月末のない治療院
(一)
二月は月末が早く嫌である。
様々な請求書が容赦なく届く。
折り込み広告の振込も、来月まで待ってほしいと先程電話したばかりで
最近は融通の聞くところはこんな調子で支払いが滞り気味である。
長城幸之助は、顎に蓄えた不揃いの髭をなぞりながらぼんやりと昼過ぎから降り始めた雪を眺めていた。
午後からの患者は三時に一人入っているだけで閑古鳥が鳴いている。
食後の珈琲でも淹れようかと待合の椅子から立ちかけたとき、
治療院のくもりガラスの玄関に黒い人影が写った。
『予約外の患者か?』そう思い幸之助は白衣のポケットに両手を突っ込みその様子を見ていると玄関が開いた。
グレイのスーツにハーフコートを羽織った男が入ってきた。
その風貌は季節に似合わず真っ黒に日焼けしていた。
えらの張った四角い顔は幸之助をみると、口角をいっぱいに広げ白い歯をのぞかせた。
幸之助の顔を見ると人懐っこい表情で
「先生、初めまして、わたくしこういう者です」
差し出された名刺には「医療機器研究センタームラナカ 社長 村中まこと」とあった。
幸之助は無言のまま名刺を受けとり、セールスマンに落胆しながら
「うちは取引している会社があるのでお引き取りください」というと、
「突然お邪魔しまして失礼しました。わたくし医療機器を専門に研究をしております村中と申します」
男はそう言いながら幸之助をじっとみつめる。
「見ての通り、うちは新しい医療器械なぞ置くところはありませんよ」
幸之助は治療室の奥を指しながら手を左右に振った。
男はニヤッとしながら
「先生、そう嫌わんで下さい」
男はそういうと、分厚いカバンを下ろしてパンフレットを取り出した。
幸之助に渡されたのは
「驚異の治癒力発掘!B・S・C」
という文字が飛び込んできた。
脳に電気が走るようなイラストはかなりのインパクトだ。
「これは?」
幸之助は『治癒力』という言葉に弱い。
パンフレットを開くとヘッドガードのような装置とパソコンの写真
脳波の比較写真などデータを記したものが書かれていた。
男は節の高い指でパンフレットのデータを示しながら
「治癒力をもっと上げてみたいと思いませんか?」
と、幸之助の心をくすぐる。
「はなしを聞きましょう」
幸之助は男を待合室に招いた。
幸之助の仕事は実費の治療家で、開業して20年が過ぎた。
鍼灸師の資格はあるが十年前、気功治療院としてあらたな治療法を引っ提げて新規オープンした。
鍼のように直接肌に打つような治療は、好き嫌いがはっきりしていたし
ディスポ鍼はコストがかかることもネックであった。
もともと氣の鍛錬をしていたこともあり、治療に十分な手応えを感じていたもののやはり客側からすれば押したり揉んだりの方が人気があり気功をしながら指圧も加えているのが現状であった。
幸之助にしては本来の力量を発揮できず
それだけに、なにか驚くようなインパクトのある治療法を編み出さない限り
現状打破とはいかないと常々感じていた。
気功治療のよさを実感し、定期的に通院してくる患者もいるが、最近進出した一時間二千円台のリラクゼーションマッサージ店が相手では幸之助の治療院から患者の足を遠のかせているのも事実で、思うように客足が伸びず幸之助の悩みのタネでもあった。
そんな思いを見過ごしたかのように、
男がベテランらしい落ち着いた低い声でいう。
「先生、今お忙しいですか?」
と、奥の方を覗く仕草をしたが、
客のいないことは承知の上である。
「次の患者まで時間があるからどうぞ」
幸之助はあえて無表情にいった。
男は先ほどのパンフレットを広げ、
「早速ですが先生、実は今わが社で開発したブレインシステムコントローラー、通称ビーエスシーを使って頂けませんか?」
「ビーエスシー?」
幸之助には見たことも、聞いたこともない医療機械である。
「はい、先生のところでは気功の治療をなさっておられますね。
その気功パワーを当社のビーエスシーが増幅器になり、
より一層パワフルな気功治療ができるよう
サポートすることができるのです」
「患者に対してではなく、わたしのサポートですか?」
「はい。今までは患者様サイドからみた治療器械が主流でしたが、
このご時世、あらゆる分野の治療院が乱立している今だからこそ、他とは違う治療戦略でなければ勝ち抜くことは出来ません。まさにゴッドハンドにならなければ!」
