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「よろしければ使ってください」
幼いながらきちんとした言葉遣いで、その子は使っていた傘を自分に向かって差し出した。子ども用の可愛らしい傘だ。
「不要だ」
と、短く答える。子ども相手にいささか冷たいようだが、感情などとうの昔に捨て去った自分だ。いまさら他人に振りまく愛想など持ち合わせていない。
ところが、その子どもは怯むでもなく、再び話しかけてきた。
「でも、このままだともっと濡れますから」
無視することもできた。が、それでは幼い子どもの精一杯の厚意に対して、あまりにも大人げないように思えた。その子の方を向き、抑揚のない低い声で答える。
「それは君が使いたまえ。私には必要ない」
そして前に向き直る。そうすることで、完全に拒否する意志を示したつもりだった。
だが、その子は動かず、そのまま自分に傘を差し掛けている。溜息をつき、もう一度断ろうと開き掛けた口を、子どもの声が止めた。
「ぼくは軍属ですから。所属の部隊の方ではなくても上官が雨ざらしになっているのを見て放っておくわけにはいきません」
年齢にそぐわない、あまりの整然とした台詞に、自分は一瞬言葉を失った。確かに幼年学校の生徒は身分上軍属ということになっている。首都の幼年学校なら第一軍の所属扱いとなるはずだ。それは事実だが、たまたま居合わせただけの自分に対し、制服の階級章と部隊章を見分け、ここまでいってのけられる幼年学校生がどれだけいるだろう。
もう一度子どもの方を見やると、その子は申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「……お体が大きいので、あんまり役に立たないみたいですけど……」
確かに子ども用の傘では、腰掛けたアルトマイヤーの長身を覆うには少しばかり物足りない。それどころか、差し掛けている当の本人は全く傘の恩恵に与れていない。小さな体を濡れるに任せている。
他人と関わり合うことを極力避け、必要以外の会話を交わすことも久しく無かった。しかしさすがに今横に立つ子どもには尋ねざるをえなかった。
「どこかへ行く途中なのではなかったのか。このような所で見知らぬ者の世話などしていないで、早く行くといい」
「そのことならかまいません。どうせここで叔父と待ち合わせていますから」
その子はあっさり答え、もしお仕事中でお邪魔になるようなら離れます、と付け足した。
ここまで言われては、もう追い払う理由もつけられない。それ以上何も言わず、その子から視線を前に戻した。子どもの方も、アルトマイヤーの無言を了解と取ったのだろう。横に立って、自分に傘を差し掛けたままでいた。
いつの間にか祈りの歌は止み、礼拝堂から青年の柩を先頭に、葬列が墓地へと向かい始めていた。雨音とともに、人々の嘆き悲しむ声と弔いの鐘の音が、静かな広場に響いている。
すると子どもが、また遠慮がちな声で話しかけてきた。
「……あの、もしかしてあのお葬式にいらっしゃったんですか?」
冷たい雨の広場にはほかに人通りもない。こんなところで座り込んでいる自分の目的が何なのか、この聡明な子どもには判ったのだろう。無言のままの自分に、ためらいながらもさらに尋ねてくる。
「もう行ってしまわれますけど、列に加わらなくてよろしいのですか……?」
これにもアルトマイヤーは沈黙で答えた。
他にどう答えろというのか。
自分にはあの弔いの列に加わる資格などない。かつて自分を友だと呼んでくれた人間を、出世の踏み台として、まさに道具のように壊して捨てた。その自分がどんな言葉で彼を見送れというのだ。大切な家族を道具扱いされ喪った人々の列に、どんな顔をして加われというのだ。
長い列が広場を抜け、墓地へと向かい過ぎ去っていく。すると、青年を送る鐘の音に変わって、聞き覚えのある楽の調べが耳に届けられた。
見ると礼拝堂の入り口で、ひとりの初老の男が小さな楽器を奏でていた。青年の父親だろうか、面差しが懐かしい友人のそれと重なる。あの楽器にも見覚えがあった。彼はよくこの曲を、故郷の話とともに聞かせてくれた。
士官学校生のころは上位の成績を上げ、少しでも出世の手がかりとなる部署に配属されるため訓練に明け暮れた。他に学生らしい思い出は何一つない。そんな自分が唯一覚えているのは、彼が人付き合いの悪い同期生を幾度か誘い、無口な自分を厭うこともなく夜通し二人で語り明かしたことだった。人との繋がりを自ら断ったはずの自分の孤独を、その僅かなひととき、彼は忘れさせてくれた。
哀愁を帯びた曲調が、薄れかけた記憶を鮮やかに蘇らせる。
唯一、友人と呼べたその男の記憶を。
無くした筈の感情が、熱く滴となって、頬を伝い落ちていくのが判った。
と、ふいにその熱を冷ますかのように、雨粒が顔を打った。
差し掛けられていた傘が、急に外されたのだ。横にいた子どもを見ると、傘を閉じ、俯いて立ちすくんでいる。
何とも言えない、悲しげで、困り果てた表情を浮かべて、子どもはぽつりと呟いた。
「……御免なさい……」
悪戯を酷く咎められたかのようにうなだれ、自分に謝っている。
「……その……傘……いらないって言われたのに……」
上官への厚意がただのお節介に過ぎなかったと、それどころか他人には見られたくはなかった場面に無理に割り込んでしまっただけだったと、この聡い子どもはそう気付いたらしい。
こんなとき大人なら、見なかったふりをすることだろう。だが、このように未だ幼い子どもに、そこまでのあしらいを求める方が無理というものである。そして何より、この子は自らの行為を本心から悔いているのだ。差し掛けた傘を急に外した、不自然にも取れる行動が、この子の心の動揺の激しさを語っていた。