8. 熊一匹、野盗二人、狂信者ひとり
熊と対峙する野盗ふたりとキャタリー。
一時停戦し、協力してこの場を切り抜けることに。
熊はよつんばいのまま前足を左右にひろげ、口をあけて舌を垂らしながら、威嚇するように突進してくる。
最初に行動をおこしたのはギュンターだった。
向かってくるヒグマに対して右方向によけつつ、床から肩かけ袋——先ほど縄をとり出した革袋だ——をひろいあげて、鋭い犬歯の間を通し、強引にヒグマの口内にねじ入れる。
そして避ける勢いのまま横っ跳びにテーブルの上へ飛び乗り、空間をあけた。間髪入れず前におどり出たゲロルトは、熊の口の中へ、下段からくり出した短剣を一直線に突き入れる。
剣先が革の塊をのどの奥へ押し入れ、刃が頬の内側を切り裂く。
痛みで暴れるヒグマが、前足でめちゃくちゃに顔をかきむしった。
鋭いかぎ爪が腕をかする寸前に、ゲロルトは剣を引き抜く。
そして返す刃でクマの右目をねらい、すばやく剣を突き出した。
同時にギュンターがテーブルから飛び降り、その勢いのまま左目をねらう。
異物を吐き出そうとしてもがくヒグマの堅牢な筋肉と分厚い皮に弾かれて、ギュンターの刃は傷をつけることができなかった。しかしゲロルトの剣は、不規則なヒグマの動きをかいくぐり、正確に右目をとらえた。
焦げ茶色の獣皮の上に、鮮血がにじむ。
憎々しげに咆哮するヒグマ。
痛みに我を忘れ、あてずっぽうに腕を振りあげる。
ゲロルトは飛びすさってキャタリーを後退させ、短剣を構えて守りの姿勢をとる。
ギュンターも回避の一手で前へ通り抜けようとするが、散乱する調理具に足をとられて、体勢を崩してしまった。
熊の柔軟な手首がしなるように動き、ギュンターの左足をかする。
太ももの生地が切り裂かれ、一拍おいて血があふれだした。
「ちっ」
彼の額から汗が吹き出す。
「ギュンター!」ゲロルトがするどく声を放つ。
ギュンターはどうにかこらえて足をふんばり、そのままヒグマの背後へ回った。
熊は混乱状態で右往左往し、床に転がる家財道具を蹴散らしては、壁に頭をぶつけている。
「かすっただけだ。問題無ぇ」
ゲロルトの心配をはね除けるように、ギュンターが声をあげる。
気丈に振る舞ってはいるものの、ギュンターの息は荒かった。
とめどなく溢れる血がズボンを濡らして、刻々とその色を濃くしている。決して傷が浅くはないことは、誰の目にも明らかだった。
唯一幸運だったのは、回避のどさくさで彼だけは炉の前——脱出口側へと回り込むことに成功していた。
キャタリーは思わず訴える。
「あなただけでも先に外へ出て!」
つい先ほど会ったばかりの、しかも自分を害そうとした相手を心配する義理はないという思いが、キャタリーの脳裏をちらりと掠めた。
しかしさすがに目の前で血を流されていては、声をかけないわけにはいかなかった。
ギュンターは出入り口のすぐそばにいるのだ。これを逃す手はない。
「アホか。お前はともかく、ゲロルトを見捨てて逃げられるかよ!」
ギュンターが悪態をつく。
「そんなこと言っても、このままじゃ全員肉団子なんでしょう!」
キャタリーが叫び返す。
ゲロルトは冷静に割って入った。
「ギュンター、何かで気を引いて、奴を外へおびき出せないか?」
かの猛獣は炉とテーブルの間であらぶっており、両腕を振り上げては叩きつけて、テーブルの破壊にいそしんでいた。熊がキャタリーの方へ近づきそうになるたびに、ゲロルトが背後にかばって熊に刃を向け、牽制している。
ギュンターは周囲を見まわした。
先ほどの騒ぎでオイルランプの容器が吹き飛び割れてしまったため、炉の残り火が唯一の光源となり、薄暗い。
食料のたぐいはほとんど見当たらなかった。
わずかな調理器具がバラバラに吹き飛んで転がっている。
彼はその中からフライパンを拾い上げると、剣を逆手に持った。
柄で鉄面を打ち鳴らし、ヒグマを煽る。
「おい、コラ、熊ァ! こっち来い!」
ガンガンガンガン。
なかばヤケクソのように音を立てる。
「ごはんの時間でちゅよー。熊っ子ちゃーん。こっちにおいでー」
