三
出入り口である宮門を潜り抜け、卑弥呼と男弟は王宮の外に出た。
門にいる二人の衛兵たちがお忍びの卑弥呼たちに目配せで挨拶した。
王宮は高い木柵が巡らされ、都市の住人たちの家々と隔てられていた。
宮門は王宮の裏手にあり、彼女たちはそこから縦横に伸びる道を伝って市場へと向かった。
町は環濠に囲まれ、四方には出入り口の楼門が建ち、楼上では弓矢を手にした兵士が周辺の野や山を監視していた。
市内は赤土を踏み固めた通りがあり、土手の下には市外の濠に繋がる小川がゆったりと流れていた。
川に近いところには倉庫が設けられ、小舟が貢物を運び込んでいた。
川岸では柳の木が枝を垂れ、通りの左右には人家や役所が並び、人々が行き交っていた。
邪馬台国は山に護られ、筑後川という動脈を掌握し、穀倉地帯の筑紫平野を支配していたため、その暮らしぶりは豊かだった。
米や布が倉庫に満ち、川に近い楼門の内側に市場があった。
素通しの小屋が並び、布を通貨の代わりに米や野菜、魚介類、果実、衣類、鉄器、かんかん石、翡翠、土器などが手に入れられた。
市は監視人が交易に不正がないかどうかを見張り、貢納品を取り立ててもいた。
その官人がやってくると、平民たちは一斉に道端へ跪いて土下座をした。
八洲には階級制度があり、平民は苧麻の貫頭衣を身に着け、官人のような貴族や王族は荒絹の衣をまとっていた。
もっとも、相手が官人の装いをしていなければ平民も跪かず、両手を打ち合わせる挨拶だけで済まし、貴族や王族も素性を知られたくない時があったので、それを認めていた。
卑弥呼たちもそれに大いに助けられた。
周囲は相手が良家の子女たることを察し、それなりに遇するだけで深入りしなかった。
おかげで卑弥呼たちは煩わしい思いをせずに市場を物色できた。
◆
敷物の上に並べられた商品を眺めてまわりながら、卑弥呼は市で商いする市人たちと世間話をした。
もっとも、実際に市人と話をするのは、一人だけお伴として付いてきた衛兵だった。
正体がばれぬよう衛兵と卑弥呼および男弟は貴族の親子を演じていた。
(未だ纒向はその市を広げているのか)
市人たちから各地の物産や市場について話を聞き、彼女は心の中で独り言ちた。
纒向は新興の都市で、秋津島の真ん中にある大和に位置した。
そこは天然の要害で、多島海を有する瀬戸内の内海と繋がり、東方にある日高見の大市場とも結ばれていた。
筑紫島は韓郷や漢土に最も近く、盛んに交易して栄えたが、同じ八洲ではないだけにその関係は不安定なものだった。
邪馬台国は七万余戸という筑紫島で最大の人口を誇ってはいたが、安定して成長を続ける纒向に抜かれつつあった。
そのことに卑弥呼は危機感を募らせた。
女王国において邪馬台国は盟主の立場にあった。
それは女王国で邪馬台国が最も豊かだからで、同じ八洲でその地位を脅かされれば、連邦が解体してしまいかねなかった。
そして、邪馬台国の危機は卑弥呼にとって一国の興亡に留まるものではなかった。
(教養のない蛮族が牛耳るようになれば八洲も終わりだ)
彼女にしてみれば、徐福の学統を受け継ぐ邪馬台国だけが八洲で唯一の文明国だった。
その邪馬台国が滅びれば、八洲から文明が失われ、倭人は禽獣の身に堕ちると卑弥呼は本気で信じた。
それほどまでに彼女は漢土の学問を尊んでいた。
◆
卑弥呼が纒向の台頭に頭を悩ませていると、別の店を覗いていた男弟が彼女に声を掛けた。
「姉様、良ければこれを受け取ってよ」
そう行って彼が差し出したのは赤銅色の飾り櫛だった。
櫛は髪に霊力を招くと信じられており、身に着ければその人を護るとされていた。
「どうやって手に入れたんだ、これ?」
「薬と交換してもらったんだ」
驚く卑弥呼に男弟ははにかみながら言った。
男弟も邪馬台国の王子として医学や薬学などを学んでおり、季節ごとの薬種を集め、調合も行っていた。
市では物々交換でも取り引きでき、漢土の薬は重宝された。
「きっと姉様の髪に似合うと思って」
卑弥呼は学問に熱中し、身形に構っていなかったが、男弟の心遣いは嬉しかった。
「ありがとう、壊さないよう大事に仕舞っとく」
「いや、身に着けなきゃ意味がないって……」
「ははは、自分よりお前の贈り物が大事なんだと思ってくれ」
なだめるように卑弥呼は男弟を抱き締め、その頭を撫でた。
顔が卑弥呼の胸に埋もれ、男弟が頬を赤らめ、衛兵は見て見ぬ振りをした。
照れ隠しに冗談めかしてはいたが、卑弥呼の言葉に嘘はなかった。
邪馬台国は女王国の盟主だったが、纒向に抜かれつつあるがごとく、その国力は他と隔絶してはいなかった。
女王国の都である邪馬台国には諸国から王族や貴族が訪れ、宮廷では虚々実々の駆け引きを繰り広げていた。
そこでは謀殺も日常茶飯事だった。
文明を崇拝するがゆえに卑弥呼には八洲の野蛮さが耐え難く、無邪気に自分を慕ってくれる男弟は癒やしだった。
卑弥呼は男弟から無条件に全肯定されることで安心でき、学問の道に勤しめた。
男弟はそのような卑弥呼を闇に覆われた宮中の光と見なした。
「……姉様、あれ……」
抱き締められていた男弟が卑弥呼に注意を促した。
卑弥呼が男弟の見る方に視線を向けると、そこには陽に焼けて肌の色の濃い人々がいた。
彼らは隼人と呼ばれる者たちで、筑紫島の南部に居住し、倭人の諸国とも交易していた。
ただ、熊襲の狗奴国は勇猛で、たちまち隼人の国々を制し、女王国の国境に迫らんばかりの勢いだった。
狗奴国の若き王子たる卑弥弓呼は鬼神のようで、その蹄の下、草木も残らず屍と化した。
卑弥呼は纒向に劣らず、狗奴国のことも警戒しており、男弟を抱き締める力は知らず強まった。