1. 宿屋の娘
はじめに
この本を手に取ってくれている皆さん、こんにちは。
それともごきげんようって書くべきかしら?
私はカタリシェン・クレッチマー。みんなには、気軽にキャタリーと呼んでもらっています。
私にとって、故郷の村を追い出されてからの人生は、決して楽なことばかりではありませんでした。
それでも、私の人生をこのようなかたちで後世に伝えることで、少しでも多くの『生煮え肉』のみなさんの、目醒めの一助になれば幸いです。
崇高なるニクスー神と、快く執筆を引き受けてくださったヴェーラー氏に、多大なる感謝を。
愛と光、少しの塩を込めて。
カタリシェン・クレッチマー
◆
古今東西、あらゆる地域、国において、時代の先駆者と呼ばれる賢人が現れるのは世の常だ。
しかし、彼らにも若年期はある。
偉大なるカタリシェン・クレッチマーも例外ではない。
彼女の物語はこう始まる。
ジェントルワイザー侯国南東。
広大な森林帯であるギッテ地方の最奥に、ワッサーホールという村があった。
村の南には東西を結ぶ川が流れていて、カワマスがよく釣れるので、魚料理がちょっとした名物だった。
しかし特色といったらそれくらいのもので、領内の主要な街道から外れていることもあって、訪れる者はそう多くはない。
その村の顔役は、グラナフ・クレッチマーという男で、居酒屋と宿屋をかねた店を経営していた。
十年ほど前、ジェントルワイザー卿本人が地方視察に訪れた際にもてなしたというのが自慢で、その功績が認められて醸造権を下賜されたことを、武勇伝のようによく語った。
グラナフには二人の息子と一人の娘がいる。
長男は、先の視察の際に料理の腕を見込まれて、侯爵家に登用され料理人として仕えている。
従って店の後継ぎは次男になるはずだったが、あろうことか結婚式の一週間前に、旅のジプシー女と駆け落ちしてしまった。
そんなわけで、十六歳になる末娘カタリシェンは、鍛冶屋の次男坊、ハインツを婿養子にとることが決まっていた。
「ねえ、ハインツ。私たち、来月には夫婦になるでしょう?」
昼食を終え、家の手伝いが始まるまでの午後の時間。
種蒔きを待つ豆畑のそばをだらだらと散歩しながら、キャタリーが切り出した。
「そうだなキャタリー。それがどうかした?」
村一番の優男、ハインツが微笑みながら応じる。
「私ね、夫婦って、お互いのことを誰よりも理解しているべきだと思うの。二人で同じ信念を持って、人生の喜びを共にするものだと思うの。そうでしょう?」
そう言って甘えるように恋人の様子を伺う。
「うん? そうだな。俺達二人で、店を盛り上げていかないと」
「店のこともそうだけど。あのね、」
キャタリーが立ち止まってうつむくので、ハインツは彼女のやわらかな黒髪をやさしくなでた。
少し顔を赤らめて、彼女はこう続ける。
「あなたに見せたいものがあるの。
今夜、月があの楢の木のてっぺんにかかる頃、裏の倉庫まで来てくれないかしら?」
ハインツは少し考えて言った。
「それは構わないが。
偶然にも、いま俺たちは暇を持て余してる。これからそれを見せてくれるのではダメなのかい?」
ジュニパーの葉をぶちぶちとむしり取りながら、焦れったそうにキャタリーが返す。
「あなただけに見せたいのよ。私にとって、とても重要で、すごく神聖なものだから」
「そこまで言うなら、わかった。今夜、月があの楢の木の天辺にかかる頃だな。必ず行くよ」
キャタリーは、はにかむように微笑んだ。
「ありがとう。待ってるから」
若い二人を祝福するように、穏やかな風がさらりと吹いた。
その晩。
ハインツは両親がイビキをかいて眠りこけているのを確認すると、明かりを持たずに外に出た。
半月の夜。雲が多い。
田舎の農村の夜は、月明かりがなければ無明の闇だ。
「くそっ。ランプを持ってくるべきだったか」
ハインツは悪態をつく。
ランプに使う魚の油は、燃焼する際に独特のにおいを放ってしまう。
