1・破棄された婚約
「カレン・ホッズベル! 君との婚約は破棄させてもらう!」
ここはザックレイズ伯爵邸。今夜はザックレイズ家の令息アーサーと、子爵令嬢であるカレンの婚約お披露目パーティーが行われる……はずだった。数分前までは。
多くの貴族たちが集まる大ホールに、今夜の主役であるカレンはたったひとりで立ち尽くしている。そんな状況に悪い予感をしないほうが無理な話で、予想に違わず満を持して現れたもうひとりの主役はカレンとは別の女性を伴って堂々とホールを闊歩してきたのだった。
そして、さきほどの宣言である。
仮にもアーサーとカレンの婚約お披露目パーティーという名目で集まってもらった貴族たちを前に、悪びれもなく堂々としすぎではなかろうか。それでも噂好きの貴族たちから不満が漏れることはなく、憐れみのため息と共に奇異の目がカレンを射貫くように向けられた。
「そう一方的に仰いましても、この婚約は互いの家の同意のもとで決められたものですし、わたくしがこの場で判断することはできかねます」
「そもそも僕はこの婚約に同意した覚えはない! 父上が勝手に決めたことだ」
その点についてはカレンも心中で密かに同意した。
カレンの実家、子爵家は財政難である。跡取り息子の弟リアムも病弱なため、カレンは少しでも裕福な家に嫁ぎ、実家を支援してもらえないかと考えていた。
しかし元から愛想笑いのできないカレンは貴族社会では致命的に相性が悪く、加えてカレン自身のよくない噂も相まってなかなか良縁には恵まれなかった。何とか婚約にこぎ着けても、大抵はカレンに付きまとう噂のせいで破談になるのだ。
ゴースト令嬢。それが貴族たちの間で噂される、カレンの呼び名である。丸眼鏡の奥に隠されたアメジストの瞳が、人には見えないもの――すなわち霊を見ることができる不気味な特異体質なのだ。
今回アーサーとの婚約が成立したのも、実は彼の父がカレンの力を欲したからである。原因不明の体調不良を訴えるアーサーを見た魔術師が、彼に取り憑く女性の霊の波動を感じたらしい。日頃から息子の女癖に頭を抱えていたザックレイズ伯爵は即座に霊を祓える者を探し、そうしてカレンに白羽の矢が立ったのだ。
本来なら霊関連の魔術は死霊術師の領域だ。しかしカレンも力の弱い霊くらいなら追い払うことができる。一時的ではあるが、また霊が寄ってきたら、その都度払えばいいだろう。そう思って、カレンはこの婚約を二つ返事で受け入れた。
すべてはかわいい弟リアムのため。そして特異体質のカレンを変わらず愛してくれた両親のため。これでようやく恩返しができると、そう思ったのだが……数回目の婚約もどうやら破談になりそうだ。
「僕は真実の愛を見つけたのだ! 可愛げのない君に比べて、このリズの方が何倍も愛らしい。彼女の笑顔を守るために僕は存在しているといってもいいだろう」
原因不明の体調不良に臥せっていたわりには、新しい女性を口説く元気はあるらしい。婚約が決まってから、体調不良を理由にしてカレンに一度も会いに来なかったのに、だ。
「カレン・ホッズベル。束の間でもこの僕と婚約できていたことをありがたく思うんだな!」
「お言葉ですが、アーサー様。真実の愛に目覚めるよりも、ご自身の行いを悔い改めた方が身のためかと思いますが?」
「何だと!」
少し大きめの丸眼鏡をそっと外し、カレンはアーサーの背後をじっと見つめた。
カレンは目が悪いわけではない。この眼鏡は不必要なものを見ないで済むよう、魔法処理が施されているカレン専用の特別な眼鏡だ。それを外せば、アーサーの背後に群がる女の霊の恨めしげな表情までもがよく見える。
「ソフィア様にエミリア様。マーガレット様に……下町のコゼットは初耳ですね。純粋な思いほど強い念となって纏わり付きますし、女遊びはほどほどにした方がよろしいかと」
アーサーに取り憑いているのは皆が生き霊だが、死霊より生きている人間の方が怖いとも聞く。リズとの新しい婚約でアーサーの女癖も直ればいいが、もしかすると今度はそこにリズの生き霊が追加されるかもしれない。けれど婚約を大々的に破棄された身として、その後のことまで責任は持てないし持つ必要もないだろう。
少しだけ憐れみの混ざった眼差しを向けると、アーサーが肩をわずかに震わせてカレンを強く睨みつけてきた。
「その目だ、カレン! お前の、ありもしないものを見る目がずっと気持ち悪かった。それに僕はもうリズ一筋だ。言いがかりはやめてもらおう。……だからその目で僕の背後を見るんじゃない!」
「そう仰いましても、見えるものは仕方ありません。それでも多少は牽制になっていたはずなのですが……婚約破棄となれば、今後はアーサー様ご自身で彼女たちの生き霊を祓って頂くしかありませんね」
貴族たちから好奇の眼差しを向けられるのも、慣れているとはいえ居心地のいいものではない。婚約破棄は受理されるだろうし、カレンだってアーサー自身に特別思い入れはなかった。
この場にカレンがいる理由はもうどこにもない。眼鏡をかけ直し、くるりと踵を返してホールを後にしようとしたカレンの背に届いたのは、少し焦ったアーサーの声だった。
「ま、待て! 行くのなら最後にこいつらを全部祓ってから出て行け」
「生き霊なんていないのでしょう? アーサー様がそう仰ったじゃありませんか」
「それとこれとは別だ! 不気味な話だけして去られても後味が悪いからな」
「……なぜ私がそこまでしなくてはいけないのですか?」
「貰い手のないゴースト令嬢のお前と婚約してやっただろう!」
「ついさっき公衆の面前で堂々と破棄されましたけど」
「お前には人の情というものがないのか!」
「その言葉、そっくりそのままお返し致します。……けれど……そうですね。こんな私と少しの間でも婚約して頂いたご恩には報いましょう」
パチンッと軽く指を鳴らすと、アーサーの背後に纏わり付いていた黒い靄が一瞬にして霧散した。アーサー本人も体の変化を実感したようで、軽くなった肩を半信半疑といった顔で回している。
「やはり霊を使役できるというのは本当なのか?」
「それでは死霊術師と同じではないか」
「もしかしてカレン嬢本人がアーサー様に霊をけしかけたのでは?」
「やっぱりゴースト令嬢ね。怖いわぁ」
貴族たちの噂はただの言いがかりにも近かったが、それをカレンが否定しても十分に理解してもらうことは難しいだろう。カレン本人ですら、この力についてはわからないことが多すぎるのだ。
ただ死霊を目視することができ、消えろと念を込めれば消滅する。けれどそれも一過性のものだ。大元を断たなければ、霊は再び現れる。だからアーサーの元にも、彼女たちの生き霊は戻ってくる可能性が高いのだ。それまでに彼が心を入れ替え、弄んだ彼女たちに誠心誠意向き合ってくれればいい。
そんなことを思いながら、カレンは誰も引き止める者のいないホールを静かに一人きりで後にした。