6. 丁寧な暮らし
春の森は視界が染まるほどに青々と茂り、大気が青葉の香りを含んでさわやかだった。
しかしキャタリーは、そんなものには目もくれない。
鞄から取り出したナタをふりまわして薮をたたき、口笛を吹きながら、先日のスープについてあれこれ考えをめぐらせていた。
あのスープ、もう一度やったら、同じことができるかしら。
それに中に入っていた肉も気になるわ。豚? 鶏? 食べられるものなのかしら? 色々実験しないと。
目的地には、昼前には到着することができた。
少し広めに開けた空間。古い切り株がそこかしこにある。
その中央に、木こりと炭焼き人が共同で使っているのであろうロッジと、薪小屋が建っていた。
ドアを開けて屋内に入る。
埃とカビの匂いが鼻をつく。
小動物のフンや木の実の殻が、床に大量に落ちていた。
まずは水を確保して、熊よけを撒かなければ。
キャタリーは算段を立てる。
それから掃除をして、火が暮れる前に薪木集めと火おこしもしておかないと。
朝早くから歩き通しで疲れていたが、どうやら一息ついている暇はなさそうだった。森の日暮れは早く、やることは山のようにあった。
小川は本当にすぐそばを流れていた。
小屋から見える位置に、クルマバソウの群生が最盛期を迎えていて、白く可憐な花が一面に咲いている。その中央を縫うようにして、幼児の歩幅ほどしかない小川が、ちょろちょろと音を立てて流れていた。
倒木が完全に苔に覆われている。まるでおとぎ話の世界のように素敵に見えた。
これだけ川幅が細いということは、きっと源流に近いのだろう。
試しに手で水をすくって飲んでみると、ほのかに土臭かった。
ミミズやモグラじゃあるまいし……。これを飲み続けるなんて嫌だわ。
キャタリーはため息をつく。
とはいえ、ここでは酒は手に入らないし、飲まなければ死んでしまう。
キャタリーは小屋から洗濯桶を見つけ出すと、バケツを使って、川の水をせっせと汲み入れた。
しばらく陽光の当たる場所に置いておいて、余分なものが底へ落ちてから飲もう。
次は熊よけだ。
再度小川から水を汲み、入り口脇に置いてある大きな壺——巨大すぎるそれは、もはや甕と言った方が正しいが——の蓋を外す。
「うっ」
途端に異臭が目と鼻を襲う。キャタリーはたまらず小屋を飛び出した。
「目がっ!」
涙が止まらない。
焦げた木と煮詰めた酢を足したような、強烈な刺激臭だ。確かにこれなら、嗅覚の鋭い野生動物たちは近づかなくなるだろう。
覚悟を決めて戻り、エバンズに言われた通りにバケツの水で薄め、小屋の周りを大きく囲むように撒いた。
それが終わると、今度は手近なブナの若木を探し、葉ぶりの良い枝を切り取る。
枝を束ねて蔓で結べば、即席の箒ができあがった。
小屋へ戻って、天井から壁、ベッド、棚の順にほこりを払い、最後にまとめて床を掃き出す。まともな掃除道具ではないので、まるっきり綺麗にとはならないが、なんとか許容できる程度にはなった。
床はまた、天気のいい日に水で洗おう。
そう心に決めて、キャタリーは急いで火おこしに取りかかる。
いつのまにか日が木立の中へ沈み始めていた。
エバンズはああ言ったが、できるだけ火は絶やしたくない。
右も左もわからない森の中で暗闇の夜を過ごすことは、うら若き乙女であるキャタリーには、恐怖以外の何ものでもなかった。
鞄から火打ち金を取り出すと調理場と暖房を兼ねた大きな炉へブナの箒をバラし入れ、ほぐした麻の繊維を火口にして、手際よく着火した。
あとは適当に薪を放り入れればいい。
ぐう、と腹が鳴る。
朝から何も食べていない。
小屋には簡単な調理器具も揃っていた。
焦げついて真っ黒になった吊り鍋を川ですすぎ、桶の水を注いで火にかけた。
ぐらぐら煮えたところで火から下ろし、しばし考える。
もし、あれが一回きりの奇跡だったとしたら。ここで両手をダメにしたら、明日から生活できないかもしれない。
ニクスー様、どうかお願いします。両手を失うのも嫌ですが、餓死も嫌です。
慈悲を!
手を組んで鍋に祈る。
意を決して両手を鍋に突っ込むと、瞬く間に湯はスープに変化した。
部屋の中が暗くてよくわからないが、葉野菜のようなものと、肉が入っている。手は……無事だ!
皿に取って食べてみると美味しかった。
バートラムが持たせてくれたパンをちぎって一緒に食べると、途方もない充足感につつまれた。
とにかくこれで、食料には困らなくなった。何よりニクスー様が、信仰に対して実利をもった奇跡でこたえてくれることが証明された。
死なないことが第一。キャタリーは決意を新たにする。
生きて、この奇跡を広め、大衆を幸せに導こう!