「ゴッドハンドか・・・」
確かに男のいう通りである。
男はさらに
「ゴットハンドといってもレベルの違うゴットハンドです。このBSCを使えば
思いのままの治療が可能なのです!」
「思いのまま・・・一体どういうシステムなんですか!」
幸之助の考えを見透かしたように男がいう。
「患者様がいかに満足されるか?このひとつ前のバージョンをお使いいただいている先生からは、今までの治療期間が半分になり、その分、早く治ると口コミが広がり今までの倍、患者様が増えたという事例もございます」
「倍に!」
幸之助は息を呑んだ。
確かに早く治るとなれば、その分新規の顧客も呼べるし評判も広がるだろう。
それに気功のパワーアップもできるのならいうことはない。幸之助は逸る気持ちを抑えて、
「一体どういう器械なんだい」
男は幸之助の声に鷹揚にうなずき、
「はい、すぐに持ってまいります」
男はスマホを取り出すと、
「ビーエスシーを」とだけいいスマホを置いた。
ほどなくして現れたのは社員の男はスーツケースを提げ、大きめのマスクをした青年であった。
色黒の男とは対照的に顔色は青白く、立っているのがやっとという感じである。
ときどき体が左右にふらつくのか、とにかく病弱な感じに見えた。
「社長、おねがいします」
青年はジュラルミン製のケースを男の前に置いた。
男はスーツケースを開け、器具類を取り出し幸之助が見たことのない機器をテーブルに広げた。
営業慣れした手つきでBSCをセットアップしていく。
もう一つのスーツケースの中にはパソコンのような装置があり、
そこにヘッドフォンやら金属製の握り棒のようなコードを差し込んでいる。
みた感じはツボ探索器のようなだが、電源を入れるとノート型パソコンの画面に「ムラナカ」というイニシャルが現れた。
「先生、このヘッドフォンをおかけください」
幸之助はいわれるまま、耳がすっぽりとかぶさるヘッドフォンをかけ、ソファに深く腰掛けた。
しばらくすると、音叉のようなキーンと澄んだ音色が聞こえ、一定のリズムで鳴り響いている。
そのうち、高低のある周波数が入り混じるようにして音叉がいくつかの音色に分かれる。
目をつぶるように男がジェスチャーするので目をつむりソファに深く座りなおす。
リズミカルな音色は、幸之助の心拍数と同調するかのように気分が落ち着いてきた。
そのうち瞼の裏に青白い光がみえはじめた。
正確にはみえているというより色を瞼の裏に感じているといったほうがいいだろう。
青白い光は回転を始めるとやがて消え、またしばらくすると光だし渦を巻くように回転し始めた。
そのうち、寝ているのか起きているのか半覚せい状態で全身の力が抜けた感覚に包まれていった。
「なんて心地良いのだろう・・・」
どのくらいそうした時間を過ごしたかわからないが、
やがて音色が小さくなりかすかな音だけが遠くで響いていると、両耳が急に解放され涼しい空気で現実に引き戻された。
男がヘッドフォンを外し、
幸之助を覗き込むように
「いかがでしたか先生。何かビジョンがみえましたか?」
と聞いてきた。
「ビジョン?ああ、青白い光がくるくると渦を巻いていたが・・・」
「青白い渦がもうみえましたか!」
男は社員の青年と向き合い頷いた。
「先生、この青白い渦のビジョンがなかなかすぐにはわからないという方が多く、今までに使いこなすまでに時間がかかっていたのでした。今回開発部とでプログラムを再構築したばかりで、気功を上手にされている先生ならと見込んだかいがありました!」
上手に気功をされているなどと、さすがにおだてるのが上手だと思うがいわれて悪い気はしない。
それに青白い渦は確かにみえた。
クルクルと瞼の裏で回り、何とも心地のよい感覚がまだ全身に残っている
そのことがどう影響するのかが私にはわからないが、何か体中でエネルギーが渦巻き体の芯で力がみなぎっているようなものを感じた。
「先生、これがみえますと気功を使うときのパワーが十倍にも二十倍にもなります」
「えっ!十倍!そんなに上がるのかい!」
確かに両掌がビリビリした感覚がいつもより強い。
「先生、この者は開発部の社員でして見ての通り身体があまり丈夫な方ではありません。そこでこのビーエスシー第一号の患者として治療をしてやっていただけませんか?」
