2. すばらしきニクスー様
不意をつかれた驚きで、ハインツは反射的に体をこわばらせた。
「何? ふざけてるのか?」
キャタリーは心外だと言わんばかりに目を見開いた。
「ふざけてなんてないわ。そりゃあ、本当は豚の骨じゃなくて、上等な牛の腰肉なんかがあれば最高だけど」
ハインツはさっと部屋の中を確認する。
立方体の形をした、石造りの小部屋だ。
天井は低く、ジャンプすれば頭を打ちつけてしまいそうだった。
キャタリーの背後、階段の正面には奇妙な祭壇のようなものがあり、大量のろうそくが燃えている。
中央にはひときわ大きな鉄鍋が置かれていて、乾燥させた薬草やパースニップなどが放り込まれているのが見えた。
「あのね、昼間に話したでしょう。夫婦っていうのは、同じ信念を持って人生の喜びを共にするものだ、って。
だから私、ハインツにもニクスー様のすばらしさを知って欲しいの」
「ニクスー様?」
座って、とキャタリーが腕を引くので、ハインツは言われた通り、木製の粗末なイスに腰をおろした。
キャタリーは祭壇前に立つと、司祭のように語り始める。
「ニクスー様っていうのは、空飛ぶ肉入りスープ鍋教の、最高にして唯一の神なの。
そのお姿は、肉入りスープが煮えている鉄鍋にそっくりでね、全ての人類はニクスー様の慈悲によって生まれ、育まれているのよ」
興奮したようにキャタリーは続ける。
「私たち信徒は、こうして頭に鉄鍋をかぶることで、より深くニクスー様のご意志に繋がることができるの。
この鉄鍋は、悪しき存在の洗脳から守ってくれる役割もあるのよ。
今この世界では、カラシテ教信者以外は悪魔崇拝者として酷い扱いを受けてしまうでしょう?
これは、信仰の力が不足していて、ニクスー様が全ての人を守ることが難しいからなの。
本来人は、どんな神を信じてもいいのよ。ニクスー様は、個人の思想や信念を尊重してくれるわ。
ニクスー様を信仰しながら、カラシテを信仰しても構わないの。もちろん、カラシテ教信者を弾圧したりもしない。
でも、カラシテはそうじゃないでしょ?
この違いこそが、ニクスー様が最も優れた神である証拠なの。神としての器が違うのよ。鍋だけに」
キャタリーは一息でそこまで捲し立てると、塩壺を祭壇に置いた。
祭壇下からハチミツ酒を取り出して一気にあおる。
豪快に口を拭って一息つくと、宣教の効果をはかるかのように、たったひとりの傍聴人を見やった。
ハインツは返答に迷った。どのように返事すれば、キャタリーの機嫌を損なわず、無事に家へ帰れるだろうか。
「それはずいぶん、寛容な神だ」
「そうでしょう!」食い気味にキャタリーが答える。
ハインツは質問してみることにした。
「それで、ニクスー様は具体的にどんな奇跡を起こしてくれるんだ?
カラシテは水を酒に変えたり、死者を蘇らせたりしてる。それに俺たちが一生の間に罪を償って、よい生き方をしていれば、最後の審判で神の国へ渡ると約束している。
ニクスー様は一体どんな風に、俺たちにその威光をみせてくれるんだ?」
「それはね!」
我が意を得たりといった様子で、キャタリーが目を輝かせた。
「まずね、生まれながらに罪を負っているという考え方は、空飛ぶ肉入りスープ鍋教にはないの。
だってそうでしょう? 神の子である私たちが、生まれ落ちたその瞬間から罪を負っているなんてありえないもの。
それにね、ニクスー様は、最後の審判なんていう、誰にも観測不能な未来の話で、私たちを惑わせたりはしないの。
確かめようのない過去の奇跡や、目に見えない罪、果たされるかわからない約束のせいで、人は不安になったり、自暴自棄になったり、自分本位になったりするでしょう?
ニクスー様が施してくださるのは、健康で明るくハッピーな人生。つまり現世利益なのよ!」
今やキャタリーは、左手の豚骨を振り回す勢いだった。
「健康はともかく、明るくハッピーな人生なんて、それこそ曖昧で不確定じゃないか」
「いいえ! 明るくハッピーっていうのは、少なくとも自分の心で観察することができるわ!
