確には、大広間の端まで、真横に飛んでいった。
壁に、殿下の形の穴が開いた。手足を広げた、きれいな人型だった。
大広間の誰も、声を出さなかった。
俺も出なかった。マルクスも、ヨハンナも、側近の三人も、リナも。楽団長が、持っていた指揮棒を落とした。からん、と音がした。
イザベラ嬢は、拳を下ろした。
乱れた後れ毛を一筋、指先で耳にかけた。
それから、壁にめり込んだ殿下のほうへ、優雅に向き直った。
「私も、殿下を一人の殿方として見る努力が、足りませんでした」
壁の中で、殿下がぴくぴくしていた。
「理想の王としてのお姿ばかりを追い求め、殿下ご自身のお気持ちに寄り添えなかったことを、心よりお詫び申し上げます」
「……ぅ……」
「それでは、皆様」
イザベラ嬢は、大広間に向かって、完璧な角度で膝を折った。
「ごきげんよう」
そのまま、裾を一切乱さずに、大広間を出ていった。
扉が閉まった。
誰かが、ごくりと唾を飲んだ。
「……今の、何?」
ヨハンナが言った。
「拳、見えた?」
「見えなかった」
「魔力、乗ってたよな」
「乗ってた。たぶん、身体強化の上位の」
「上位の何」
「分かんない。俺が知ってるやつじゃない」
ベネディクトが、眼鏡を押し上げながら、震える声で言った。
「……ご存じなかったんですか。ロートシュタイン領の、北の山を切り開いて街道を通したのは、あの方ですよ」
「……山を?」
「ええ。三年前に。大規模攻撃魔法で」
「山を!?」
リナが、小さく手を挙げた。
「あの……私、去年、実家の粉を売りに北の町まで行ったとき、新しい街道を使いました。あれ、すごく楽で。前は山を回り込んで三日かかってたのが、一日になって」
リナは、閉まった扉を見た。
「あの街道、イザベラ様が……?」
「通しました」
「……私が王妃になったら街道の整備をしなければと考えていたのに、もう、やってた……」
壁の中で、殿下がもう一度、ぴくりと動いた。
◇
三日後、俺は王宮の謁見の間の、いちばん後ろに立たされていた。
あの夜、手を挙げて質問した者として、証人の一人に呼ばれたのだ。
玉座の前に、フレデリク殿下が立っていた。
壁にめり込んでいた割に、ちゃんと立てているのには感心した。
その少し後ろに、ロートシュタイン公爵とイザベラ嬢。反対側に、側近の三人。
国王陛下は、短く言った。
「婚約は、ロートシュタイン公爵家との協議のうえ、正式に解消とする」
それから、殿下を見た。
「フレデリク。平民の娘を想ったことは、特に咎めぬ」
殿下の肩から、目に見えて力が抜けた。
「だが、婚約者本人とも、相手方の家とも、正式な話し合いを一度もせず。王家の婚姻という重大事を、卒業の宴で、一方的に決めようとした。周りの諫めも、聞き流した」
陛下は、手元の書類を一枚めくった。
「この三日、枢密院と話し合った。その判断を、国を治める者のものとして見過ごすことはできぬ。それが皆の結論だ」
殿下の肩に、もう一度、力が入った。
「王太子の位は、エミールに移す」
謁見の間が、静まり返った。
殿下は、一歩前に出た。
「父上、私は王太子として――」
言いかけて、止まった。
「もう違う」
国王陛下は、それだけ言った。
殿下の口が、「王太子」の形のまま止まっていた。
胸に当てかけた右手が、行き場をなくして、ゆっくり下りた。十八年、その言葉と一緒に上げてきた手だった。
殿下は、何も言わなかった。
しばらくして、深く頭を下げた。
「お前は王の子だ。それは変わらぬ。王族の務めも残る」
陛下は、そこで初めて、父親の顔になった。
「王でないお前が、何をして国の役に立つか。それを、今度こそ、自分で考えろ」
謁見の間を出るとき、殿下は俺の横を通った。
立ち止まって、何か言いかけた。
「……ハーゲン」
「はい」
「……」
「……」
「……壁の修繕費、財務卿が一晩寝込んだそうだ」
「それ、今言います!?」
殿下は、そのまま歩いていった。少しだけ、口の端が上がっていた気がした。
人間って壁にめり込んでも、意外に三日で普通に歩けるんだな、と感心してしまった。
◇
あれから、半年が経った。
リナは、学院の名前で、読み書き教室の提案書を王宮に出した。冬は学院の講堂を借りる案で。
一回目は、教会との調整不足で差し戻された。二回目は、採用規則の件で人事院と揉めた。推薦状は、フレデリク様が一枚書いた。王太子ではなく、王族の一人として。
三回目の提案書を、今、書いている。
「王妃になってたら、一回目で通ったのかな」
廊下ですれ違ったとき、リナはそう言って、自分で首を振った。
「いや。たぶん一回目で、何も分からないまま通して、あとで全部崩れてた」
