第三十九話 憲法改正
●39.憲法改正
ブダペスト・ケレティ駅はイクレクティシズム様式の荘厳な教会のような趣のある駅舎であった。ホームに停車したウィーンから来た国際列車から襟を立てたコートを着た男が降りてきた。コートを着た男はホームのベンチに座り、うっ血したふくらはぎを軽くほぐしていた。同じ一対になるベンチの反対側の端に座る東洋人がさり気なく立ち上がった。ベンチにはカバンが残されていた。それを何気なく、手にするコートの男。少し歩きかけたところで、駅を行き交う利用客をかき分けながらスーツ姿の男たちが派手に駆け寄ってきた。ホームの監視カメラがその様子を捉えていた。
呼び止めた言葉はハンガリー語と英語であった。スーツの男たちが周りを取り囲むと、それぞれ異なる身分証をコートの男に見せていた。この逮捕劇を駅の利用客たちの数多くがスマホを向けて撮影していた。このベンチから少し離れた所で東洋人も拘束されていた。ホームは人だかりで騒然としていた。
「林原さん、三番目の秘書は戸倉琴美さんか、西井祥太郎さんのどちらかに絞られますね」
木本は執務室のデスクの傍らに立ち、エントリーシートを林原に見せていた。
「君と石川の相性が良さそうなのは戸倉の方かも知れないが、経歴と実務能力を見ると西井だな」
「取りあえず、二人とも採用して、ダメな方を辞めさせたらどうですか」
「辞めさせるのかぁ。それは…下手するとパワハラとかならないか。週刊誌がすぐに嗅ぎ付けるぞ」
「戸倉さんって、私に似ている点が多いから林原さんのタイプでしょう。セクハラの可能性もあるわよ」
「よせよ。とにかく保留だな。この2人以外にもっと相応しい人物が現れるかもしれない。2次面接通過と伝えておいてくれ」
「総理、ハンガリーで中国のスパイが捕まり、台湾進攻計画文書を奪取したとのことです」
官邸の首相執務室に柿沢官房長官が駆けこんできた。
「何、本当か。その文書の真偽や侵攻日時を確かめるように防衛省総合情報局に調べさせてくれ」
林原は何も知らない柿沢に対し、わざとらしい程慌てたフリをしていた。
国会議事堂内の議員食堂で昼食を食べている林原と木本。
「ここの握り寿司は結構イケるわね」
「そりゃそうだろう、国会議員の先生方が食べるんだから」
林原は鉄火巻きを口に入れていた。
「おやおや総理、寿司がお好きなのですかな」
膳場は秘書などの取り巻き5人を引き連れて林原たちのテーブルに来た。
「あ、膳場さん、あなたもこちらに来られるのですか」
「今日は総理がここにいると聞いたもので立ち寄ったのだが、食事が済んだら私ら与党の控室に来てくれないか」
「はい。わかりました」
林原が応えていると膳場はすぐに取り巻きと共に去って行った。
「あの人、オーラが凄いし、なんか大学病院の回診のような雰囲気じゃない」
「木本、声が大きいぞ」
林原は、食後コーヒーも飲まずに与党の控室に行った。
「君も知っていると思うが、中国のスパイの件はどう対応する」
膳場は、単刀直入に切り出した。
「今、総合情報局に真偽を調べさせています」
「それで本当だったら、どうする。日本に直接侵攻するわけでないとしても、台湾進攻だからな影響は大きい」
「…膳場さんたちの党の親中派議員の立場も考えますと、なるべく穏便に済ませるべきかと」
「総理、君もだんだん政治の何たるかがわかってきたようではないか」
「積極的な制裁などは行わず、欧米の対応を様子見しようと思います」
「よろしい。意外に君の方が川田よりも使えそうだな」
膳場は満足げであった。
首相官邸・執務室。
「総理、中国IT企業のCEOがカナダに亡命した際、極秘情報を提供したとのことです」
矢部防衛大臣が自ら報告に来ていた。
「極秘情報の詳細はわかるのか」
「これはまだ裏が取れてませんが、中国の尖閣及び沖縄本島の占領計画やロシアの北海道侵攻計画が含まれ、そこでのITビジネス展開の将来性を記したものだそうです」
「裏が取れてなくても、良くそこまでわかったな」
「はい。既に北米のSNSやネットニュースで報道されているようでして…」
「情報サイバー庁と連携して着実な裏を取ってくれ」
「さっそく取り掛ります」
矢部は踵を返して執務室から出て行った。
数日後、林原が官邸に入って来ると記者たちに囲まれた。
「総理、このところの国際情勢において、日本の存立が危ぶまれているようですが、いかがお考えですか」
「いゃぁ、まだ真偽のほどがわからないので、何ともお答えできません」
林原は記者たちを押しのけるように歩いていた。
「就任以前の威勢の良さはどうしたんですか」
「首相になったら、急に弱腰になっと言われていますが」
記者たちが盛んに言っていたが、林原はさっさと官邸の中に入って行った。
公邸のコンピューター室。
「台湾の大規模な有事演習は、いよいよ明日からですよね」
林原は頼のバーチャル映像に向かって話していた。
「はい。その前に昨日なんですが、台湾海峡で大量の中国軍のドローンが墜落しているというニュースを流しました。大陸側は否定していますが、台湾側では警戒感がより強まり、有事演習が本気度が高まりました」
「あまり刺激すると中国が過剰な反応をし過ぎる可能性がありますが、大丈夫ですか」
「その辺のところは、上手くやってます。それよりも林原さんの方は順調なのですか。国民のウケがあまり良くないようですが」
「ほぼシミュレーション通りですから、ほとんど問題ありません」
林原は自信に満ちた表情であった。
翌日、林原が官邸から公邸に帰ろうとするとエントランスホールで記者たちに囲まれた。