「私にできることがあれば、そりゃもちろんやりましょう!」
幸之助は無論その気であったし、断られても男に社員をみせてくれと頼むつもりでいたのだ。
さっそく青年の治療を始めることにした。
ベッドに青年を寝かせ、幸之助が青年の頭を両手で触れる。
幸之助がいつもやっている治療の動作である。
無になるまで時間はかからず、むしろ瞬間であった。
幸之助の全身が火照りはじめると、体の中心からエネルギーがみなぎるように両手に注がれていった。
普段の治療でさえ感じないような感覚が無意識になった途端、自然と体が反応したことに幸之助は驚きを隠せなかった。
さらにいえば、脳内でこの青年の体の弱い部位が暗くみえてくるではないか!
患者の悪い部分を無意識で透視したようにビジョンが瞼の裏に映るのである。
手は勝手に患部へ移動する。
すると瞼の裏の悪い部分の映像が消えていく。
まるで消しゴムで消していくかのように、影が消えてなくなるのである。
青年の表情や顔色に変化が現れていた。
蒼白の顔色は、すでに頬に赤みが差し、
ベッドから青年が起き上がると血色の良い好青年にみえた。
時間にして五分ほどの治療だが、普段のものとは格段にパワフルで効き目がとてつもなく早いと感じた。
「これは凄い!」
幸之助の偽らぬ気持だった。
「お分かりいただけましたでしょうか。こんなにすぐにこの器械のよさをお分かりいただけるとは想定外でしたが来た甲斐がありました。なあ、君の具合はどうだ?」
男は社員の青年も見ながら肩に手を置く。
「はい、なんだか体がとても温かくて、お腹の痛みが治り、気分の悪いのが消えました」
青年はスーツの上着を脱ぎ、ストレッチするように体を動かしてみせた。
「先生、どうですか、このビーエスシーをお気に召していただけたでしょうか?」
「それはもう!今すぐにでも欲しい!
欲しいが、さぞかし高いのだろう・・・」
男は両手をこすりながらニヤリとして、
「まだ細かなチューニングをしなければなりませんが、まだ試験段階ですのでモデル治療院として1年間、無料でお貸しさせていただきます」
「えっ!本当にそれでいいのか?」
「もちろんでございます。ぜひ臨床データをお送りください。データをもとに更なるチューニングをして最高のマシンを開発しなければなりません。そこでぜひ先生にご協力いただきたいのです」
「データを送るというのは?」
男はもう一つのジュラルミンケースから取り出した器械を開くと
「この器械に付属している金属棒を治療後1分間、患者に握らせてください。データが自動で入力されますので、それを転送ボタンが点滅したら押してもらうだけです。そうするとわが社にデータが送られ自動的にコンピュータに書き込まれます。それを1年間データをとり続け統計を出します。その人の治療経過が一目でわかり、どういう点で調整すればよいのか、器械の微調整を兼ねてチェックするのです」
「それはすごい。治療経過がわかるのなら、こちらもやりやすい。一石二鳥だ」
「それと先生、パワーチャージですが今のところ自動タイマーで切れるまでお願いします。決して立て続けにチャージしなで下さい。まだ試験段階ですのでくれぐれもご無理なさらないで下さい」
「わかりました。ところで患者に副作用のようなものは出るのですか?」
すると開発部の青年がすかさず、
「一切の副作用はありません。もしそれをいうのなら、副次的に好転する作用でどんどん良くなるでしょう!」
と、さっきまでの顔色とは違う笑顔を見せた。
社長の男は満足げな笑みをみせ、節くれだった職人のような手を幸之助に差し出した。
「先生、よろしくお願いします」
「いや、こちらこそよろしく頼みます」
幸之助は、そのいかつい手を握り両手で握手して返した。
「あっそうそう、もう一つ大事なことを言い忘れていました。
このマシンで先生がパワーチャージし続るともっと特殊な能力が芽生えてきます」
「特殊な能力?」
このときの幸之助の握った手に力が増し、威圧感とも取れる細い目の奥が光ってみえた。
「先生の頭脳がこのメカニズムのシステムの一部になれば、無限の能力を開花させることになるのです」
「無限の能力?」
それは、さっきも今までに経験したことのないビジョンが見えたことなのか?
