第七十六話 林原の影響
●76.林原の影響
「ユカママ、東京聖マリア女学館はそこの坂を上った所にあるはずだが」
林原は水素エンジン車をゆっくりと進めていた。林原夫妻は娘の美咲紀と一緒にいる時はセイパパ、ユカママと呼び合っていた。田沢、ベルガー、ケリーなどはそのことを知っているが、公の場では、ほぼ呼び合うことはなかった。
「そうね。あぁ、寮も近くにあるわね」
木本はカーナビを見ていた。美咲紀は後部座席で大人しくゲームをしていた。
「…俺は寮に入れるのは反対だな。うちから通ってもらいたいよ」
「でも、ここまでは多摩丘陵の奥の方だから、ぇ待って開通したばかりのリニアの橋本駅からだとすぐよね。うちから30分ぐらいかしら。充分通えるわね」
「通学ということで一致したな。そんなところで到着したよ。美咲紀、着いたぞ」
林原はハンドルを切り、東京聖マリア女学館の中庭に車を止めた。
古風なレンガ造りの校舎の内部は、見た目とは違って最新の設備が整っていた。林原たちは長い廊下を通って昔からあるレンガ造りの別棟にある応接室に来ていた。
「我が校は小学校から高校まで一貫した教育を行いますので、じっくりと学ぶことができます」
校長の水原はノートパッドに資料を表示させながら説明していた。
「しかし、ずーっと女子校だと男子に対する免疫がなくなったりしないかな」
林原はちょっと引っかかったようだった。
「我が校と提携関係にあるイギリスとオーストラリアの学校は共学ですし、もちろん中学からでも高校からでも入学はできます」
水原校長は悠然と構えて丁寧に応対していた。だが美咲紀はつまらなそうに大人たちの様子を見ているだけであった。
「ここの特徴としてIT教育が充実しているとあったのですが、具体的にどのようなものなのですか」
木本はすっかり母親目線になっていた。
「他の学校では中学校から始めるレベルを小学校の高学年から始めます。えぇとこれは資料の15ページに詳しく出ています」
「なるほど、他のデジタル・ネイティブと差がつけられるわけですか」
林原は感心していた。
「美咲紀ちゃん、どうかな。この学校で学んでみたいと思うかな」
水原は美咲紀の様子を見て声をかけていた。
「まだわかんない。あたしは、ここの中を全部見てみたいわ」
美咲紀はぼそりと言っていた。
「それでは、校内を見ながら説明して行きましょうか」
水原は立ち上がった。
多摩丘陵の広大な敷地を存分に生かした校内は、校舎、図書館、体育館、プール、デジタル・スタジオとどれをとっても、施設が行き届いていた。さらに併設されているカトリックの教会は、荘厳な造りでキリスト教徒でなくても、中に入りたくなるような名建築であった。林原は入学金や設備費が莫大な額になりそうだと感じていた。
一通り見学を終えた林原一家は中庭のベンチに座り、購買部で買ったソフトクリームを食べていた。
「セイパパ、ここは素晴らしいわね。でも…」
木本は言葉を濁していた。
「ユカママ、言いたいことはわかるよ。カネだろう」
林原が言うと木本はうなづいていた。
「少なくとも小中は公立で良い気がするわ。美咲紀がどうしてもやりたい何かを見出すまで」
「学校にカネをかけるのではなく、幅広くいろいろな事を体験させることにカネを使うんだな。そうすれば何か見出せるだろう」
「美咲紀はどうなの」
木本は美咲紀がこぼしかけたソフトクリームをティッシュで拭いていた。
「あたしは…あの教会が気に入ったわ。作ってみたいの」
「ええ、作りたい。もしかすると建築家に向いているのかな。それじゃもう一回見に行こう」
林原が言うと美咲紀は今までに笑顔を見せていた。
林原一家は、教会のバラ窓を見上げていた。
「ネオゴシックっていうのかな、ステンドグラスが円形にはめ込まれた大きな窓があるじゃないか」
「あら、詳しいのね」
「いや、学校のパンフレットに書いてあったんだけど」
「美咲紀、どう気に入った」
木本は娘の視線の先を見ていた。
「これはこれは、どうしましたか。教会は今結婚式で貸し切りになっていまして、入れないですけど」
さり気なく一家の様子を見守っていた水原は申し訳なさそうにしていた。
「結婚式ができるんですか」
林原はちょっと驚いていた。
「この教会は我が校の卒業生に限り親族の宗教に関わりなく結婚式を挙げることができます」
「それは卒業された方たちは喜ぶでしょう」
木本は憧れているような表情をしていた。
「はい。好評なので、もう少し門戸を広げて一般の挙式にもという声もありますが、あくまでもここは学園内の教会ですので、勉学に支障がでることはNGですから」
水原が言っていると、教会の中から怒号が聞えてきた。林原一家と水原は、何が起こったのかと顔を見合わせていた。
教会内に入ると、長椅子に座っていたり、立ち上がった両家の親族たちが赤い絨毯を挟んで向かい合い、議会のように討論していた。祭壇付近にいる神父はあ然とし、新郎と新婦は誓約が中断したままで呆然と立ち尽くしていた。
