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背けていた顔をこちらへ向ける、と、子どもの方が泣きそうな顔をしていた。それでもしっかりと自分を見つめていた。暗い雨空にそこだけ晴れ間がのぞいたような、澄んだ空の色の瞳だった。
体をきちんと自分に相対し、深く頭を下げた。
「……あの……ぼく、向こうへいきますから」
また、年齢にそぐわぬ心遣いをする。
優しい子だ、と思った。
行きずりに過ぎない見知らぬ他人の自分に、こんなにも心を砕いてくれる。
見返りを求めない純粋な優しさが、逆に自分を責めているようにも感じられた。自分がしでかした非道な行いを聞いたら、この子はどんな顔をするだろう。自分はこんな風に、この優しい子どもの厚意を受ける価値などない人間だ。早く立ち去った方がいい。
判っているのに、何故だか口に出たのは、思いとは逆の言葉だった。
「……ここで待つように指示されたのだろう。それなら動くわけにはゆくまい」
子どもは何も答えなかった。
代わりに視線をそらし、傘を再び差すこともせず、自分の横でじっと立っていた。
迎えが来るまでの長い時間、そうして小さな体を雨に濡らしていた。
自分も何も言わなかった。身勝手なことと判っていても、今この時に、この優しい子どもに傍らにいて欲しかった。
ただここにいてくれる。それだけですべてが赦される。そんな気さえしていた。
あの時の子どもが、まさか軍内でも評判の『メルダースの鬼子』だとは思いもよらなかった。
今十一歳だということは、当時は八歳。幼年学校に二年飛び級して入ったことになる。 幼年学校は一応、卒業後士官学校へ入学する事を前提としているので、半分お遊戯のようなものとはいえ、軍事訓練らしきことも行う。もちろんそれなりの学力も必要とされる。二歳年上の子らに混じってそれらの課程をこなしているとなれば、相当優秀といえる。
確かに当時から頭のよい子だった。しかしアルトマイヤーにはそれよりも、その子のあどけない優しさが強く印象に残っていた。小柄で、顔立ちも少女のように柔らかかった。
写真の少年の顔は、あの頃とあまり変わっていないように見える。大きな瞳と線の細い外見は、三年たった今でも、もっと年下の少女といっても誰も疑わないだろう。
この少年を、本当にあのような戦場に送り込んでよいのだろうか。
警護官の任務の過酷さはよく知っていた。事故で亡くなったゲオルグ王子の警護官は、アルトマイヤーの知人だった。彼は任務を全うできなかったとして、除隊処分となった。それでもまだ王子の方に後ろ暗い理由があったからこその、破格の温情処分だ。王子を守り抜けなかった罪で、一族もろとも銃殺刑とされても不思議はなかったのだから。
二十四時間片時も気を抜けない激務にさらされ、失敗はけして許されない。その重圧で心身ともに壊れ交代せざるをえなくなった人間も過去に何人かいたと聞いている。
除隊となった知人の顔が脳裏をかすめた。彼は今、どうしているのだろうか。
アルトマイヤーの右手が、無意識に胸の辺りを探った。首筋で銀の鎖が僅かな音を立てる。
随分と長い時間を過ごしてしまった。アルトマイヤーは自分の中で区切りをつけるように、深く息を吸い込む。
何も迷う必要などない。教官となり、この少年を警護官として通用するまでに訓練を施す。それで室長の座が手に入るのだ。
自分に言い聞かせるように、アルトマイヤーは鎖に下げた誓いの印を堅く握りしめた。
「ほお~、それでその可愛い店員のお嬢さんとは上手くいっているのかな?」
「メルダース准将閣下っっ! 声が大きすぎるでありますっっっっ!」
「いやこういう楽しい……じゃなくてめでたい話はねえ、皆で分かち合った方が面白……」
「閣下ぁ~、もうカンベンしてくださいよおぉ~」
いつものようにヴォルフは若い兵士をからかって遊んでいた。
この男、軍事作戦立案にかけては味方でも畏れるような稀代の天才であるが、功績のみ知るものからは想像もつかないほど、気取らず茶目っ気のある性格だ。暇さえあればこうやって、所属の部下のみならずその辺の兵士を捕まえて、軽口を叩いている。
この若い上等兵も、本来なら直接口を聞くことも許されない雲の上の階級の人間であるにもかかわらず、彼にはつい気を許して接してしまっている。大事なナイショ話をうっかり喋ってしまうほどに。おかげで気の毒なことに、すっかり午後の彼のサボリ…もとい休憩時間の遊び道具にされてしまった。
ライヒヴァイン王国軍の幕僚本部は、王宮のある丘陵のすぐ下に居を構えている。王宮ほど華美ではないにしろ巨大で立派な建物で、首都近郊の防衛を主とする第一軍本部と繋がって建てられていた。
今、ヴォルフたちがいるのは第一軍本部棟の階段の踊り場である。彼の所属する幕僚本部棟内の参謀府の辺りからは相当離れているが、こんな所にまで度々出没しているのであるから、息子に、
「貰ったお給料分だけでいいから、ちゃんと働いてきてよね」
などと、妙なところに力を入れて叱られても文句は言えまい。
さすがにそろそろ戻らないといけない。上役である参謀長に、毎度手を変え品を変え離席の言い訳を考えるのも大変だ。
さんざんからかわれた若い兵士が、這々の体で階段を駆け下りていく。と、替わりにヴォルフの視界に現れたのは、彼が今最も関心を寄せている人物だった。