体の悪い部位が黒くみえ、そこに手を当てただけで影が消えていった。
まさに幸之助にとっては特殊な能力ともいえる。
そのことを男に伝えると、それはまだ序の口で幸之助にならもっと次元の違う能力が出てくるという。
「システムでのパワーチャージは徐々に増やしてください。間違っても続けざまにチャージしてはなりません!」
と、男は念を押した。
幸之助は頷きながら、午後3時からくる芝草文江に試したい気持ちで
胸が高まっていた。
(二)
幸之助が開業した頃は数キロ先にマッサージ店があっただけだが、
ここ数年で街道沿いはリラクゼーション店やカイロプラクティック院など七軒ができた。
しかもそのうち一軒は幸之助の治療院の真ん前で、リラクゼーション系のマッサージ店で、若い女性スタッフが数人いる人気店である。
治療院とリラクゼーションとは大違いであるが、そんなことは客にはわからないし、白衣を着ていれば誰もが先生にみえてしまう。
しかも一時間二千円台の格安マッサージが売りのようで、ネットでの宣伝も派手にやっている。
若い女性スタッフに取り込まれていく客も多いようで、安さとダブルパンチで
年配客もよく出入りしている。
許せないのは幸之助の治療院の駐車場に駐めていった元患者、福富肇である。
それまで定期的に来院していたのがプツンと来院が途切れたのだが、ある日駐車場に見たことがある車が入ってくるのを見て、こちらに来るものと思っていたら福富肇が車から降り、向かいのマッサージ店に入っていくではないか。
向かいのマッサージ店は駐車場が有料駐車場しかなく、店から少し離れていたために勝手知ったる我が院の駐車場に停めていったようだが、元患者とはいえ、あまりの図々しさに辟易した。
だが今は、そんなことはどうでも良いのだ。
そんなマッサージ店に負けない治療院になればいいだけのこと。
このシステムを使えば行列のできる治療院も夢ではない。
それに治療時間の大幅な短縮も出来、自分のしたい治療を思う存分できる。
これがうまく行けば、月末の支払いに窮することもなくなる。
幸之助はこの千載一遇のチャンスを絶対に成功させようと心に誓った。
芝草文江が来院したのが、社長たちが帰って三十分ほど経ってからであった。
今年の一月に六十歳になったばかで、半年前に腰痛を悪化させて以来定期的に通ってきている。
文江は頑固なコルセットを巻き、少し前かがみの姿勢でゆっくりと治療室に入ってきた。
「どうですか腰の具合は?」
「どうって、まだ痛いよ。先生のとこに来たときだけよくて家で仕事すりゃまた痛くなります」
こういう返事は聞きたくないが良くなるのは一時的というのが現実である。
「芝草さん、今度新しい気功を取り入れたんだよ」
「新しい?それはこの腰痛に効くの?」
「よく効くはずだ。さっそく始めましょう」
わたしはビーエスシーを早く試したかった。
社員の青年は確かに改善したが、患者としてきたわけではない。
ましてや自分がプログラムした器械に対して、売り込みもあり欲目でオーバーな表現をしたのかもしれない。
その点、実際に患者を治療することで、プラシーボもなく、生の声が聞くことができる。
芝草文江は腰を伸ばしにくいため、若干前かがみで椅子から立ち上がるにも両手を太ももに支えながら「よいしょ」といいながら立つ。
その姿はとても六十歳とは思えないほど年寄りじみている。
いつものように腰の痛むという部分に手を置くと、
「先生、なんだかとても暖かいよ!足の方までポカポカしてきたよ」
といつもなら何も言わない文江が感想を述べる。
「あれ?腰が伸びてきた!」
「ええ?ああ!本当に腰を伸ばせる!!」
実際、腰に手を当てている私にもよくわかる。
瞼の裏に映る腰骨と骨盤あたりの黒い影が消えたのである!