「長寿医療で不老不死が一般的になった今、宗教は役目を終えていると言える。宗教に基づく価値観は他の宗教との争いを産むだけだ」
新郎側の親族の中年男性が言っていた。
「何を言っている、神を冒涜する長寿医療は悪魔の仕業だ」
と新婦側の親族の初老男性。
「神がいるだの。唯一の神の思し召しなどと言っているから、ダメなんだ。神なんかいない」
新郎側の若い男が呆れたような表情を見せていた。
「それじゃ、宗教を否定する国境なき地球党の言い分と同じじゃないですか」
と新婦側の初老女性。
「あんな奴らとは違う。イデオロギーなど関係ない。ただ宗教は時代遅れだと言っているだけだ」
と新郎側の若い男。
「今日でも自然死を選択する人はいるので、宗教は時代遅れでも無意味でもないわ」
と新婦側の30才前後の女性。
「自然死を選択することは過去の年金制度を食い潰すだけだ」
新郎側の別の男が叫んでいた。
「林原首相が選択肢の一つとして残したけど、自然死を選ぶ人は少ないから食い潰すことなどないわ」
と新婦側の初老女性。
「だいたい結婚式だって神の前で誓うよりも、人の前で誓う方が合理的だし意味があると思うけど」
新郎側の友人らしい女性が言っていた。
「おいお前ら、この結婚をぶち壊す気か」
新婦の父親がキレかけていた。
「あのぉ、その選択肢を残した林原ですけど、こんな対立をもたらすとは、当時は想像もできませんでした」
林原が教会の赤い絨毯の上を祭壇の方に向かって歩きながら言っていた。いきり立っていた両家の参列者たちは林原の顔を覗き込むように見ていた。
「えぇぇ、あんた林原元首相なの」
「あ、本当みたい」
参列者たちはどよめいていた。
「確かに、人が長寿になったことで、いろいろな変化が起こりつつあるようです。ただそれぞれの立場や考えはあると思いますが、互いにリスペクトがないとただの口論になります」
林原はなだめるように言っていた。
「私は今年で87才になるが世の中はきれい事では済まないことだってある。間違っている奴をリスペクトなどできない。郷に従え党のような政治の世界とは違うのだぞ」
新郎側の見た目が40才前後の男が言っていた。
「長寿になれば宗教観はマイルドになると思っていましたが、人が持つ攻撃性には変化がないようです」
「それで、どうしろというのだ」
新婦の父親がうなるように言っていた。
「特に答えは用意してません。しかし宗教のあり方などはイエスかノーかではないと思います。この先、何年人が生きられるかわからなくても、事故死はありますし、生きるのが辛くなることもあるでしょう。精神的な拠り所として必要だと思います」
林原が言うと、教会内は静まり返った。ステンドグラスから差し込む光に音が感じられるような空気になった。
「まぁ、そうかもしれないが…」
「信仰ではないが神社や教会の雰囲気に安らぎや惹かれることはあるか…」
参列者たちは落ち着きを取り戻し始めた。
「皆さん、とにかく、ここは仕切り直して結婚式を続けましょう。この続きは披露宴か二次会でやってください。次の挙式の予定が入っていますから」
水原がこの場を取りあえず締めていた。
「セイパパ、格好良かったね。だって怒ってる大人たちを黙らせたんだもの」
美咲紀が後部座席からぼそりと言ってきた。
「だろう」
林原は嬉しそうにハンドルを握っていた。
「それで、美咲紀の学校はどうしますか」
「そうだな、東京聖マリア女学館は止めておこう。美咲紀の結婚式であんなことになったら事だからな。それよりも、もっといろいろな建物を見に行こう」
浅草百十二階の土産品売り場に来ていた林原一家。
「美咲紀の探していた浅草百十二階のプラモデルはあったか。ネットで売り切れていたら、現地でも無理そうな気がするが」
「あ、あったわ。あれじゃない。やっぱりここなら在庫があったようね」
木本は美咲紀の手を引いて、プラモデルコーナーに歩み寄って行った。。
「あったか。建物に興味がある娘だから将来は建築家だな。プラモを買ったら、80階にある黒沢健吾設計事務所に行くぞ」
「黒沢健吾ってここの発起人で設計した人よね。でも、アポは取ったの」
「もちろんだ。ここに来るとわかったから、すぐにアポは取っておいたよ。3時のティータイムに訪問することになっているんだ」
林原は腕時計を見ていた。
「いつもこうなのかな。インバウンドは2000万人から2500万人に制限したのにな」
林原はエレベーター待ちの列を眺めていた。
「顔触れや話している言葉からすると、日本人が多いようだけど」
「どちらにしても20分から30分ぐらいは待つかな。俺らは100階以上の展望デッキやレストラン街に行くわけじゃなく、80階で降りるんだけど…」
「階段やエスカレーターはないの」
美咲紀が木本の手を引っ張りながら言っていた。
「そうだ。あれを見てくれよ。ガラガラだ」
林原は列のさらに向こう側にある50階の中層階まで行くエレベーターホールを見ていた。
「でも60階のオフィス階までよ」
