File 27 ブッシュ・ド・ノエル
「いつも応援ありがとうございます!さくら台駅前ペット探偵事務所、第27話です。
今回はいつもと違う展開?お楽しみください!」
保護から数十分後の夜。 『さくら台動物病院』の診察室では、依頼人の斉藤さんが、診察台の上のレオをしっかりと抱きしめ、安堵の涙を流していた。
「レオ……っ! 本当によかった……。大手の探偵さんには対応してもらえなくて絶望していましたが……イナガキさん、ヒカルさん、本当にありがとうございました!」
「保護できて、本当によかったよ。足の裏も少し擦りむけてるくらいで済んだみたいだしな」
白衣姿の瑞希先生が、レオの肉球に手際よく軟膏を塗りながら微笑んだ。
「ええ、心音も落ち着いているし、大きな怪我はなくて何よりよ。……でも斉藤さん、どうして急にパニックに? お散歩中だったんでしょ?」
斉藤さんが不思議そうに首を傾げる。
「私も全くわからないんです。急に鼻をクンクンさせたかと思ったら、もの凄い力で走り出して……。また同じことが起きるんでしょうか?」
俺がヒカルの方を見ると、ヒカルはノートパソコンから目を離し、淡々と告げた。
「……原因は『発情したメス犬の性フェロモン』。未去勢のオス犬は、風に乗ったフェロモンを数キロ風下からでも嗅ぎ取り、本能で一瞬にして暴走状態に陥る」
「フェロモン……!? でも、数キロ先の匂いなんて、そんなことあり得るんですか!?」
斉藤さんが驚愕して聞き返した、その時だった。
「……あり得るわ」
瑞希先生が、カルテにペンを走らせながら静かに口を挟んだ。
「犬の嗅覚は人間の数千倍から一億倍とも言われているわ。特に、性フェロモンに対するオス犬の感知能力は凄まじくて、風向きと条件さえ揃えば、数キロ先の匂いでも本能のスイッチが完全に入ってしまうの。……ヒカルくんの推測通りよ」
専門家である瑞希先生の獣医学的な裏付けに、斉藤さんは息を呑んだ。
「……そうだったんですか。じゃあ、風向き次第では、今後も同じように脱走してしまう確率が高いということですね……」
「ええ。それに、届かないフェロモンを嗅ぎ続けるのは、レオ君自身にとっても極度のストレスになるわ。……レオ君のためにも、そろそろ去勢手術を検討してみる時期かもしれないわね。ご家族でよく相談してみて」
「去勢……。はい、先生のおっしゃる通りです。レオの安全のためにも、前向きに検討してみます」
斉藤さんは深く納得したように頷き、俺たちと瑞希先生に向かって、改めて深く頭を下げた。
「本当に、何から何までありがとうございました!」
レオと共に帰っていく斉藤さんを見送り、俺は深く息を吐いた。
「いやあ、先生に裏付けしてもらえると助かるよ。ヒカルの理屈だけでなく、専門家の意見があると飼い主さんも安心するから」
「ふふ、私は獣医学的な事実を言っただけよ。でも、相変わらずヒカルくんのデータ分析は完璧ね」
瑞希先生が感心したように微笑むと、ヒカルは少し気まずそうにふいと目を逸らし、パソコンをパタンと閉じた。
*
数日後、12月20日の夜。クリスマスを目前に控えたさくら台は、すっかり冬の空気に包まれていた。
窓の外では、12月の冷たい冬の風が吹き荒れている。ストーブの上で、ヤカンがシュンシュンと白い湯気を立てていた。
ガチャリ、とドアが開き、上品なコートを羽織ったヒカルの姉、冴子さんが入ってきた。
「ヒカル、イナガキさん。今月もお疲れ様です。はい、今月の『事務所の経費』と、『イナガキさんのお給料』。それと、『ヒカルの生活費』ね」
冴子さんは微笑みながら、三つの封筒を机に並べた。 俺はその中から自分の名前が書かれた封筒を受け取り、その重みを確かめて誇らしく笑った。