流行り患者の悪い部位に影が見えるのは思い過ごしではない。
「どうですか?腰を動かしてみて!」
文江は椅子から立ち上がり、また座るという動作を繰り返し、今度はしゃがみこみ、すっと立ち上がる動作をしてみてはこちらを向く。
「先生、いつもはこんなことできなかったけど今日は楽にできる!今度の新しい治療はよく効くね。これが明日も続いてくれればいいけれど」
「痛くなったら明日もおいで」
「わかりました。痛くなったら明日も来ます」
「文江さん、今日のデータと記録するのでこれをもって下さい」
金属製の握り棒を渡すと文江は不思議そうに
「こりゃなんだね?」
と訪ねた。
「これを持つとどのくらい良くなったかとか、どこをもっと治療すればよいかとかわかる器械だよ。一分間握っててください」
この臨床データは村中という社長のもとに集積されて、データとして集められ
様々な症例が集められる。
社長の威圧感のある目を思い出したが、
芝草文江の治療でも目を見張る効果を得ることができた。
これならどんな患者が来ても手こずることなく、驚くような効果が期待できそうである。
そう思うと、自然に笑みがこぼれる。
文江の記録が取れ握り棒を受け取ると
「先生、今度の新しい治療はよく効いたからみんなに宣伝しとくよ!」
文江は治療代を支払うと、コルセットを片手にさっさとした足取りで帰っていった。
(三)
芝草文江が帰った後、幸之助はしばらく自分の両手を見つめていた。
掌にはまだ、あの微細な振動と熱が残っている。
「……これが『増幅』か」
独り言が静かな治療院に響く。
これまでの二十年は何だったのか。
指が腱鞘炎になりかけ、気功で自らの精根を削り、
それでも「一時的な緩和」しか与えられなかった日々。
それが、あのヘッドフォンを数分つけただけで、
まるで神にでもなったかのような全能感に変わった。
翌日から、奇跡は連鎖した。
文江の宣伝効果は絶大だった。
腰痛で顔をしかめていた近所の老人たちが、
次々と「神の手」の噂を聞きつけてやってきた。
幸之助は、村中の言いつけ通り、
治療の合間にBSCでパワーチャージを繰り返した。
一週間が過ぎる頃には、
幸之助の目には変化が現れていた。
患者が玄関を入ってきた瞬間に、
その体のどこが「黒い影」に覆われているか、
服の上からでも透けるように判別できるようになったのだ。
「そこですね」
幸之助が軽く触れるだけで、
患者は魔法にかけられたように快哉を叫ぶ。
予約表は一ヶ月先まで埋まり、
向かいのマッサージ店へ流れていた客たちも、
こぞって幸之助のもとへ戻ってきた。
かつて無断駐車をした福富肇さえも、
申し訳なさそうな顔をして現れた。
幸之助はそれを見下ろすような快感とともに、
一瞬で彼の膝の痛みを消し去った。
しかし、成功と引き換えに、
幸之助の日常には奇妙な違和感が混じり始めていた。
(四)
三月に入る頃、
幸之助は「チャージ」の回数を増やしていた。
村中からは「立て続けに行うな」と忠告されていたが、
チャージをした直後の脳が痺れるような快感と、
指先から溢れ出す圧倒的なエネルギーを知ってしまうと、
以前の自分がいかに無力だったかを思い知らされ、
恐ろしくなるのだ。
ある夜、
閉院後にチャージを行っていた時のことだ。
瞼の裏の青白い渦が、
いつもより激しく回転した。
その中心に、吸い込まれるような黒い穴が見えた。
(もっと……もっと奥へ……)
意識が遠のく中、
幸之助の耳に、聞き覚えのある「音色」ではない、
ザラザラとしたノイズが混じった。
それは人の「声」のようにも聞こえた。
