二
天孫らの天津神たちや己貴の子らである国津神たち、己貴に協力した他国神らが神々の時代における八洲を統治した。
神代が終わって人間の時代たる人代が始まると、神々の末裔とされる王たちが八洲を治めた。
ただし、王たちの体に神々の血そのものが流れているとされたわけではなく、政治的な力量に優れた王は、神の加護がその血に宿っていると信じられ、それ故に王たちは神々の末裔と受け止められた。
筑紫島の北部においては天照の長男たる天忍穗耳尊/忍穗耳の末裔を名乗る王が多かった。
忍穂耳は豊国の英彦山に天降り、そこを己貴から譲られた。
邪馬台国のある山門も、英彦山からそう遠くはなかった。
「姉様、朝食の用意が出来てるけど、大丈夫?」
小さく呼び掛ける声を聞き、卑弥呼は突っ伏していた座卓から顔を上げた。
彼女は邪馬台国の若き王女で、煌めく陽光に照らされると、瞳は玉のような翠色に輝き、長く縮れた髪は紫色に透けた。
鼻は小さく、肌は白銅のごとく青白かった。
灯明皿の灯芯が燃え尽きており、簾を透かして朝の陽光が差し込んでいた。
座卓には竹簡が投げ出されており、それを読みながら寝てしまったことに卑弥呼は苦笑した。
彼女は如何にも気の強そうな顔で、牙のような鋭い歯を剥いて笑う様は、さながら山犬のようだった。
「心配するな、男弟。ちょっと調べ物に熱中して寝落ちしただけだ。昨晩に語り部の翁が物語った神話が気になってな」
簀子縁に控えていた男弟は簾を開き、卑弥呼の部屋に入ってきた。
彼は卑弥呼の弟で、彼女に良く似た容姿の少年だった。
しかし、姉と違って穏やかな目をしており、山犬というよりは子犬のようだった。
彼はいずれ王位を継ぐ立場にあったが、本人は卑弥呼こそが次の王であるかのように一歩引いていた。
男弟は卑弥呼に食膳を捧げながら、おずおずと彼女に眼差しを向けた。
気遣わしげな男弟に卑弥呼は安心させようとするかのごとく微笑んだ。
「ほら、翁が語っていただろう。日月星辰は別天津神によって創造されたと。だが、漢土の神話によれば盤古の両目が日月だという。八洲と漢土に日月の違いはないのだから、果たしてどちらが正しい話なんだ?」
「それを調べるのに熱中する内に寝てしまうなんて、姉様ってば」
彼女は夜更かしして読んでいた竹簡を掲げ、ほっとする男弟に自身も眉を開いた。
卑弥呼が掲げたのは『山海経』なる地理書で、漢土の神話が伝えられており、倭人は燕という漢人の国と往来があったとされた。
邪馬台国には漢土などの書物が集められていた。
◆
かつて漢土は秦という王朝によって統一され、燕も滅ぼされていた。
漢土の王たちを討った始皇帝は、紀元前二一九年、徐福という方士から建言を受けた。
徐福は不老長寿の妙薬が東方の仙境たる蓬莱にあると言った。
始皇帝は渡海の大船や食糧、兵士、職工らの数多を徐福に与えた。
お伴に三千人の少年少女を従わせて徐福は船出したが、妙薬を秦に持ち帰るつもりは最初からなかった。
統一を保つために始皇帝は体制に反するような書物を焼き捨て、反体制的な学者たちを生き埋めにしていた。
これでは学問が衰え、いずれは文明も失われると徐福は考えた。
そこで、始皇帝を欺いて援助を引き出し、未開の東方を切り拓き、新天地に理想郷を建設しようと企てた。
そうして大海を渡った徐福の船団は、無事に八洲へ着き、風光明媚にして稲作や水運にも適した山門で政事をなした。
そこで徐福は道案内を頼んだ源蔵の娘たる阿辰を弟子にし、鬼道の奥義を授けた。
鬼には死者の霊魂という意味もあり、鬼道とは死霊のごとくおどろおどろしい信仰を指した。
そこには反体制的な異端の思想も含まれた。
始皇帝から物資や人員を詐取した徐福もまた異端者で、鬼道を修めていた。
阿辰が鬼道の奥義を授けられたのは、彼女の優秀さに加え、八洲の女性たちが薬草に詳しく、徐福の教える薬などの知識を理解できる者が多かったからだ。
八洲は薬種が豊富で、それを集めて薬物にする女性たちは、病を治すのにも携わり、まじないで心の病も治した。
そうした技に巧みな者が巫女となり、阿辰もその一人だった。
徐福は阿辰のような巫女たちに鬼道を託した。
山門に起こった邪馬台国は、各地から見込みのある女児を募り、漢土の医薬や卜筮、農事などについて教育した。
邪馬台国の巫女となった彼女たちは、自由に研究して議論し、王の諮問に応じることでその成果を活かした。
卑弥呼も邪馬台国の姫であると同時に巫女となり、彼女の名前は姫巫女の訛りだった。
卑弥呼は教育係の巫女らからどんどん知識を吸収していった。
◆
男弟が運んできた膳は、甑で蒸した米飯と干魚だった。
卑弥呼はそれらをがつがつ平らげた。
その食いっぷりを見て男弟は卑弥呼に微笑んだ。
「昼近くになっても起きてこないからびっくりしたよ」
「ははは、すまんすまん。知りたいことがあれば、寝食を忘れるのは私の悪い癖だ」
「籠もってばかりいるのも体に毒ですよ」
「言われてみればそれもそうだな。よし、外の空気を吸いに出掛けるか」
卑弥呼が男弟の手を取って立ち上がった。
邪馬台国は八洲で一番の書物数を誇り、そこから卑弥呼は沢山の知識を身に付けていたが、決して本の虫ではなかった。
漢土の学問も八洲の実情に合わなければ机上の空論なので、徐福は倭人から弟子を取り、邪馬台国の巫女は実地で学ぶことも求められた。
そうした気風に影響されてか、卑弥呼はよく外に出掛けてもいた。
「今日は市が立ってるから見に行こう」
邪馬台国では数日に一度、市が立ち、筑紫島ばかりか八洲の内外からものが集まってきた。
市場には韓郷や漢土から舶来した品もあり、見ているだけでも楽しかった。
男弟も卑弥呼の提案に喜んで賛成した。