フレデリク様とリナが、その後どうなったのかは、知らない。ときどき図書館で、二人が並んで同じ書類を睨んでいるのを見かける。何を話しているのかまでは、聞かないようにしている。
側近の三人は、新しい王太子のエミール殿下に付く前に、それぞれ現場に送られた。ベネディクトは地方の行政局へ。ガストンは北の国境の砦へ。ウィルフレッドは財務局の、いちばん地味な帳簿の部署へ。
先月、王宮の回廊で、三人がフレデリク様と行き合うところに、俺はたまたま居合わせた。
「お前たち、随分と逞しくなったな!」
「殿下も、一度、現場に出られるべきです!」
ガストンが、間髪を入れずに言った。日焼けして、一回り大きくなっていた。
「……何か、すまん」
「でしたら、来週から国境の砦へ」
「それとこれとは別ではないか!?」
「別ではありません!!」
三人の声が、揃った。半年前には一度も揃わなかった声だった。
「……本気で言っているのか?」
「もちろんです!」
フレデリク様は、三人の顔を順番に見た。
それから、腕を組んで、長いこと黙っていた。
「……分かった。行く」
「え」
今度は、三人のほうが固まった。
「行くと言った。ただし、三か月だ。その先どうするかは、私が自分で決める」
フレデリク様は、そう言って、回廊を歩いていった。
三人は、しばらく顔を見合わせていた。言い負かすつもりはあっても、本当に行くとは思っていなかったらしい。
フレデリク様は、翌週から三か月、北の砦に行った。帰ってきたら、ガストンより日焼けしていた。砦の兵の配置について、新しい案を三つ持って帰ってきた。そのうち二つは、去年の夏にガストンが言っていたことと、ほとんど同じだった。
◇
イザベラ様は、婚約解消の翌月から領地に戻って、山を吹き飛ばし始めた。
正確には、領地の西の峠を削って、新しい水路を通し始めた。王妃教育で叩き込まれた土木と財政の知識と、十二年分の王宮の人脈と、我慢していた大規模攻撃魔法を、全部まとめて使って。
工期は、当初の見積もりの四分の一だったらしい。
ある日、隣国の王家から求婚の使者が来た。その場に居合わせた人の話では、こうだったそうだ。
「我が国の王子の妃に、ぜひ貴女を!」
「まあ。光栄ですわ」
「では!」
「ですが、その場合、また王妃教育が必要になりますでしょう?」
「当然です」
「では、お断りいたしますわ」
「即答!?」
「来月は、山を三つほど片づける予定ですので」
「山を!?」
使者は、なぜか山のほうに感心して帰っていったという。
◇
俺のほうはというと、あの夜のあと、何故かあっちこっちから相談が来るようになった。
最初は同級生からだった。次にその親。それから王宮の役人、商人、領主の使い。
気がつけば、ハーゲン子爵家の応接間に、見覚えのない人間が毎日のように出入りするようになっていた。
「アラン」
ある朝、父に書斎へ呼び出された。
ハーゲン子爵家は、王宮の食料の調達と管理を担っている。父は収穫量から備蓄計画まで頭に入っている、数字と書類には滅法強い人だ。
その父が、机の上に手紙の束を叩きつけた。
「お前、今度は何をした!?」
「今度はって何ですか、今度はって」
「入学した年は教授から苦情が来た! 去年は講義を二時間延長させたと連絡が来た! そして今度はこれだ!」
父は、手紙を一通つまみ上げた。
「侯爵家から、婚約についての相談!」
もう一通。
「商業組合から、取引慣行の見直しについての相談!」
さらに、もう一通。
「王宮の人事院から、組織運営についての意見照会!」
「……父上、最後のは結構すごくないですか?」
「すごいかどうかを聞いているんじゃない!!」
父は、頭を抱えた。
「うちは食料を扱う家だぞ! 食料を! なぜ王宮の人事院が、十八の息子に組織運営を相談する!?」
「俺にも分かりません」
「分からんのに相談されているのか!?」
「それを今、父上に相談したいんですが」
「相談を増やすな!!」
父は、残った最後の一通を、ほかの手紙より強く机に叩きつけた。
「それに、ロートシュタイン公爵家のご令嬢まで!」
「イザベラ様がどうかしました?」
「どうかしました、じゃない! 先月は西の峠を削る相談、その前は水路の話! お前と話すたび、あの方の事業の規模が大きくなっているんだぞ!」
「……それは、もともとイザベラ様が考えていたことで」
「では、なぜ毎回うちに来る!?」
「話していると、面白い考えが浮かぶそうです」
「その面白い考えが怖いと言っているんだ!!」
父は、額を押さえた。
「お前に相談する前は山一つだったのに、帰る頃には山脈の話になっている!」
「そこは俺の責任じゃないですよね!?」
