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そのアルトマイヤーは、机の上の資料に視線を落としている。興味を示したのかと思いきや、再び上官の方へ向かってファイルをついと押し返した。
「……どういう事情からの人選か知りませんが、相手は十一の子どもでしょう。殿下の警護官ともなれば、実戦の技術や、近衛としての教養も、士官学校卒業生以上の水準が求められます。その任務に必要なだけの訓練を子ども向けに手加減しながら三ヶ月という短期間で行えなどとは、無理にも程があります」
「私もそう思うよ」
とはさすがに言えない。代わりにファイルを手に取ると、ヒラー室長は膝の上でぱらぱらと資料をめくり始めた。
「……人選の経緯については何も書いてないよ。まあ、こんなとんでもない命令が降ってきた訳だから、雲の上のそのまた上くらいの事情なんだろうねえ」
呑気な台詞を返しながら資料を探っていた手が、とあるページで止まる。その頁を指でとんとん、と叩いて部下の方に向き直った。
「それに候補の子、君も噂くらい聞いたことがあるだろう? あの『メルダースの鬼子』だそうだ。案外、手加減なんてしなくても済むかもしれないよ?」
本気とも冗談ともつかぬ口調だ。こんなときのこの上官のとぼけた様子は、ある意味アルトマイヤーの鉄壁の無表情より始末が悪い。
『メルダースの鬼子』については、アルトマイヤーも耳にしたことがある。メルダース家と言えば、先の反帝国の大戦より続く名門で、数多くの優秀な軍人を輩出してきた。現在も当主であるヴォルフ准将を筆頭に何名もが軍の要職を占めている。そんな一族の中ですら、『鬼子』と呼ばれるほどの才能を持つ子どもがいる、と。十かそこらの年齢ですでに、某軍高官の暗殺現場に偶然居合わせ、それを未遂に終わらせるなどの実績もあるそうだ。
噂の通りならば、並の十一歳の少年よりは多少ましかもしれない。それでも少年にとって過酷な訓練となることは間違いないだろう。
指を組んで、机の上の一点をじっと見つめるようにしていたアルトマイヤーが、おもむろに口を開いた。
「……教官の任務をお引き受けする以上、いい加減な出来の警護官を『学園』に送り出すことはできません」
ついと眼鏡を直し、鋭い視線を眼前に座る上官に向ける。
「その候補の少年が使えないと自分が判断した時点で、即、訓練は中止する。それでよろしいですか?」
ヒラー室長は返事の代わりに、にっこり笑ってファイルを再び部下に向かって差し出した。
「使える子になってくれることを期待しているよ。まあ、肩の力を抜いて。君の思うとおりにやってくれたまえ」
その日の夕刻、首都の自宅に帰ったアルトマイヤーは、未だ赴任先から送られてきた荷物も解かれていない部屋に入ると、大きく息をついた。
情報部からさほど離れていない、とある集合住宅の一角に彼の自室はある。居室には、必要最低限の調度しか置かれていない。また、装飾品の類も一切無い。まるで廃屋のように殺風景な薄暗く広い空間に、今はただ僅かな私物の荷の包みと、彼だけが在った。
暖炉に火を入れ、窓際に置かれた、飾り気のない机の上のランプを一つ灯す。それだけでもほんの少し、この部屋に人が暮らしている気配が蘇る。
そして先程上官に渡された資料を手に取り、机の脇に立ったまま、しばらく動かなかった。ファイルを開くでもなく、身じろぎ一つしない。彫りが深く端正な顔立ちを、ランプの明かりが照らしている。だがその揺れる影は、まるで彼がただの石像であるかのように、何の感情も映し出すことはなかった。
どれくらいそうしていたか、部屋も暖まりかけたころ、彼はようやく椅子に座ると、手にしたファイルのページをめくった。何頁目かに貼り付けてあった写真が目に飛び込んでくる。と、そこに写っている少年の顔を見たアルトマイヤーから、驚きの言葉が口を突いて出た。
「この子は……!」
自分はこの少年を知っている。
会ったのは一度きり、それももう三年程前だ。それでも忘れるはずはない。
心の奥底に静かに眠っていた、忘れられない優しい記憶が目を覚ました。
晩秋の冷たい雨が、少しずつ石畳を濡らしていく。
首都近郊の小さな街の礼拝堂を囲む広場の片隅に、アルトマイヤーはいた。
礼拝堂の中では、ある青年士官の葬儀が行われていた。若すぎた死を悼み、せめて天上にて幸いあれと、神への祈りの歌声が微かに聞こえてくる。
自分は何故、こんな所に来てしまったのだろう。そんな自問を繰り返す。礼拝堂に足を踏み入れるでもなく、少し離れた石造りの花壇の植え込みに、身を隠すようにして腰掛けている。だからといってその場を離れるでもない。ただ徒に、先程から降り出した雨に身を打たせている。
今弔われている男は、自分が殺した。
自ら手を下した訳ではない。それでも自分が殺したも同然だった。自分を友と呼んでくれた、その男を、我が身の昇進と引き替えに見殺しにしたのだ。
アルトマイヤーという氏は、生まれ持ったものではない。本当の自分の氏を名乗る一族は、貴族間の権力争いに巻き込まれ滅亡した。ただ一人生き残った幼い子どもを、憐れんだ敵方の下級貴族の男が引き取って養子とした。父や母のように殺される筈だった自分は、子の無かったアルトマイヤーの跡取りとして生きながらえたのだ。
失われた一族の名を再び名乗ることが許されるようになるには、軍人として名を挙げ上へ登り詰めるしか、今のこの国では方法はない。一族の再興を誓ったその時から、どんな犠牲もいとわず、そして手段も選ばない。そう決めていた。
だから自分の判断は正しかったのだ。その極秘任務成功の暁には、大尉昇進が約束されていた。一日でも早く上へ行くためには、この機会を逃すわけにはいかなかった。たとえ、自分が仕掛けた作戦が、士官学校以来の友人の所属する小隊を危険にさらすと判っていても。たかが数人の無名の兵士と引き替えに、教主国派の危険人物を一人闇に葬ることができたのだから、国にとっても大きな利益だ。何も問題はない。
なのに何故、今更この場所にいつまでも自分はいるのだろうか。
答えの出ない問いを繰り返していたアルトマイヤーは、その子が近寄ってきたのにも気付かなかった。
「あの」
ふいに、耳のすぐ隣の辺りで子どもの声がする。
驚いて横を向くと、幼い子どもが立っていた。大きな水色の瞳が、遠慮がちに自分を見つめている。首都の幼年学校の制服を着ている。ということは、少年で、年齢は少なくとも八、九歳ほどの筈だ。しかしそのあどけない顔立ちと、腰掛けた自分の頭にも届かない身長から、六、七歳の少女にしか見えなかった。