熊は落ち着きなく右へ左へと方向を変えて動き回った。
自分に傷を負わせた強い生き物からは逃げたいが、大きな音がする方向も怖がっていた。つまりは逆効果だ。
ギュンターは手に持っていたフライパンを放り投げ、「クソがぁ!」と毒づいて剣を構え直す。
キャタリーは思案した。
自分さえ向こう側へ通り抜けられれば、あとはこの二人でどうにかできるだろう。
憎まれ口を叩く小生意気なギュンターはともかく、ゲロルトの足を引っ張っているのは明らかに自分だった。この場で貢献できる手立てがないのが心苦しい。
そして、こうも考える。
うまくいけば、ふたりが残って戦っている間に、ここから逃げられるかもしれない。
彼らに対して当初ほどの悪い印象はすでになかったが、この戦闘が終わったところで、自分の身の安全は保証されないのだ。
生き延びろ、と言ってくれた郷里のひとたちを思い出す。
今日ここで終わってしまったら、彼らはどんな顔をするだろうか?
だめだめ!
キャタリーは頭を振る。
今はとにかく、この瞬間を切り抜けることに集中しなくては。
気持ちを切り替えると、キャタリーは目の前にいるゲロルトの背中にむかって声をかけた。
「ねえ。私、タイミングを見て向こう側へ抜けるわ。ゆっくりやれば大丈夫だと思うから。私が離脱すれば、あなたたちもやりやすくなるでしょう?」
ゲロルトからの回答は、すこし間があいた。
キャタリーからは背中しか見えず、何を考えているのか分からなかったが、ややあって「わかった」とだけ返事があり、最小限の動きでキャタリーに場所をゆずった。
ここから出入り口までは、テーブル脇の狭い通路を通り、熊の横をすり抜け、ギュンターのいる調理炉の前を通っていけばよい。馬五頭ぶんほどの距離だ。
キャタリーはスカートのひだの広がりをたぐって、右手でまとめて持った。
できるだけ熊の視界に入る面積を小さくするためだ。
それからヒグマのいる方向へ体の正面を向けて、背中を壁ぎわによせる。
あとは熊の呼吸に合わせて、動いているのがわからないくらいくらいのスピードで、ゆっくりと出口へ向けて進んだ。
あせらず、急がず。
『熊は横方向への動きには反応しやすい』というギュンターの発言を、頭の中で反芻した。
実際、熊はキャタリーに対して無関心だった。
ゲロルトが右目をつぶしたおかげで、視野が狭くなっていたというのもあるだろう。
自身の血の匂いで鼻が効かず、風音で音を拾いにくいのも幸いした。
もう少し。
じりじりとキャタリーと熊の距離が近づく。
テーブル脇を通り抜け、彼我は目と鼻の距離だ。二者の間をへだてるものは何もない。
熊が少しでもこちらを向けば、キャタリーはすぐに動きを止めて壁と同化する。
そして視線が外れれば、にじり足で移動した。
時間にすればものの数分だが、キャタリーには途方もなく長く感じられた。
ギュンターとゲロルトは、巨大な獣を刺激しないよう、息を殺して見守っている。
永遠にも思える努力の末、キャタリーは出口まで半分の距離に到達していた。
最も緊張を要したヒグマの前を通り過ぎ、静かにため息をつく。
汗で顔に張り付いた髪をかきあげたくて、キャタリーは左腕をあげた。
このとき彼女の所作が、極度の緊張状態から脱した気のゆるみから、ほんの少しだけ不注意になってしまったことを、誰も責めることはできないだろう。
ともかくキャタリーの左袖は、壁から飛び出た金具に引っかかった。
運の悪いことにそれは、閉じた窓板を固定しておくための、朽ちかけた鉄の掛け金だった。
古釘で窓枠に打ち付けられているそれは、経年により錆びて弱り、いつ根本から引っこ抜けてもおかしくない状態になっていた。
そして、おりからの強風による家屋の揺れになんとか耐えていたところ、キャタリーの一撃が最期のきっかけを与えてしまったのだ。
袖を引くはずみで受け側の金具が抜けおち、窓板側の掛け金が、寄る辺をなくして解き放たれる。
「あっ」
キャタリーの声をかき消すように、風にあおられた窓板が、勢いよく壁に叩きつけられた。
ばたん!
