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三
首都は今日も朝から曇り空で、ときどき小雪がちらついている。
黒い外套に身を包んだ男が一人、街の高台へと続く緩やかな坂道を、真新しく積もった雪を踏みしめて登っていた。
やがて、とある大きな屋敷の前で足を止め、開かれた門をくぐる。王国軍情報部は周囲の貴族の邸宅街にとけ込むように、普通の市街の屋敷と変わらない造りとなっていた。
現れた外套姿の男に、門番をしていた兵士が、びしりと敬礼し、緊張に少しうわずった声を掛ける。
「アルトマイヤー中佐っ、遠路のご帰還お疲れ様ですっ!」
見知った顔であったが、男は表情を変えることもなく、無言のまま敬礼を返したのみだった。
慌てて扉を開けた門番が男の到着を告げる。吹き抜けとなった玄関ホールで雪の付いた外套を脱いでいると、小間使いをしている軍属の老人が飛んできて、外套を受け取った。老人が、軍帽に付いた雪も拭おうと田舎訛りの強い言葉で申し出ると、
「不要だ」
と、短く答え、彼の手からタオルを取り、自ら鈍色の帽子に付いた雪を払う。軽く水滴を拭き取ると、再び揃えられた黒髪を帽子に収めた。
その間に門番の兵士は、急いで上官のブーツに付いた雪を拭っている。ひととおり終えてひざまづいたまま見上げると、まともに目が合ってしまった。眼鏡の奥の鋭い視線に射すくめられて、兵士は固まったまま動けなくなる。
だが、その黒い瞳は特に不興を訴えているようではない。無表情のまま、「ご苦労」とだけ声を掛け、廊下の奥へと消えていった。
「ふえ~っ、キンチョーしたぁ~!」
彼の姿が見えなくなると、にわかに気の抜けた様子で、門番の兵士はホールの床にへたり込んだ。軍属の老人が、笑いながら兵士をからかう。
「いつもの威勢の良さはどこへ行ったかの? 怖いもん知らずのヨハン一等兵も、あのお方相手じゃ分が悪かね」
「分もなにもじーさん、あの有名な『凍氷の刃』と面と向かって話をしたのなんて俺初めてだぜ? うわ~、まだ足が震えてらあ」
両手を膝に当てて、若い兵士はまだ興奮気味のようだ。
「ヴァーリア本部長になったのがまだついこないだだったのに、もう首都に呼び戻されるなんて、今度は首都本部の室次長だってウワサ、本当だったんだな。さっすが出世の鬼、って感じだぜ」
「まんだ室次長になられるとは決まっとらんじゃろ。噂は噂、まあ少し落ち着かんかい」
老人にたしなめられても、まだ浮ついた様子で門番は仕事に戻っていった。
「アルトマイヤー君、久しぶりだねえ。元気でやっていたかい? まあ、くつろいでくれたまえ」
情報部第三室長のヒラー大佐は、相変わらずののんびりした仕草で、男に椅子に掛けるよう勧めた。歳は五十過ぎ、いつもにこやかで温厚そのもの。とても軍人、それも情報部の人間には見えない。副官にお茶の用意を頼むと、自分も執務机から離れ、部屋の中央に備えられた応接用の椅子に腰掛けた。
アルトマイヤーは上官が座るのを見届けてから、一礼して前の席に座る。変わらないねえ君も、と、ヒラーは部下の律儀さをからかうように苦笑する。対するアルトマイヤーの方は、表情を変えることもなく、
「室長もお元気そうで何よりです」
と、抑揚はないが、低く響く声で短い挨拶を返した。
特にこの上官に対して含むところがあるわけではない。歌劇の『虚無の使い』の仮面に喩えられる彼の無表情や、感情の読めない口調には、ヒラー室長はとうの昔に慣れている。気にする様子もなく、やがて運ばれてきた茶菓子を一つつまむと、遠路を帰都した部下を相手にのんびりとした口調で語った。
「ヴァーリアでは着任早々忙しかったようだねえ。まあ、あそこは教主国派の弾薬庫みたいなものだから、まめに様子を見てやらないと危なっかしくてしょうがないしねえ。本当にご苦労さん」
慰労の言葉を掛けられたアルトマイヤーは、無言で頭を下げた。必要最低限の言葉以外発しないのも、彼が士官学校を卒業して情報部に配属された当時からのことだ。
『ゲルトルーデの盟約』から三百余年。当初、帝国の支配から解放された人々は、長く苦しい戦いの末ようやく勝ち得た平和な日々を謳歌していた。しかし年月を経た現在、大陸はまた、ライヒヴァイン王国を筆頭とする『十三騎士派』と呼ばれる国々と、クールマルク王国を中心とする『教主国派』の国々とに勢力が二分され、互いの利権を争うようになっていた。二つの陣営の全面的な衝突は今のところかろうじて避けられ、表面上は『盟約』にあるようにすべての国々が友好で結ばれているのが建前ではあったが、実際には小規模な戦いが各地で繰り返されていたのである。
敵陣営の中心は、教主国と呼ばれるクールマルク王国だが、かの国自身はどちらかといえば穏健派であり、自陣営に属する国と『十三騎士派』の国との争いを諫めることが多い。問題は、『十三騎士派』との戦を強硬に主張する国々である。大陸の東方に位置する聖グレーテル国はまさにそういった主戦派の急先鋒で、その首都ヴァーリアの本部といえば、主に敵対諸国の動向を監視し情報を収集するのが目的の第三室の中でも、最も重要視され、繁忙きわまる部署のひとつであった。
わずか二十一歳という異例の若さでヴァーリア本部長に抜擢されたアルトマイヤーは、着任から一年足らずで上層部の期待を裏切らないだけの成果を次々と挙げてみせた。そんな彼がこの度首都に呼び戻されたのだから、下の者の噂にも登るとおり室次長級への人事が為されるものだと、誰もが思っていた。
ところが、彼が上官から告げられた次の任務は、意外なものであった。