10-2
丘から差し込んでいた夕日がふと陰った時、エミールはゆっくりと口を開いた。
「……判りません……」
そしてまた時間をかけて言葉を選ぶ。
「本当なら、あります、って答えるべき、なんですよね。そうでなければ『即、訓練中止』って言われちゃいそうだし」
エミールは自分の言葉に少し笑う。
「せっかく長い間警護官になるために訓練を施して頂いたのに、こんな答えしかできなくて申し訳ありません。でも……あなたが教官としてではなく尋ねてくださったのなら、ぼくも訓練生としてではなく、ぼく自身として答えるべきだと思って」
アルトマイヤーはわざわざ私用と断ってこの場に誘ってくれた。それは彼が教官と教え子という立場を越えて、人間として自分に語りかけてくれているということだ。
出世の鬼と呼ばれ、無口無表情の仮面の下に、人としての優しさ、誠実さを持ち続けているこの人の言葉に、自分も誠実に答えたい。
エミールは、まとまらない思いを一つずつ慎重に繋げるように続けた。
「軍人という道を選んだ以上、人としての感情を殺して任務を達成するのは当然のことです。……フレーリヒさんのときみたいに、まだまだ全然甘いですけど、きっとそれは出来るようになると思うんです。でも……
感情を殺すことと、捨ててしまうことは、何だか違うような気がするんです。
すべてを捨てる覚悟が持てるかどうかは……やっぱりぼくにはまだよく判らないんです……」
こんな言葉でこの人は満足してくれるだろうか。エミールは不安な気持ちで、傍らのアルトマイヤーを見上げた。
僅かに残った夕暮れのあかりが、アルトマイヤーの背中からエミールを照らしている。
緩やかな逆光の中、アルトマイヤーは確かに微笑んでいた。
「……それでいい……」
初めて見たアルトマイヤーの笑顔に、エミールはその大きな水色の瞳を大きく見開く。
アルトマイヤーの記憶の中にあった、雨雲が去り晴れ渡った空の色の瞳がそこに在った。
この少年には、できればすべてを捨てて欲しくない。
教官としては矛盾した願いを込めて、アルトマイヤーは教え子を見つめ返した。
「……君は着替えまで持参してきたのか?」
唐突に問われ、エミールは弾かれたように答えた。
「あ、はいっ。もしかして休日出勤で特訓かな、とか思ったりしたもので」
最近は、少しだけ元来の茶目っ気のある反応を返すようになった教え子である。
「せっかくだ、着替えてきたまえ」
着替え終わったエミールを、アルトマイヤーは室内戦訓練用の建物へと連れて行った。
いつかエミールが居残りを希望し、いつまでも親類の影を追って訓練を続けていた課題だった。
アルトマイヤーはその課題に、もう一度エミールを当たらせた。
エミールが勢いよく建物内に飛び込んでいく。
小気味よい銃声が響き、数瞬の間にエミールは室内を制圧して入り口へと戻ってきた。その顔には驚きと満足感が溢れていた。
的を見るまでもない。窓から見え隠れした教え子には、もうあの付きまとうような影はなかった。
「これが君の積み重ねてきた三ヶ月だ。誰と比べるものでもない。君自身が今その手に持っているものだ。それを信じるといい」
「はいっ! ありがとうございましたっ、教官っっ!」
エミールはアルトマイヤーを見上げ、笑顔で元気よく敬礼した。
そしてアルトマイヤーも、微笑を浮かべて敬礼を返す。
師弟の影が夕暮れの訓練場に長く伸びて、やがて春の闇に消えていくまで、二人はそうして佇んでいた。
もう秋の気配すら漂い始めた八月の終わり。エミールは『学園』への出発の挨拶に、情報部第三室を訪れた。
「アルトマイヤー教官、じゃなくて室長! ご就任おめでとうございます」
相変わらず元気な元教え子に、元教官は目を伏せただけで返事とした。
アルトマイヤーが無表情なのも相変わらずである。
エミールは夏の間、近衛としての作法や侍従の心得などを王宮で学んだ。近衛兵の暗い灰緑色の制服もなかなか板に付いてきている。
但し、こんな小さなサイズの制服を仕立てるのは軍御用達の仕立屋も初めてだ。ものがものだけに仕立屋も何度も近衛府側に確認してきたそうで、それがまたエミールの不満のタネであった。
夏の間に少しだけ背の伸びたエミールが、笑顔でアルトマイヤーに挨拶した。
「明日、殿下に随行して、『学園』へ出発します。これからもよろしくお願いします」
「無事を祈る」
短い餞の言葉だったが、この教官、もとい室長には似合いだった。
エミールはまた元気よく敬礼すると、アルトマイヤーに向かって笑顔で言った。
「行ってきます!」
アルトマイヤーは、いつも通り表情を変えずに敬礼を返す。
エミールが例によってぱたぱたと足音を立てて去っていった。第三室の顔なじみの人間に軽く声をかけ、その声も遠ざかっていく。
アルトマイヤーは席を立ち、廊下へと出た。廊下の窓からは、家へと駆けていくエミールの姿が見下ろせた。
元気で。
言葉にしなかった想いを眼差しに乗せる。
そのアルトマイヤーの黒い瞳は、いつまでも暖かく教え子の背中を見送っていた。




