3. 汚い男、その名は
パン焼き窯は、ハインツの実家の正面に暮らすベッカー家が管理している。
近くまで来ると、住居に併設されたパン工房の煙突から、煙が上がっているのが見えた。
「あら、珍しい」マリアがつぶやく。
ドアのない玄関をくぐって中へ入る。
ピカピカに磨き上げられたカウンターの向こうで、男がひとり、奥の壁に向かって作業していた。
灰かき棒を窯に差し入れて引っ掻き回しては、中を覗き込んでいる。
「おはようバートラム」
キャタリーが声をかけると、彼はゆったりとした動作で振り向いた。
このあたりでは珍しい金色の巻き毛が、汗で額にはりついている。色白で線の細い、いかにも芸術家肌といった雰囲気の若者だ。
「おはようマリア、キャタリー」
「起きているとは思わなかったわ」キャタリーは率直に伝える。
「しかも火おこしまでしているなんて」マリアも同調する。
「そろそろ怒られる頃かなと思ってね。当たっただろ?」
得意げにそう言うと、バートラムは鉄の棒を置いてこちらへやってきた。
「父さんが顔を真っ赤にして怒っていたわ。叩き起こしてでも窯に火を入れさせろって」
「あの人の顔は、普段から赤いじゃないか」
話しながらキャタリーは、パン種と銀貨をバートラムに渡した。
バートラムは受け取った生地をかごから下ろし、「ずいぶん多いな」とぼやく。
そしてそれらを丁寧に切り分けて小さく丸めると、カウンターの上へ並べていった。
ある程度数が揃うと、今度は振り返って窯に火かき棒を差しこみ、熾の位置を調整してから焼き床を設置する。
あとは、先ほどの生地を焼きながら、同じ作業を繰り返していていくだけだ。
大きなパーラーに生地を乗せ、せっせと窯に入れていくバートラムの背中に向けて、キャタリーが問いかける。
「うちでお客様が召し上がる分だけ、先に貰いたいの。
どのくらいかかる?」
第一陣を入れ終えて窯の口を板で塞ぐと、バートラムは額の汗を拭って言った。
「まあ、すぐだな。そこの蜘蛛が糸を張り終わる頃には焼けてるよ」
天井を指差すので、キャタリーもつられて上を向く。隅の方で、小さな蜘蛛が巣を作っている最中だった。
それだけの時間があれば、十分ハインツの家へ寄れるだろう。
「それじゃ、外で待っていていいかしら。ここは暑くって」
「かまわないよ。焼き上がったら声をかけるから。
マリアも外で待つかい? そこのイスを使ってくれていいからね」
「ありがとう。私はここで待たせてもらうよ」
そう言うと、マリアは意味深にキャタリーに微笑んだ。「ちゃんと戻ってくるんだよ」
何か勘違いされている気もするが、かえって好都合だ。
「それじゃ、出てるわね」
急いで道を横切り、鍛冶屋へと向かう。
ハインツがうまく言い訳できたかどうかが気がかりだった。
家の窓からそっと中を伺うものの、彼は見当たらなかった。出かけているのだろうか。
今度は裏手に回って、ハインツの叔父一家が所有する畑に向かう。
もしかすると、手伝いに駆り出されているのかもしれない。
しかし予想に反して、農園はもぬけのからだった。
視界のずっと先まで伸びる耕地は半分ほどが鋤きおこされているが、彼はおろか、叔父やその家族も見当たらない。
柵の手前に堆肥を盛った桶が二つ三つ置かれて、虚しく匂いを放っている。
どこへ行ったのかと不思議に思いながら、キャタリーは仕方なく来た道を引き返した。
その時だ。
「あ、ハインツ!」
何気なく顔を上げた視線の先、教会から司祭を先頭に出てくる男たちの中に、彼の姿をみとめた。
急いで彼のズボンを確認する。
黒ずんではいるが、油汚れなのか昨日の汚れなのか判別がつかない。
ともかく非常に汚らしくはあったので、キャタリーは申し訳なく思った。
彼女の視線に気づいたハインツが、気まずそうに司祭の後ろに隠れる。
近所の住民たちが、何事かと窓から顔をだして覗いている中、一行はキャタリーの目の前まで来て止まった。
軽く咳払いし、かしこまった調子で司祭が述べる。
「ハインリヒ・アイゼンミットの申し立てにより、カタリシェン・クレッチマーは告訴されることになった。
教会規範に則り、開廷までの期間中、被告の身柄を教会で預かることとする。
以上」
キャタリーは驚いてハインツを見るが、彼は頑なに視線を合わせようとしない。
彼女はここで初めて、自分が過ちを犯したことに気がついた。
湧き上がる感情をどうにかこらえて、静かに答える。
「わかりましたヴィリガス司祭。向こうに母がいますので、少し話をしてもよろしいですか?」