翌日は朝一番で大川を探しに出かけた。村のそばを流れる川の下流部分だ。エバンズの忠告を聞いて、飲むのはやめておいた。岩陰に魚が見える。竿を作れば釣れそうだ。
簡単に沐浴を済ませて、小屋へ引き返す。
そこからは毎日、同じ作業の繰り返しだ。
朝一番で桶に新しい水を汲み、天日にあてる。
大川へ行き、体を洗うついでに洗濯もすませる。
戻ったら薪集めや薬草摘み。
拠点の近くで、クルマバソウが大量に手に入るのは幸運だった。この花は乾燥させると甘い香りが立つ。
ハーブティーや粉末にすれば簡単な万能薬になるし、香りが虫除けにもなるので、ベッドや小屋のあちこちにポプリを置いた。
小屋周辺の下草刈りをして、炉の灰を地面へ撒いて除草する。
鹿のフンは、発見次第回収して、離れた場所へ捨てに行った。獣が寄り付いてしまうからだ。
食事は昼にスープを作り、夜には食べきった。
目が冴えて眠れない夜は、手鍋をかぶると安心できた。
春の森はオオカミの遠吠えがよく響く。
たまにアォアォと吠え返すと、呼応するかのように一斉に鳴き返されるのがおもしろかった。
夏前になると、オオカミの群れが小屋の周りをうろつくようになった。春に生まれた子が育ち、活発になって軽はずみに近づいてくるので困った。
毎日余分にスープを作り、具材だけとり分けて鹿のフンを捨てているあたりに置いておくようにしたら、小屋まで来ることは無くなった。
川の上流に熊を見かけたこともあった。
流石に恐ろしく、数日は引きこもって過ごした。
村にいた頃、熊に襲われて大怪我した者を何人も見ていたからだ。
スープについての研究も進んだ。
わかったことは四つだ。
一つめ。流れのない湯、または水に両手をつけることで変化させることができる。
つまり、わざわざ煮えた湯に突っ込む必要はなかったのだ。
両手が入りきらない小さな容器では変化させることができないし、川の水を変えることもできないようだった。
二つめ。スープに変化した際の温かさは、その時々で変わる。というより、望むような温度に調整することができた。
何も考えずに変化させれば少しぬるめ、熱くと願えば熱くなるし、冷たくと念じれば冷めたスープになった。
グラグラ煮え立つような、と願えば、そうなるのかもしれなかったが、流石にそれを試すことはやめておいた。
三つめ。出るスープの具はまちまちだった。
キャベツと肉のみ、というシンプルなこともあれば、細かく切ったカブや玉ねぎ、豆などがたっぷり入っていることもあった。内容のリクエストは通らず、肉だけがいつも同じものだった。
しかし、相変わらず肉の種類は不明のままだ。
四つめ。腐った水や泥水は変化させられない。
ある程度のきれいさ、少なくとも、キャタリーが「飲める水だ」と思えるぐらいの質が必要だった。
あれこれと実験を繰り返し、森での生活にもすっかり慣れたころ。
季節は秋になっていた。
村ではそろそろ収穫期だろう。
あとひと月半もすれば、エバンズや仲間たちがやってくるはずだ。
キャタリーは森をまわり、木の実を拾い集めるのが日課になっていた。
毎日栄養十分なスープが食べられるとはいえ、さすがにそれだけでは飽きてしまう。
集めた木の実は一晩水にさらした後で砕き、野草と混ぜて魚の腹に詰めて炉端焼きにする。
そこまで美味いものではない。
というより、ほのかに草とナッツ風味のただの焼き魚だったが、手間をかけることに意味があった。
いわゆる「丁寧な暮らし」というやつだ。
人間暇になると、どうでもいいことにこだわって意味を見出したくなるものなのね。
魚のはらわたを取り除きながらキャタリーは思った。
その日は風が強く、隙間風があちこちから入って火を揺らした。
夕暮れ時。早めに食事をとり終えたキャタリーは、さっさと寝てしまおうと後片付けを始めていた。
壁のわずかな隙間を通る風が、ひっきりなしに音を立てる。
窓板がガタガタ揺れて、棚の小物がぶつかり合っていた。
だから、小屋の戸が派手に開く音がした時、彼女はてっきり風でかんぬきが外れたのかと、間抜けな想像をしたのだった。
「ぐへへへ。邪魔するぜぇ」
「!」
戸口に二人、うす汚れた男たちが立っていた。
遅くなってしまいました。。。お読みいただきありがとうございます!
次回更新は、間に合えば25日。厳しければ26になります。
2024/08/26追記
25〜26日に投稿を予定していた7話ですが、どうしても納得のいくものが書けず……。
非常に心苦しいのですが、投稿を明日(27日)へ延期させていただきます。
何度も更新を確認しにきてくださっている皆様、本当にすみません……。
より楽しんでいただける作品をお届けしたいと思っておりますので、のんびりお待ちいただければ幸いです。
何卒よろしくお願いします。