灯りで人に気づかれることよりも、森から獣を呼び寄せてしまうことの方を気にして、持参しなかったのだ。
片付けられていない農耕馬の糞が、道のあちこちに落ちている。
暗がりの中、わだちに足をとられ糞を踏み抜き、ハインツの気分は最悪だった。
どうにかして宿屋の裏手までやって来ると、倉庫の扉の前でキャタリーが出むかえた。
「ハインツ!」
興奮を抑えきれない様子で小声で呼びかけられる。
口元に人差し指を当ててみせるので、ハインツは黙ってうなずいた。
キャタリーはまず、ガウンのポケットから大きな鍵を取り出した。
続いてガウンを脱ぐと、錠前を何重にも覆うようにつつむ。
最後に、雲間からさす明かりを頼りにして鍵穴を探すと、音を立てないようにそっと差し込んで回した。
服の中でガチャリと音がする。
キャタリーは包ごと錠前を外すと、木の扉を開けてすばやく中へ入った。ハインツも後に続く。
「来てくれてよかった! 」
扉を閉めると、嬉しそうにキャタリーが言った。
手まさぐりでろうそくを見つけて火をつける。
塊になったガウンをほどいて、寝まきの上から羽織った。
「おじさまとおばさまは平気だった?」
「ああ、ふたりともぐっすりだよ。夕べ、君の店でエールをしこたま飲ませたからね。
そんなことより、くそっ、ズボンのすそが馬の糞まみれだ。明日何も言われなきゃいいが」
イライラしながらハインツが答える。
「朝一番で畑に肥料を運んだことにしましょう。見つかる前に洗濯すれば、堆肥だか糞だかわからないわ。
……こっちよ」
キャタリーがずんずんと倉庫奥に進んでいく。
ここは宿の保管庫で、野菜が入った木箱や、小麦粉やチーズが保管された棚、酒樽などが整然と並べられている。
奥の壁には扉が付いていて、どうやら店舗側から直接行き来できるようになっているらしい。
扉のすぐ横の荷物台には、宿泊客から預かった荷物を保管できるようになっていた。
今夜は革の大鞄がひとつ、ぽつんと乗っているきりだ。
キャタリーは棚の間を縫うように進むと、ある一角でしゃがみ込んで床を探しはじめた。
やがて、張り板の隙間から小さな木片を取り外すと、別の隙間に差し込んだ。
カタリと音が鳴る。
もう一度、もとの隙間に手をかけると、今度は板を一気に上に引き上げた。
隠し扉だ。
「ずいぶん手のこんだ仕掛けだな」
ハインツは感心して声をかける。
「父さんの父さんの、そのまた父さんの代まで、うちは代々大工の家系だったから」
キャタリーが説明する。
「当時のご領主様がこのあたりで鹿狩りをなされるときに、先行して宿舎を建てに来たのが、私のひいおじいさんだったの。
それがきっかけで店の経営権をいただいて、ここに住み着いてしまったんだけど。
この村の古い建物には、こういうちょっとした仕掛けが残ってるものが多いわ」
秘密にしてね。と言いながら手際よく床板を外していくと、やがて人ひとりが通れる大きさになる。
キャタリーは後ろ向きに身をかがめて、床にあいた穴の中に足をおろした。
「階段にはなっているけど、かなり急なの。段に手をかけて、ゆっくり降りてきてね」
そうして片手にキャンドルを持ったまま、器用に降りていくので、ハインツもあとに続いた。
段を下るにつれて、まず異様な匂いが鼻につく。
酸化した油と腐った肉を燃やしたような、胃にもたれる、粘り気のあるにおい。
狭い空間で獣脂で作ったろうそくを大量に燃やすと、このようになるかもしれない、とハインツは思い当たる。
やがて背後から光が差しているのを感じ、下ろしたつま先が地面に触れる。
どうやら最下層へ着いたらしい。
「乙女の秘密の小部屋にしては、雰囲気ありすぎないか?」
皮肉を言いながらハインツが振り返る。
目の前にはキャタリーが立っていた。
頭に鉄鍋をかぶり、右手に塩壺、
左手に豚の骨を持っている。
彼女は満面の笑みを浮かべてこう叫んだ。
「ああ、ハインツ! あなたをここに連れてこられて本当に良かった!」