司祭はそれを無視して、周りの男たちに指示する。
「連れて行きなさい」
騒ぎを聞きつけたのか、店の中からバートラムとマリアが出てくる。
「何の騒ぎだ。キャタリー?」
「司祭様? 一体何を……。私の娘をどこに連れていくんです!」
マリアがキャタリーを取り囲んでいる男たちに掴みかかる。
「落ち着きなさいマリア。あとでグラナフと一緒に教会に来なさい。詳しいことはそこで話そう」
「待ってください。娘を離して! キャタリー!」
取り乱す母の声を背で聞きながら、キャタリーは振り返って叫んだ。
「私は大丈夫よ、お母さん! それよりも、うちにパンを届けてね!」
教会の牢は、快適とは言い難いものの、想像していたほど悪くはなかった。
古いベッドには洗濯されたシーツが掛かっているし、食事はきちんとしたものを運んできてくれる。
チェスまで差し入れてくれるので、キャタリーは少し笑った。きっと退屈しないようにと司祭が気を回したのだろう。
ベッドに寝転んで、先ほど自分の身に起こったことを考える。
「ハインツ」
無意識にここに居ない男に呼びかける。
最後に会った彼は、目も合わせてくれなかった。
分かってくれたと思ったのに。
キャタリーの眼から涙がこぼれる。
彼に宗旨を理解してもらえていなかったことが悔しかった。
回心を引き出せなかったことが情けなかった。
何よりも、ニクスー神に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
自分では敬虔な煮込み肉のつもりだったが、その実、ただの未熟な生煮え肉だったのだ。
キャタリーは服の袖で瞼をぬぐって、これからのことを考える。
異端はともかく、異教信仰は重罪だ。
ヴィリガス司祭があの場で詳細を公にしていれば、もしくは、キャタリー自身が動揺して要らぬことを口走っていれば、十中八九その場で村の人々に殴り殺されていた。
今更ながら、司祭の思慮深さと優しさに感謝する。
とはいえ、状況は芳しくない。
宗教裁判ともなれば、裁判官は司教区肝入りの司祭が担当することになるだろう。
最悪火刑か、良くて腕か舌を切り落とされるか。いずれにしてもかなり痛そうだ。
五体満足で生き残るには、頭のおかしい人間を演じて村を追放されるしかない。
人里を出れば生き残れる確率はかなり低くなるが、腕や舌を失くして布教できなくなるよりは、遥かにましだ。
できるだろうか、演技。
この私に。
キャタリーは逡巡する。
およそ芸事とは縁のない人生だ。
「清楚で奥ゆかしい宿屋のキャタリー」以外になりきるなんて、想像もつかなかった。
でも、やるしかない。生き残って、健康でハッピーな人生を掴み取るために。
数日後、グラナフとマリアが面会に訪れた。
裁判の日取りは二週間後。予想通り、司教区から司祭が派遣されるそうだ。裁判前に村民全員が聴取を受けることになるらしい。
結果がどうあっても、村での生活が厳しくなることは覚悟するように、と司祭から話があったと伝えられた。
マリアは終始泣いていて、グラナフはハインツに対しても娘に対しても怒っていた。
もっと色々と順番を考えるべきだったなとキャタリーは悲しく思うが、今さら言っても仕方がない。
◆
裁判当日。
法廷は北にある集会所が使われた。
縄をかけられたキャタリーが中に入ると、すでに全員がそろっている。
祭服を身にまとった神経質そうな若い男が、奥の一段上に座っている。彼が裁判官をつとめる司祭だろう。
その手前には四人の陪審員が並んでいて、それぞれの身なりから、裁判区内の富農や名士あたりだろうと見当をつける。
その中に見知った顔を見つけて、キャタリーは飛び上がるほど驚いた。
ライへ卿だ。
彼はキャタリーを見て軽く頷くと、そしらぬ顔をして正面を見据えている。
キャタリーは縄を持つ男たちに引かれて、左側の被告人席に腰をおろす。
正面には、ヴィリガス司祭とハインツがいた。
キャタリーが着席したのを確認すると、裁判官はおもむろに口をひらいた。
「では開廷に先立ち、双方、宣誓を」
その言葉を聞いて、司祭は立ち上がって半歩前に出る。
「原告ハイドリヒ・アイゼンミット、ならびに私、ヴィリガス・キンドは、神にかけて真実を語ることを誓います」
キャタリーも立ち上がって、見よう見まねで宣誓する。
「私、カタリシェン・クレッチマーは、神にかけて真実を語ることを誓います」
裁判官は冷たい目で一同を見まわすと、声高に宣言した。
「これより開廷する」
キャタリーの長い一日が始まる。