父は、椅子に崩れ落ちた。
実際のところ、俺は大したことをしていない。
先日、ある伯爵家の使いに「息子が家業を継ぎたがらない」と相談されたので、「息子さん本人には、理由を聞きました?」と返した。三日後、感謝状が届いた。
商人に「共同経営者と意見が合わない」と相談されたときは、「相手の方は、何と言っているんです?」と聞いた。翌週、菓子の詰め合わせが届いた。
昨日は王宮の役人に「部署間の意思疎通がうまくいかない」と相談されたので、「皆さん、一度、同じ部屋で話したことあります?」と聞いた。
今朝、王宮からまた手紙が届いた。
「……何でみんな、俺に相談する前に、本人と話さないんですかね」
「お前が言うな!!」
父が、立ち上がった。
「卒業パーティーで王太子殿下に質問したのは、どこの誰だ!?」
「俺ですけど」
「その結果、どうなった!?」
「……婚約が解消されました」
「それだけか!?」
「王太子が変わりました」
「それだけか!?」
「公爵令嬢が、王子殿下を壁に……」
「そうだ! 壁だ!!」
父は、机を叩いた。
「壁に穴が開いたんだぞ! 人の形の!! うちは王宮に食材を納めているんだ! お前が何かするたび、食材じゃなくて始末書を納める羽目になるんじゃないかと、こっちは気が気じゃない!!」
「始末書は、まだ一通も納めてませんよ」
「まだ!?」
父は、天井を仰いだ。
しばらくして、深いため息をついた。
「……アラン。頼む。しばらく、王家とその周りには関わるな」
「俺から関わってるわけじゃないんですけど」
「では、向こうから来ても断れ!」
「分かりました」
そのとき、扉が叩かれた。
執事が顔を出した。
「旦那様。ロートシュタイン公爵家のイザベラ様が、お見えでございます」
父の動きが、止まった。
「……また?」
「はい。今月三度目でございます」
「断れと言った直後だぞ」
「旦那様が仰ったのは、王家とその周りでございますので。ロートシュタイン公爵家は、どちらに入るかと」
「周りだ!! どう考えても周りだ!!」
父が、ゆっくり俺を見た。
俺も、父を見た。
「アラン」
「はい」
「今度は、何の話だ」
「まだ何も聞いてませんって!!」
廊下の向こうから、鈴を転がすような声がした。
「本日も、お邪魔いたしますわ」
父は、ぴしりと背筋を伸ばした。
さっきまで机を叩いていた人と同一人物とは思えないほど、完璧な礼を取った。
「よ、ようこそお越しくださいました、イザベラ様!」
「まあ。お父様もご一緒でしたのね」
イザベラ様は、相変わらず、非の打ちどころのない淑女だった。
銀色の髪。完璧な姿勢。完璧な微笑み。右手の指の付け根が、ほんの少しだけ、赤くなっていた。
「アラン様に、また少々ご相談がございまして」
父の顔から、血の気が引いた。
「……ご相談、ですか」
「ええ。少々、大きな障害を取り除きたいのです」
父の視線が、俺に向いた。
俺は、嫌な予感がした。前回も、前々回も、この言い方から始まった。
「……先に聞きますけど、今日こそ、山を吹き飛ばす話じゃないですよね?」
「まあ。どうしてお分かりになったのです?」
「当たってるの!?」
父が、無言で椅子に座り直した。
イザベラ様は、楽しそうに扇を開いた。
「飛龍に乗って、上空から大規模魔法を放てば、工期をさらに大幅に短縮できると思いますの」
「……まず、どこの山の話ですか」
「北部山脈ですわ」
「山脈!?」
「ええ。街道の整備が進まなくて、向こう側の村の方々が困っておりますの。冬になると、麦を売りに出られなくなって」
俺は、少し考えた。
「……それなら、確かに検討する価値はありますけど」
「でしょう?」
「ただし、下流への影響とか、崩れた土砂の行き先とか、費用とか。全部、先に確認しないと」
「では」
イザベラ様は、扇を閉じた。
「あなたも、一緒に考えてくださいます?」
「……俺も、ですか」
「ええ。あなたとお話ししていると、面白い考えが浮かびますもの」
それから、少しだけ首を傾げて、付け足した。
「実は、あの夜も。あなたが手を挙げてくださらなければ、私、たぶん、殿下を二発殴っておりましたわ」
「二発!?」
「一発で済んで、助かりました」
それは、助かったのは殿下のほうではないだろうか。
イザベラ様は、優雅に一礼した。
「それと。今度、ご一緒に飛龍に乗りませんこと?」
「……ちなみに、そのとき、魔法は撃たないですよね?」
「善処いたしますわ」
「そこは約束してください!!」
イザベラ様は、聞こえなかったふりをして、楽しそうに笑った。
十二年の間、ずっと浮かべていた淑女の微笑みじゃなかった。
たぶん、こっちが本物だ。
(了)