ひときわ大きな音が鳴り響く。
熊はくるりと振り返り、その目がキャタリーを捉え、そしてその後ろの開口部——外界につながる窓を発見した。
あそこから逃げられるかもしれない。
そう考えたのかはわからない。
しかし、痛めつけられ、取り囲まれてにっちもさっちも行かなくなった獣が、出口を求めて駆け寄るのは当然だった。
牙と爪を備えた巨大な猛獣が、自分めがけて向かってくる。
恐怖で身がすくみ、キャタリーは動くことができなかった。
鋭く飛び出た犬歯が、スローモーションでせまる。
——あ、終わる。
他人事のように考える。
——キャタリーの人生はここで終わってしまいましたとさ。次はもっとがんばりましょう。
右半身に強い衝撃が走り、はじき突き飛ばされる。
とうとう死んだ。
キャタリーは確信したが、そうではなかった。
「避けろ! ゲロルト!」
斜め後方で、ギュンターの悲痛な叫びがする。
出口近くまで床を滑ったキャタリーは、必死で上体を起こして振り返った。
ゲロルトがうずくまっている。
彼がすんでのところで、体ごとキャタリーを突き飛ばしてくれたのだ。
彼女に代わって行く手に現れたゲロルトに、ヒグマが鋭い歯牙をつき立てようとしていた。
ゲロルトの目が大きく見開かれる。
「!」
キャタリーは声にならない叫びをあげる。
その時だ。
白くて大きな影が、キャタリーを飛び越えた。
そして前方へ華麗に着地すると、今まさにゲロルトの頭を噛み砕かんとしている巨獣の脊椎に猛然と喰らいつく。
キャタリーはそれが何なのかを理解した。
狼だ。
わずかな明かりをうけてキラキラと艶めく白い狗が、どういうわけかゲロルトの窮地を救おうと奮闘していた。
ヒグマはたまらず後ろ足で立ち上がり、突然現れた侵入者を振りほどこうと巨体を揺らす。
ゲロルトはタイミングを見計らい、姿勢を低く保ったままその場を抜け出した。
「一体何がどうなってるんだ」
困惑をにじませて呟くゲロルトの頬は、血に濡れている。
白い狼と熊はぐるぐると位置を変えながら、牽制しあっていた。
体格と腕力では断然、熊が有利だが、狼はことごとくその攻撃をかわし、かすりさえしなかった。
キャタリーはほんのひと時、突然現れた助っ人の勇姿に見惚れた。
「わかんねぇけど、とりあえずラッキーだ。早いとこ逃げようぜ」
ギュンターが二人に声をかける。
賛同したゲロルトとキャタリーは、彼の後に続いた。
しかし出口の前までくると、ギュンターがいきなり立ち止まる。
「今度はどうした?」
ゲロルトが後ろから声をかける。
ギュンターが黙って外を指差すやいなや、落ち着いたメゾ・ソプラノの声があたりに響いた。
「外へ出るのですか? もうすぐあのひとが彼を追い払いますから、ここへ居ていただいた方が安全ですよ」
声の主をみとめると、三人は今度こそ完全に思考停止した。
月明かりに照らされてそこにいたのは、四肢をそろえて悠然と座る、漆黒の美しい獣。
紛れもなく狼だった。