「助かります……!これで今月も、あいつに養育費が送れます!」
「ヨウイクヒ! ハチマンエン!」
「だからステラ、リアルな金額は言うなって!」
俺とステラのやり取りに、冴子さんはクスクスと笑い、デパ地下の温かい惣菜の袋を机に置いた。
「すっかり冷え込んできたから、今日は『こんがり焼けたローストチキンと、具だくさんのミネストローネ』を買ってきたわ。お二人とも、温かいものを食べて栄養をつけるのよ」
ヒカルは空間の一点を見つめたまま、プロテインのボトルを置いて言った。
「……鶏肉に豊富に含まれるイミダゾールジペプチドが、肉体疲労を強力に回復させる。世間のイベントに便乗しただけの非合理なメニューかと思ったが、極めて優秀なリカバリー食。……感謝する、姉さん」
「お姉さん、聞いてくださいよ。実は、カスミちゃんから、FBIのおばちゃんたち宛の『特製ブッシュ・ド・ノエル』の試作品を預かってるんです。おばちゃんたちダイエット中らしくて、俺たちで食べていいって言われて。……もしよかったら、今日はお姉さんも一緒に食べていきませんか?」
冴子さんは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「まあ……! 嬉しいわ。ぜひ、一緒にいただきましょう」
俺がケーキ箱を開ける。出てきたのは、あの『長ネギとあん肝のブッシュ・ド・ノエル』だ。
冴子さんが
「まあ、とても……前衛的ね」
と少し固まる。
ヒカルの脳内ワイヤーフレームが、再び警告アラートを出しそうになっていたが……姉が嬉しそうにしている手前、残すわけにはいかないという強烈な精神的圧迫を感じたようだ。
ヒカルは意を決して、おぞましいあん肝ネギケーキを1口、無表情のまま口に運んだ。
咀嚼するヒカル。 その瞬間、ヒカルの脳内スキャンが、高速で成分分析を開始した。
「……長ネギの辛味成分が、あん肝の濃厚な脂質によってコーティングされ、スポンジ生地の糖分と奇跡的な塩味の調和を保っている。……美味い」
「えっ、美味いのかよ!?」
ヒカルはふっ切れたように、静かにフォークを動かした。
「……データ訂正。視覚的なカオスが、必ずしも味覚の破綻を意味するわけではない。僕の先入観は間違っていた。……今後は、外見の造形だけで食事を拒絶するのを、やめる」
「お前、ついにカスミちゃんちのゲテモノパンの見た目を克服したのかよ! 親父さんの完全勝利じゃねえか!」
「……不本意だが。……味覚データだけは、否定できない」
俺は大笑いし、温かいミネストローネを啜りながら、手元の茶封筒をそっと見つめた。少しだけ照れくさそうに、冴子さんに言う。
「お姉さん。今月は、たくさん依頼をこなしたおかげで……俺たちの稼いだ金だけで、今月の事務所の家賃が払えそうなくらいになったんです。まだまだ俺の給料までは足りないですけど……」
ヒカルは少し気まずそうに、ふいと目を逸らした。
「……初期予測より、ずっと悪くない」
冴子さんは、その二人の不器用で、確かな絆に、心から温かい涙ぐむような笑みを浮かべた。
「ふふ……! 本当に、素敵な探偵事務所になってきたのね。イナガキさん、いつも本当にありがとう。……メリークリスマス」
「へへ。メリークリスマス、お姉さん」
「メリークリスマス! ヨウイクヒ!」
「おい、ステラ。おめでたい日に養育費の話はすんな!」
俺はステラに文句を言い、冴子さんが笑う。 窓の外では、12月の冷たい冬の風が、さくら台の駅前を優しく、優しく吹き抜けていった
「ここまで読んでいただきありがとうございました!
『さくら台駅前ペット探偵事務所』もCASE8の掲載を終えました。
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