「総理、中国の台湾進攻が差し迫っているようですが」
記者の一人が大きな声で呼び止めていた。
「現在、政府としては状況を冷静に見極めています」
「台湾が大規模な有事演習をしているのに、日本は何もしないのですか」
「今、この局面では何かと忙しいので、滞りなく対応できるように秘書探しをしているところです」
林原は平然としていた。
「何を言っているんですか」
「ダメだこりゃ」
「あなたの支持者たちは詐欺だと言ってますよ」
記者たちが次々にヤジめいたことを投げかけていた。
「国家の行く末を決めるには慎重さが必要ですから」
林原は、記者たちを押しのけるように歩き、途中でわざとらしくつまづいていた。
郷に従え党の党三役会が公邸で密かに行われ、機が熟したと判断した林原。翌日、首相官邸で記者会見を開いていた。
「皆さん、お待たせしました。一連の事案の真偽を調べた結果、ほぼ事実と言わざるを得ない点が多々見つかりました。これにより中国政府には強い遺憾の意を伝えました」
「それだけですか」
記者の憤りの声が響いていた。
「またいつもの遺憾砲だけですか」
記者の呆れ声が聞えてきた。
「いいえ。つきましては、自衛隊の存在を明記するためにも、早急に憲法9条改正についての国民投票実施することを閣議決定いたしました」
林原がキッパリと言い放つと、記者たちはどよめいていた。
「憲法改正を閣議決定で決めるとは強引過ぎませんか」
と左派系新聞社の記者。
「そうですかねぇ。だって改憲するかどうかの国民投票ですよ。国民の意見を聞くだけなのに、この状況下では手間をかけている時間はないと思いますけど」
林原は口調はのらりくらりだが、目は鋭く輝いていた。
「総理、大軍拡を目指すおつもりですか」
左派系新聞社の記者が続けるが、他の記者たちの中には顔をしかめる者もいた。
「またいつものそれですか。周辺国に配慮して何もしなければ無能で無策と言い、国のためになることをすれば、右傾化や軍事大国ですか。マスコミは批判するのは簡単で気楽なものですよ。ただ我々のすることは少なくとも遺憾砲よりは気が利いているんじゃないですか」
林原が言うと、記者の大半は黙ってしまった。
憲法9条改正の国民投票の結果は1週間後に出た。賛成68%、どちらかと言えば賛成15%、どちらかと言えば反対10%、反対7%であった。やはりシミュレーション通り、これに対して不正があったとして無効だと訴える市民団体が現れた。しかし憲法9条の改正は連立与党、同調する一部の野党の賛成で国会を通過し、戦後初めて憲法改正が実現した。
林原は国会議事堂内の与党控室に来ていた。
「いゃぁ、我が党が80年以上もかかっても出来なかった悲願を達成するとは大したものだ」
膳場はかなり気を良くしていた。
「いやいや、これは膳場さんたちの協力があったからこそですよ」
「それでこの後はどうする。我が党と合流するかね」
「それはまだ考えていません」
「まだということは、いずれということかね」
「その件に関しましては保留でよろしいですか」
「林原さんが、そう言うなら仕方ありませんな。ただ我が党員の引き抜きはやめていただきたい」
「そう言われましても、選挙当選目当てでうちの党に鞍替えしようと議員が結構いるので、困っているんです」
「それじゃ、ずーっと拒否したまえ」
「わかりました。連立が続けられるのでしたら、何もうちの党員を増やす必要もないでしょう。選挙区の候補者もバッティングしないようにできますから」
「いゃぁ、林原さん、あなたは政治の何たるかがわかっていますね。お宅の党とは憲法を改正したことで我々との信任が厚くなり、絆も強固になりますな」
「…はい。しかし我々はこれがゴールではなく、始まりなのです」
林原が言うと膳場はびっくりしたような表情になっていた。
「と言いますと」
「まず自衛隊の位置づけがしっかりとしたので、米軍の段階的な撤退による新安保の構築があります」
「ほほぅ、未知の世界ですな。まっ、一つ頑張ってみてください。我々は静観しましょう」
膳場はできないだろうといった表情を見せていた。
公邸のコンピューター室で、コンピューターチーム対林原・木本のチームでバーチャル・ダブルステニスをしていた。
「あのAIシミュレーターって、未来を映す魔法の鏡なのかしら、ほぼその通りになったわね」
木本は前進して、コンピューターチームの女性が打ってきた球を打ち返していた。
「ん、そうかな。林原内閣の風当たりが強くなった面もあるし、あまり調子には乗ってらんないぞ」
林原はコンピューターチームの男性がラインぎりぎりに落とした球を、しっかりと見極めて返していた。その球はコンピューターチームの男女のちょうど間に落ちて拾えず、林原チームの得点となった。
「これで私たちの勝ち越しだわ。終りにしましょう」
木本はスティック状のコントローラーを近くのテーブルに置き、ゲームをオフにしていた。
「ゲームでも、結構運動になるな」
林原は軽く汗をぬぐっていた。
「セキュリティーのこともあるし、総理の間は本物のコートには行けないかもね」
「そう言えば、3番目の秘書の件はどうなった」
「あっ忘れてた。3次面接の通知を送ってないから、不採用だと思っているんじゃない」
「このところ、いろいろと忙しかったからな。で、どうする。仕切り直しでまた応募をかけてみるか」
「石川さんも張り切っているから、慌てなくても良さそうよ」
木本はコンピューター室の照明を消し、林原と共に部屋を出ていった。