「ユカママ、残り20階は階段で行こう」
「ええっ、セイパパは若返っているから平気かもしれないけど、私は実年齢分の体力なんだけど」
「何を言っている。ユカママはそのままでも充分若くてきれいじゃないか。行けるよ。美咲紀は俺が抱っこして行くから」
林原の若くてきれいの言葉に気を良くしている木本は、わかったとうなづいていた。
「10階上がったら休憩ね」
「わかった」
「今後のことも考えたら、私も長寿医療を早めにやろうかしら」
「ますます、魅力的できれいになることが心配だがな」
林原の言葉の魔術で木本はハツラツとした表情になっていた。
中層階エレベーターを降りた林原一家。日曜日だったのでオフィス階はガラガラであった。60階と記された扉を開けて、非常階段室に入った。人感センサーで照明がつく。
「よーし、美咲紀、抱っこだ」
林原は美咲紀を抱きかかえた。
「あと20階ね、3時のティータイムに間に合わせましょう」
木本も覚悟を決めて階段を上り始めた。
66階と67階の間の踊り場で立ち止まる林原。
「美咲紀も大きくなったから、意外に腰に来るな。待てよ…。バックヤード用エレベーターがあるんじゃないかな。ちょっと探してくるよ。ユカママと美咲紀は67階の階段室の所で待っていてくれ。運が良ければ67階から80階までバックヤード用のエレベーターに乗れるかも」
林原は、67階のホテルフロアの廊下を歩いていると、客室の準備が整っているか最終確認している女性スタッフとすれ違った。
「あのぉ、あなたは」
スタッフを不審そうな目を林原に向けていた。
「黒沢健吾設計事務所に行こうとしたのですが、エレベーターを間違えてしまいまして、午後3時までのお約束なのですが、一旦下に下りている間がないもので」
困り顔の林原。
「アポはとっていますか。それとお名前は」
「はい。林原征志郎と申します」
「恐れ入りますが、顔認証でチェックさせていただきます」
スタッフはスマホのカメラを林原に向けた。
「林原征志郎さん、間違いないですね。ご同行の奥様たちはどうしましたか」
「そこまでわかるんですね。今、連れてきます」
「お急ぎのようなのでバックヤード用エレベーターをご案内します」
女性スタッフは元首相の意に沿うように臨機応変に対応していた。
「近場の東アジアを見ても韓国、北朝鮮、台湾、中国に100階以上のビルが何本も建って久しく、世界を見れば200階建ても、ちらほら建っています。それなのに失われた35年の影響か、長年日本には70階建てや塔屋で高さを増した64階前後の超高層ビルしかないことに私は嘆いたのです」
黒沢はティーカップを手にし、気迫に満ちた表情を林原に向けていた。
「それで発起人になれらたわけですか」
「はい。時あたかも林原さんの郷に従え党が頭角をあらわした時期なので、機運としては絶好だったと言えます」
「当時は私も忙しくて、今日まで一度も浅草百十二階に来たことがなかったんです」
「そうでしたか」
黒沢はティーカップの紅茶を飲み干すとティーポットから新たに注いでいた。
「それでは、資金集めや地域との交渉などを担当してこられたのですから、設計も大変だったでしょうね」
と木本。
「まぁ、いろいろとありました。元々浅草十二階があった場所に建てようと思っていたのですが、地権者との折り合いがつかず、近くの浅草ビューホテルの老朽化に伴う再開発地に建てることで妥協しました。それが心残りではあります」
「建設場所はどこでも大幅に違っていなければ、建設することが重要じゃないですか。悔やむことはありませんよ」
「林原さんにそう言っていただくことはありがたいです」
「世界で高さを競ってきた超高層ビルはいくつもありますが、日進月歩ですぐに時代遅れになります。しかし独特建築様式や過去の形状などといった特色のある超高層ビルは、どんなに時代が進んでも人を惹きつけると思います」
林原は設計事務所の窓の形状を見ていた。
「それにしても、今や高層建築と言えば、軌道エレベーターが世界一の超高層建築と言えますよね」
黒沢は軽く笑っていた。
「あぁ、どうでしょう。いずれにしましても、まもなく出来上がります」
林原は大人ばかりで話してしまったので、ちらりと美咲紀の方を見ていた。
「あのぉ、ここって昔からぁ、あったみたいなのが好きです」
美咲紀は小声で言っていた。
「そうです。建物は周囲の景色に馴染むことも大切なんです」
黒沢は逸材を見出しような顔をしていた。
「馴染むって何ぃ」
「昔からあったみたいということよ」
木本が付け加えていた。
「ですから明治期の浅草十二階のイメージを損なわないようにし、外観はレンガ調ステンレス・パネルを張り、八角形のシルエットを下から見た場合でもハッキリと意識できるようにしています」
黒沢は美咲紀に対しても子供扱いせず、一人の人間として向き合っていた。
第七十六話に出てくる浅草百十二階はワールドキングダム登場アイテム図鑑としてnoteにアップしています。