そしてね、ニクスー様は、信徒が本当の意味で敬虔な信者、つまり最高の『煮込み肉』として覚醒した時、最高のご褒美をくださるの」
「なんだよそれは」勢いに気押されてハインツが尋ねる。
キャタリーは振り上げた腕を下ろすと、鉄鍋の下でにっこりと笑みを浮かべて、自信満々に答えた。
「肉入りスープよ」
「は?」
「肉入りスープよ」
「……」
ハインツは今や恐怖していた。
悪い夢を見ているようだった。
今まで自分が見ていた、はにかみ屋で純真な彼女は幻想だったのだろうか。
毎日家を訪ねてきては、少しでも一緒にいたいと恥ずかしそうに打ち明ける少女は、一体どこに行ってしまったのか。
「肉入りスープよ」
意味がわからなかった。
肉入りスープのではない。
いや、正直肉入りスープの意味もわからないが。
病んだ犬が同じ場所を回るかのように、同じ言葉を繰り返す、彼女の行動の意味だ。
少なくとも自分の知る彼女は、相手の困惑を無視して話を続けるような、独りよがりな質ではなかった。
「肉入りスー」
「もういい! 聞こえてる!」
ハインツは、キャタリーを刺激しないようゆっくりと立ち上がった。
「君の情熱はわかったよ、キャタリー。ニクスー様は確かに立派だ。すばらしい。それは十分伝わった。
でも知っての通り、俺は生粋のカラシテ信者だ。
教会で洗礼も受けたし、礼拝にもちゃんと行く。そういう生活を十七年間続けてきた。
今更それを止めるのは難しいんだ。わかるだろ?」
「あら。止める必要なんてないわ。
私だって洗礼は受けているし、週末の礼拝も欠かしたことはないもの。
さっきも説明した通り、ニクスー様は自分だけを崇めよなんていう、心の狭いお方ではないのよ」
「だとしてもだ。君の言うニクスー神が許しても、カラシテ様は許さない。
いいや、例えカラシテ様が許しても、教会は許さないだろう。
何よりも俺自身がまだ混乱している。受け入れられていないんだ」
「ハインツ」
キャタリーの顔から初めて笑みが消える。
ハインツは慎重に言葉を選んだ。
「だから、だから少し考えさせて欲しいんだ。
君の信じるものを、きっと受け入れてみせる。
だって俺たち、夫婦になるんだから」
「ハインツ!」
少し大袈裟にキャタリーの両手を取る。
感極まった彼女が勢いよく胸に飛び込んできたので、ハインツは鉄鍋に思いっきり鼻をぶつけた。
「あらごめんなさい。
でも、よかった!
あなたならわかってくれるって信じてた!」
「はは。当たり前じゃないか」
ふたりは一度解散することにした。
ハインツの気持ちの準備ができたら、改めて、空飛ぶ肉入りスープ鍋教の洗礼式を行おうと約束して。
◆
雄鶏が一番ごえをあげ、東の山脈の端から、徐々に朝日が差しはじめた。
小道の脇の草花が、朝靄に濡れてしっとりと輝いている。
堆肥小屋からは湯気が立ち、森をねぐらにしている鳥たちが忙しく囀りまわっている。
ワッサーホールの人々は、それぞれの家で朝支度を始めていた。
「おはよう父さん、母さん」
いささか寝坊したキャタリーは、あくびを噛み殺しなぎら両親に挨拶した。
「おはようキャタリー」
チーズを切り分けている母、マリアが応じる。
クレッチマーの宿屋では、主人のグラナフと妻のマリアが、宿泊客に出す簡単な朝食を準備しているところだった。
「おい、キャタリー。あくびばかりしてないで、母さんと一緒にパン屋へ行ってきてくれ」
大柄で赤ら顔のグラナフが大声で怒鳴った。
粉だらけの手を雑にはらい、のそのそと厨房から出てくる。
「パン種はそこにあるのを全部だ。
最初のひと塊ぶんが焼けたら、先にもらって戻ってこい。今朝はお客様が召し上がるからな」
キャタリーは手近なカップにシードル注ぎ、一気に飲み干した。寝起きの喉が潤う。
「はい、父さん。でも、こんな時間から窯に火を入れてくれるかしら」
「尻を叩いてでも焼かせろ。火ぃ入れねえなら、お上に報告するぞってな。
あの男、昨日だって一昨日だって、やれ天気が悪い、日取りが悪いと言っちゃ、ろくに働きやしねえんだ。しまいには釜の機嫌が悪いとでも言い出すだろうよ」
グラナフはそこにいないパン屋に腹を立てて顔を真っ赤にし、地団駄を踏む勢いだ。
父に気づかれないようにこっそりと母親を振り返ると、マリアは黙ってバスケットを取り出し、中に湿らせた麻布を敷いている。
グラナフは一度言い出したら聞かない性格だ。行かざるを得ないだろう。
本当はハインツの家へ行って、約束通り肥料運びをしたかったが、仕方がない。
パンをもらった帰りに、少し立ち寄れるだろうか。
その時、二階から足音がして、身なりの良い初老の男性が降りてきた。
青い麻のチュニックを刺繍入りの革のベルトで絞り、肩に羽織った半円形のマントは、銀のブローチで胸元を留めている。
「おはようございますライへ様。すてきなお召し物だわ」
キャタリーが声をかけると、ライへと呼ばれた男は、柔和な笑みを浮かべた。
「おはようキャタリー。ありがとう。私も気に入っているよ」
彼は城に仕える巡行官吏だ。
各地に点在する侯爵家の城を回りながら、農村や街道の状態を調べて報告するのが仕事らしい。
この地方を回るときには必ず立ち寄ってくれるので、グラナフとの付き合いはかれこれ二十年以上にもなる。
かつては大層活躍した騎士だったという話だが、キャタリーが物心ついた頃には今の穏やかな彼なので、あまり想像がつかなかった。
グラナフがカウンター越しに大声で話し始める。
「すみませんね旦那。もうちっとだけお待ちくださいや。
窯焼きのじじいが少し前に腰をやっちまってね。 代わりに倅が店に立ち始めたのは良いが、まあなんというか、あー」
「彼は芸術家気質なの」
キャタリーが助け舟を出す。
「そう! 彫刻家みてえに色々とこだわりのあるやつでね。腕はいいんだが、気分にムラがあっていけねえ。
まあともかく、今から焼かせに行かせますから。スープでも食べながらゆっくりしていてくださいや」
「はは。それはいい。いただこうかな」
ライへは朗らかに笑ってカウンター席へ腰掛ける。
キャタリーはパン種入りのバスケットを受け取ると、軽く会釈してから、母と共に店を出た。