二十二
八洲には剣はあったが、独自の剣術はなかった。
しかし、それは八洲に剣術そのものがないことを意味しなかった。
筑紫の南部へとやってきた越人が故郷である越の剣術を伝えたのだ。
越には越女という天才的な女性の剣豪がいた。
越女は牧夫の娘だったのだが、剣術の指南役となり、越の宿敵たる句呉を滅ぼすのに貢献した。
そうした越女の剣術が越人によって筑紫の南部に伝わり、八洲に土着した越人たる海人を介して、更に日向にも伝わったのだ。
日臣を襲名するにはそのような越女の剣術を極めなければならなかった。
「形が崩れています!」
厳媛が手研耳の手を杖で強かに叩いた。
日臣は日向の王を護衛するだけではなく、越女の剣術を王族に指南してもいた。
厳媛は広場の大きな樟に木製の鳥や人形を吊り下げ、それらを手研耳に木剣で打たせていた。
「剣は強く速く振れば良いというものではありません」
手研耳の稽古を見学していた研耳が慌てた。
「大丈夫ですか、兄上!?」
「複雑な形だからちょっとばかり失敗しただけさ。実践でしくじった時に味わう時の痛みは、これと比べ物にならないんだから、杖で叩かれて覚えられるなら安いもんさ。そうだろう、厳?」
厳媛は手研耳の言葉に頷いた。
「貴方もいずれ学ぶことです。今から見て学んでください。日向の王位を継ぐ者として」
「はい、今は見学するだけの立場ですけれども、ご指導お願いします」
頭を下げる研耳に厳媛は複雑な思いを抱いた。
跡継ぎでありながらも非力たることを恥じ、研耳は謙虚な姿勢を取っていた。
だが、手研耳も長男としていずれは独立しなければならず、自身を客分と捉えているのごとく厳媛ら日向の臣下たちにも親しく接した。
それは手研耳が日向に居場所を見出せていなかったことを意味した。
厳媛にはそうした手研耳が五瀬と重なって見えた。
それにもかかわらず跡継ぎたる研耳は飽く迄も手研耳や厳媛を立てようとしていた。
◆
稽古を終えた厳媛は、疲れを汗と共に洗い流すため、清流で水浴びをすることにした。
流石にそこにまで手研耳と研耳を伴うわけには行かず、淵に注ぐ滝の音を聞きながら、一人で衣を脱ぎ、澄んだ水に身を浸した。
日臣として厳媛は常に王か王族の傍に侍らなければならぬと考えていたが、五瀬は一人の人間として自由な時間を持つよう彼女に命じていた。
主君の命令とあらば従わざるを得なかったが、せめてもの奉公として常に武装し、厳媛は裸になっても帯剣していた。
それゆえ、不意に草藪が動くと、彼女は剣に手を掛けた。
しかし、その正体が分かって直ぐに警戒を解いた。
「何だ、貴様か」
「おうおう、何だとはご挨拶なこって」
吾平津媛だった。
若御毛沼の妻であっても吾平津媛に対して厳媛はため口を利いた。
それは吾平津媛の望んだことだったが、厳媛も自然と受け入れていた。
五瀬たちに幼い頃から仕えてきた厳媛は、若御毛沼らの幼馴染みたる吾平津媛とも、当然、旧知の仲だった。
一方の吾平津媛は倭人に嫁ぐ隼人として見くびられたくないと頑張り、他方の厳媛は女性で初めて日臣を嘱望される身として努力をしていた。
男性が優遇されて女性の活躍できる場が少ない中、自然と二人は張り合い、よく取っ組み合いの喧嘩を繰り広げ、相手に噛み付かんばかりの格闘を演じることもある仲だった。
だが、それ故に通じ合うものがあったのか、厳媛が日臣となるための修行で死にかけると、吾平津姫は号泣して付きっきりで看護した。
「やっと五瀬の正妃になれるんだってな?」
にやにやしながら吾平津媛がそう言うと、裸を見られても赤面しなかった厳媛は、一気に顔を紅潮させた。
「ききき、貴様には関係ないだろ!」
「えー、じゃーオレは祝っちゃいけないのかよ」
「……そんなことは、ない……」
吾平津媛がこれ見よがしに拗ねると、厳媛は俯いてぼそぼそと答えた。
それに吾平津媛は満面の笑みを浮かべ、濡れるのも構わずに厳媛へ抱き付いた。
二人は嬉しい悲鳴を上げながら清流で転げ回った。
◆
流派の開祖が女性であるにも拘わらず、越女の剣術を受け継ぐ日臣は、男性によって襲名されることが当然とされていた。
それゆえ、厳媛の襲名は反対の声が早くから少なくなかった。
そして、それに異を唱えたのが五瀬だった。
女性の日臣が許されないのなら、いずれ日向から出ていく自分がそれを認める国を創る。
五瀬がそう啖呵を切った時のことを厳媛は忘れなかった。
『史記』には「士は己を知る者のために死し、女は己を悦ぶ者のために容づくる」とある。
厳媛は五瀬のために日臣としての己を容づくって死にたかった。
しかし、あらゆる異端を受け入れる五瀬に自分だけを特別扱いさせることは容易ではなかった。
それでも、五瀬は厳媛を正式な妻にすると誓った。
厳媛は天にも昇る心地で、それ故に五瀬ともども長髄彦からの宴会の招きに応じ、彼の妻としてお色直しをするよう求められても疑わずに引き受けた。
寧ろ五瀬の妻として扱われるのが嬉しく、彼から着替えてくるよう言われたこともあり、宴席から離れてしまった。
「折角の機会だ。見せ付けてやれ。お前がこの五瀬の正妃たる女傑だと」
「最善を尽くさせてはいただきます」
本来ならば離れるべきではなかった。
厳媛の他にも護衛はいたが、彼らも日臣がいると油断し、防ぐことが出来なかった。
長髄彦が五瀬を裏切り、宴の席で弓兵たちに彼を襲わせたことを。




