誰も朝飯前の獣人を待たせてはならぬ
たまの休日だし、朝食は近所の喫茶店で食べようということになった。俺と妻はマンションの5階から健康のため階段で降り、エントランスで立ち止まった。
「雨だわ」
「うむ、雨だ」
「どうしましょう。ほんの少し歩くだけだけど、雨が冷たいわ」
小雨だが濡れたくない気候だ。
妻は獣人でもあるので、機嫌を損ねたくないところだ。
「僕の車に置き傘があるから取ってくるよ」
「早めにしてね。お腹が空いたわ」
「もちろんだよ」
俺は答えて、マンションの駐車場へと早足で歩く。
ハッ。そうだった。車のキーは家の玄関だ。手ぶらで出てきてしまった。
もう一度自宅まで戻らざるを得ない。
駐車場からマンションの一階外廊下へと壁を乗り越えた。非常によくない行為だが、今が非常なので許して欲しい。妻をあまりにも待たせるのは危険なのだ。
エレベーターはすぐに来そうもないので、5階まで階段を駆け上がった。
妻がエントランスで『遅いぞ、あの野郎』という顔で待っているはずだ。
ようやく着いた家の玄関前で俺は固まる。
「しまった。マンションの鍵も持ってきてなかったんだ。つまり」
つまり俺は家に入れない。もちろん車のキーは手に入らない。
地団駄を踏みながらも、また駆け足でエントランスへ急ぐ。
妻は『道ばたでウンコでも踏んだような顔』になって立っていた。眼が三角になっている。危険だ。
「何やってんのよ。遅いわね」
「ゴメンよ。玄関の鍵を持ってきてなかった。君の鍵を貸してくれ」
「必要なのは車の鍵でしょ」
「そう、その車の鍵が家の玄関にあって、その玄関の鍵を俺は持ってきてないのだ」
「フーフー、私は玄関の鍵をあなたに渡せばいいの?」
「そう、家の玄関に車の鍵が」
「で、どういうこと?」
「いいから、鍵をよこせ」
「何ですって」
「すいません。家の鍵を貸してください、奥さん」
「グルル…もう!ホントそそっかしいわ。急いでよね」
何でこんなに低姿勢でお願いしなくてはならないのか、サッパリわからない。
俺は鍵を受け取るとまたしてもエレベーターまで大急ぎだ。
俺は5階まで駆け上がった。
元勇者である俺もさすがに息が切れる。仕方ない。引退して10年以上経つのだから。
ハアハア言いながらドアを開ける。
そして車の鍵を握ると、またしても駆け足で1階まで降りて、エントランスに向かった。
「ハアハア、行ってきたよ」
いつのまにか妻の耳が獣になっている。可愛い方のケモ耳ではなく、ワイルドでリアルでデンジャラスな方の獣の耳だ。
「フーッフーッ、傘は?」
「あっ」
傘を取りに行ったんだった。
「ごめんなさいごめんなさい」と言いながら俺はまたしても急いで駐車場に走る。
車のドアを開けて、置き傘を取り出す。目眩がしてきた。
「ハヒハヒ。待たせた。傘を持ってきた。おいしい紅茶を飲みに行こう。ハアハア」
手にびっしりと剛毛を生やし始めた妻が俺を睨む。
喉からグルルという音が聞こえる。これはマズい。
俺は背広の内側からビーフジャーキーを取り出し、妻に与えた。
「フーーッ、フーーッ」
少し落ち着いたようだ。
妻はジャーキーを噛みしめながら、俺に訊く。
「鍵は?」
「ハアハア、車の鍵はここに」
「私が貸した家の鍵よ」
あっ。車の鍵に気を取られて、家の鍵を玄関に置いてきてしまった。
「ゴフッ、しまった。置いてきた」
「グルルル、すると家は」
「開けっぱなしだ」
妻の口から鼻が前方にせり出てきて、顔が狼の様相に近づく。見慣れていても怖いものは怖い。
「すぐ、閉めてくる」
「グルグルグル」
「獣のようにうなるのはやめてくれ」
獣だから仕方ないけれど。
俺は急いでエレベーターまで走る。
またしてもエレベーターは使用中。やはり走った方が早そうだ。
思えば最後の冒険で立ち寄った獣人の村、そこで討伐しかかった妻、運命的な出会いだった。
などと思い出に浸っている場合ではない。妻が獣になりかけている。
「ハアハアハアハア。ゲロが出そうだ」
5階の家の前でよろめきながら、家の玄関に飛び込む。
間違いなくドアを施錠する。もはや一刻の猶予もない。
俺は外廊下に出ると5階から地上へと飛び降りた。
「ウググ」
ほんの少し、足をくじいたが問題ない。
妻は完全に野生の狼となって、道行く人を威嚇していた。申し訳ない。大変な近所迷惑だ。
「悪かった。ハアハア。戸締まりをしてきたよ」
「…」
「何だよ。悪かったよ。謝るから許してくれ」
「ガウウウウ。…カサハ?カサ」
「…あれっ?」
俺としたことが。いや、俺だからこそ。戸締まりに気を取られ、今度は傘を玄関に忘れてきた。
「と、取りに行ってくる」
「ウガアオオオッ!」
怒りの妻が俺に飛びかかり、頭を囓った。鮮血が飛び散る。
「うわっ、やめてくれ!」
俺は万が一のために持ち歩いている生肉の塊を取り出し、妻の背後に投げる。
妻が身をひるがえして、2㎏の生肉に齧りついた。
「ガフッ、ガフフッ」
ようやく落ち着いてくれたようだ。持っていて良かった。
そうだ。出会いの時も俺は妻に頭を囓られたのだった。懐かしさと出血でフラフラする。
「あらためて傘を持ちに行ってくるよ」
「ガフッ。ゴリゴリ。もういいわよ」
ゴリゴリというのは骨を囓っている音だ。
「いや。これまでの行動が無駄になる感じだ。行かせてくれ」
「ゴクン。ゲエエップ…もう雨やんだわよ」
何ということだ。
気を取り直し喫茶店まで、四つ足の妻にリードをつけて歩く。
妻もどうにか機嫌を直し獣なのにニコニコ笑って、すれ違う人を脅かしている。
「いらっしゃい…うっ。お客様、いったいどうしましたか」
頭から血を流している俺を見て、喫茶店の店員がひきつった。
「ああ、問題ない。妻にちょっと囓られただけだ」
俺はハンカチで額の血をぬぐうと、店員を安心させようと微笑んだ。
横を見ると、すっかり落ち着いた妻も人間の姿に戻って優雅な笑みを見せている。
「あなた、余計なことを言わないで」
「ハハハ。は。そ、そんなわけでまったく大丈夫」
俺たちは案内された席でロイヤルミルクティとモーニングのセットを頼んだ。
ようやくホッとした俺は紅茶の香りをしみじみと味わい、まだちょっと止まっていない額の血をもう一度ハンカチで拭いた。
妻もホオッと息をついてから、ロイヤルミルクティの香りを吸い込む。
いくつになっても綺麗な妻の姿に俺はうっとりした。
「ああ、いい休日だな」
「そうね。あなた」
妻が原稿を読んで「モデルは私ではないわよね」と三回訊きました。頭を囓られるといけないので本当のことは言いませんでした。