『……適合、進行中……同期率、八十パーセント……』
目を開けると、そこには誰もいない。
ただ、デスクに置かれたデータ転送用の端末が、
見たこともない速さで明滅していた。
ふと鏡を見ると、
幸之助は戦慄した。
自分の顔色が、
あの開発部の青年のように、
病的なまでに青白くなっている。
それだけではない。
顎に蓄えていた不揃いの髭をなぞろうとした手を見て、
息が止まった。
指先が、わずかに透けて見えたような気がしたのだ。
翌日、村中がふらりと現れた。
予告なしの訪問だった。
「先生、素晴らしいデータです。本社のコンピュータが喜んでいますよ」
村中は日焼けした顔で笑ったが、その目は笑っていなかった。
獲物を品定めするような、冷徹な光を宿している。
「村中さん、この器械……少し強力すぎませんか。最近、体が妙に軽いというか、現実感がなくなってきたというか……」
「おめでとうございます、先生。それはあなたが『システム』の一部になりつつある証拠です。無限の能力、と言ったでしょう?」
村中は、幸之助の肩をがっしりと掴んだ。
その手は驚くほど冷たく、まるで金属の塊のようだった。
「もうすぐです。先生の脳が完全に同期すれば、もうその『肉体』という不自由な器も必要なくなる。純粋なエネルギー体として、このネットワークの中で永遠に人々を癒やし続ける存在になれるのですから」
(五)
四月。
長城治療院の評判は絶頂に達していた。
だが、訪れる患者たちは一様に口にする。
「先生、最近言葉を話さないね」
「まるで、精密な機械に触られているみたいだ」
幸之助はもう、患者の顔を見ていなかった。
彼の視界にあるのは、肉体ではなく、
ただの「影」と「光」の羅列だった。
チャージを繰り返し、データを転送し続ける日々。
もはや月末の請求書などどうでもよかった。
金という概念さえ、脳から脱落していた。
ある雨の日。
幸之助は、治療室の中央に座ったまま動けなくなった。
自分の意志で腕を上げようとしても、
脳が命令を拒絶する。
代わりに、頭の中に直接、村中の声が響いてきた。
『先生、お疲れ様でした。最終フェーズです』
治療室のドアが開き、
あの青白い顔の青年が入ってきた。
しかし、以前とは違う。
彼は以前よりずっと血色が良く、
精気に満ち溢れている。
青年は、デスクにあるBSCの端末を操作し、
幸之助の頭にヘッドフォンを被せた。
「先生、ありがとうございました。あなたの『氣』と『経験値』は、すべてこの最新モデルに吸い上げられました。次からは、僕がこれを使って『新しい先生』になります」
幸之助の意識が、急速に細分化されていく。
記憶、感情、自我。
それらがデジタルデータへと変換され、
有線ケーブルを通じてジュラルミンケースの中へと吸い込まれていく。
最後に見た光景は、自分の抜け殻のような体が、
椅子から崩れ落ちる瞬間だった。
数日後。
長城治療院の看板は掛け替えられた。
新しい院長は、
かつて村中の部下だったあの青年である。
彼は、最新型のヘッドガードを患者に被せ、
完璧な手つきで治療を行っている。
その傍らで、村中は新しい名刺を持って、
次の「ターゲット」となる、
経営難に苦しむ鍼灸師のもとへ向かっていた。
カバンの中には、
幸之助という人間のすべてを詰め込んだ、
さらにバージョンアップした
『B・S・C』が入っている。
二月は月末が早く嫌である。
だが、
システムに組み込まれた幸之助にとって、
もう月日の概念も、
支払いの悩みも存在しなかった。
彼はただ、電子の渦の中で、
永遠に「治癒」という計算を繰り返すだけの
プログラムになったのだ。
(完)




