表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
倭事記~小説 古代日本~(未完)  作者: flat face
第一章 神武天皇
17/22

十七

 五瀬の一団は台与から傭兵の報酬だけではなく、邪馬台国から立ち去る路銀もせしめると、新しく傘下に入った者たちも連れ、筑紫つくし岡水門おかのみなとなる港に向かった。

 彼らはそこから大和やまとを目指して秋津島あきつしまに渡った。

 大和を目指すのはそこに行ったことがあるという船乗りたちから耳寄りな話を聞いたからだ。


 その船乗りたちは塩土老翁しおつちのおじ塩土しおつちなる神を信仰していた。

 塩土は潮の神で、潮流を利用して航海する船乗りたちに敬われていた。

 船乗りたちによれば大和は未開の沃野もあれば、あかがねを産する山もあり、五瀬たちの同族がいるとのことだった。


 一大勢力であった女王国が衰退すると、八洲やしまは勢力均衡が崩れ、各地で紛争が勃発していた。

 五瀬たちも日向が紛争で荒廃し、飢餓や火山の噴火も発生したことで故郷を離れ、傭兵となったのだ。

 日向において五瀬は鵜萱葺不合命うがやふきあえずのみこと鵜萱うがやの末裔とされる天孫族の王族だったにもかかわらず。



 鵜萱は忍穂耳の息子たる瓊々杵尊(ににぎのみこと)瓊々杵(ににぎ)の孫だった。

 瓊々杵は高千穂たかちほへと天降り、大山祇の娘である木花開耶姫このはなのさくやびめ開耶さくやとの間に火折尊ほおりのみこと火折ほおりを授かった。

 火折は大海祇の娘たる豊玉姫とよたまひめを妻として鵜萱が生まれた。


 これは日向の天孫族が隼人や海人とも婚姻してきたことを意味した。

 天孫族は天津神を崇めるのに対して隼人は山祇を、海人は海祇を拝んだ。

 『翰苑かんえん』によれば倭人は自らを句呉こうごの始祖たる太伯たいはくの子孫を称していた。


 句呉は漢土の王朝で、海人はその地域から渡来してきた。

 彼ら倭人の一派である日向の天孫族と婚姻した。

 そのような血筋を主張する五瀬の一族は、倭人だけではなく隼人や海人も治めてきた。

 五瀬はそれを傭兵の編成に活かし、避難する臣民を養った。


 彼は四人兄弟の長男だった。

 次男の稲飯命いないのみこと稲飯いないは『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』によれば難民の一部と共に韓郷からくにへ移住した。

 三男の御毛沼命みけぬのみこと御毛沼みけぬ高千穂神社たかちほじんじゃの伝承によれば一部の臣民ともども日向に残り、有力な海人の下に身を寄せていた。


 末男である若御毛沼命わかみけぬのみこと若御毛沼わかみけぬは長兄の五瀬と行動を共にした。

 若御毛沼は大隅隼人おおすみはやと吾平津媛あひらつひめと結婚し、二人の間に手研耳命たぎしみみのみこと手研耳たぎしみみ研耳命きすみみのみこと研耳きすみみが産まれた。

 彼ら妻子も若御毛沼に同行した。


 一行は船団を組んで日向を発ち、豊国とよのくに宇佐うさに差し掛かると、そこで水と食糧を調達し、更に情報も入手した。

 宇佐にも難民がおり、船旅の中で死者などの欠員も出ていたので、彼らを受け入れて縁組みした。

 その見返りに地元の有力者から支援を引き出し、先述の通り邪馬台国へ入ってその傭兵として大いに稼いだのだった。



 筑紫から安芸あきへと落ち着いた五瀬たちは、銅とくろがねの延べ板を港の支配者に贈った。

 それらは台与からせしめたもので、五瀬たちは快く迎えられて米や鮎、鮑などの肴と酒、声が美しい少女たちの歌で持て成された。

 安芸には厳島いつくしまというところがあり、厳島神社いつくしまじんじゃの伝承によれば五瀬たち一行は風雨を避けるため、暫しそこに滞在した。


 厳島には宗像三女神むなかたさんじょしんと大山祇が祀られていた。

 宗像三女神は素戔嗚すさのおの娘たちで、瓊々杵が地上へ降りる時、その安全を守った。

 瓊々杵の末孫である若御毛沼は大山祇の後裔たる吾平津媛と連れ立ち、宗像三女神と大山祇の神殿を訪れ、道中の安全を祈ることにした。


 祈願において天孫族を代表するのが五瀬ではなく、若御毛沼であったのは彼こそが王族の跡取りだったからだ。

 日向の天孫族は末子相続の制度を取っていた。

 一族は今や相続させる王国を失っていたが、彼が跡取りたることは変わらなかった。


 港の支配者も案内人を貸してくれた。

 山中を通る参道は細く、所々に急な登り坂があってまるで獣道のようだった。

 若御毛沼も幼少期から山野を駆け回っていたが、吾平津媛の方が断然に素速かった。


「おーい、そんなちんたらしてると、置いてっちまうぞ、狭野さのー!」


 岩の上をましらのごとく身軽に飛び跳ねながら、吾平津媛が後方へ囃し立てた。

 彼女が跳ねる度、短い赤髪や爽やかな純白の頭巾、白い長衣の裾が揺れ、胸の膨らみが弾んだ。

 吾平津媛は痩せていたが、乳房はこんもりと良く熟れて大きく、瑞々しく張りのある褐色の肌を持ち、一見ほっそりとした太腿は、しなやかな筋肉に覆われていた。


 狭野尊さののみこと狭野さのとは同じ名前の土地で生まれ育った若御毛沼の幼名だった。若御毛沼と吾平津媛は幼少期に婚約し、二人は幼馴染みの間柄にあった。

 それは天孫族と隼人を融和させるためのもので、裏を返せばそうせねばならぬくらい両者の関係は緊張していた。

 互いに同胞を代表して若御毛沼とは昔から何かと張り合い、吾平津媛は負けん気が強くて男勝りだった。


「二児の母になったんだから、もう少し落ち着きというものを身に着けたらどうだ?」


 結婚しても競争したがる吾平津媛に若御毛沼が苦言を呈した。

 若御毛沼は凜然たる美丈夫で、額には赤い絹の布を巻き、長い金髪を緩く波打たせていた。

 動きやすい麻の袴を穿き、木綿ゆうの上衣は茶色に染められ、黒い肌着が垣間見えた。


「へへん、また出たな、狭野の負け惜しみー」


 吾平津媛に煽られて若御毛沼はぐぬぬと歯噛みした。

 身体能力を競う勝負で吾平津媛が若御毛沼に敗北したことはなかった。

 若御毛沼にも吾平津媛に張り合う気持ちがあり、敗北にはそれなりに忸怩たる思いがあった。


「ほら、早くお参りに行こうぜ」


 悔しがる若御毛沼へと吾平津媛が手を差し出した。


「テメエと一緒に拝まなきゃ意味ねえんだからよ」


 若御毛沼は吾平津媛の楽しそうな笑顔に思わず苦笑いしながら、差し出された手を握り返した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] かの津田左右吉は、『記紀』の神武天皇の日向つまり南九州からの東遷について、潤・脚色以上にその東遷自体の事実を、確かに否定している(一方で神武天皇以降の歴代の実在は肯定)。その内容は、戦後の…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