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女の誘い          :約1500文字 :霊

作者: 雉白書屋

 ある夏の夜。

 一人の男が帰り道をとぼとぼと歩いていた。日中の地獄じみた暑さはようやく引き、昼間のように日陰やクーラーの効いたコンビニを探して目を走らせる必要もない。夜風はまだ生ぬるく、心地いいとは言えないものの、吹き抜けるたびに男の頬をわずかに緩ませていた。

 家に帰って、冷えたビールを一本――そんなささやかな楽しみを思い浮かべながら歩く。だが、駅前にある古びた雑居ビルの前に差しかかった、そのときだった。

 白く丸いぼんやりとした光が視界の端をかすめた。


 ――今のは……見間違いか?


 男は足を止め、首を巡らせた。だが目を凝らすと、それは確かにそこにあった。


 ――手だ。


 ビルの入口、その奥の暗がりの中で、白い手が一つ、まるで海中の海藻のように、ゆっくりと揺れていた。

 細く華奢な指。女の手だろうか。

 男は思わず身を乗り出し、入口を覗き込んだ。

 白いワンピースを着た長い髪の女だった。顔は陰に沈み、表情はわからない。ただ、その手だけがこちらへ伸び、手招きしているように見えた。

 男はごくりと喉を鳴らし、一歩踏み出した。すると女はゆっくりと奥へと下がっていった。

 一瞬ためらったが、男はそのままビルの中へ足を踏み入れた。

 不法侵入だ。警備員がいるかもしれない――そんな警戒心が一瞬、頭をかすめたが、どうやら廃墟のようだ。床には通行人が投げ込んだのだろうペットボトルや潰れたファストフードの紙袋が無造作に転がっている。かび臭い匂いが鼻を突き、男は思わず顔をしかめた。

 女は時折ちらりと振り返り、男がついてきていることを確かめると、また奥へと進んでいく。やがて階段の前で立ち止まった。

 女は静かに階段を上がり始めた。男は吸い寄せられるように、その背を追った。

 女の顔は長い髪に隠れていて、よく見えない。だが身体つきは細く、若いように見える。若い女が、なぜこんなビルに――。その疑問はそう長くは抱かなかった。


 ――この女、幽霊だ。


 女の足首から下がはっきりと透けていたのだ。

 二階にたどり着いたところで男は立ち止まり、小さく息を吐いた。額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。

 女はちらりと振り返ったが何も言わず、また階段を上がり始めた。男も無言で後に続いた。

 長い黒髪がふわりと揺れている。鼻をひくつかせると、かび臭い空気が鼻腔を刺した。


 ――標準的な太さのふくらはぎだ。だが、やはり幽霊に間違いないな……。


 何度目を凝らしても足首から下は透けたままだった。女はスカートを揺らしながら、ふわりと浮くように階段を上がっていく。

 三階にたどり着いた。

 男は一歩後ずさりした。靴底が床を擦って、じゃりっと乾いた音を立てた。

 女は振り返り、男の存在を確かめると、また階段を上がり始めた。男も後に続いた。


 ――幽霊にしては健康的な太ももだ。色白なのは元からだろうか。血管が青く浮いている……。


 四階にたどり着いた。

 このビルはたしか七階建てだったはずだ――そう思った瞬間、男の背筋を冷たいものが這い上がった。

 女が振り返った。そしてまた上へ。


 ――サテン……水色。


 五階にたどり着いた。

 女の目的地は屋上だ――そう悟った男は思わず後ずさりした。すると女が振り返り、今度は男のほうを向いたまま、ゆっくりと階段を上がり始めた。

 男は喉を鳴らし、息を整え、再びついていった。


 ――D……いや、Eか?


 六階。

 女が身体をゆらゆらと揺らしながら階段を上がっていく。男もその後に続いた。


 ――揺れる……揺れてる……。 


 ついに七階にたどり着いた。

 屋上へと続く最後の踊り場。いったい何をするつもりだ――そう思った瞬間、女の口元が歪んだ。笑っているのだ。

 女が一歩、また一歩と男に身体を向けたまま階段を上がっていく。腰を揺らし、髪をかき上げ、まるで誘うように。


 次の瞬間――。

 男は突然踵を返し、全速力で階段を駆け降りた。転げ落ちるようにビルを飛び出すと、そのまま向かいの建物まで走った。壁に手をつき、大きく息を吸っては吐き、肩を激しく上下させた。

 そして男は叫んだ。


「くそっ! あそこまで上ったのに……ブスだった!」

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