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エミール達が夜行列車に揺られているころ、レギーナの下町の安宿に一人の男が現れた。ぼろをまとった風体の割に懐は暖かいらしく、大部屋ではなく個室を希望する。
宿屋の主人は男にうろんな眼差しを向けながらも、先金を受け取ると黙って部屋の鍵を渡した。
男は部屋に入ると、鍵をしっかりと掛け、糸が切れたように寝台に倒れ込んだ。
粗末な造りの安宿だ。壁も薄い板一枚で、隣室の会話がまるまる聞こえてくる。
男は呻き声を敷布を噛みしめて必死で殺していた。男の体には幾つもの銃創があった。重傷を押して何とか汽車を乗り継ぎこの町までたどり着いたのだ。傷の痛みが脳天を突き抜けるようだった。
男は這うように荷物を探ると、鞄の底から小箱を取り出した。箱の中には注射器と幾つもの薬包紙の包みが入っていた。薬包紙を解くと、白い結晶状のものが現れる。男は水筒に用意してあった液体に結晶を溶かし、自らの左腕に注射針を突き立てた。
見れば男の左腕にはすでに、何カ所もの注射の痕があった。
一瞬気が遠くなるような感触を経て、痛みが引いていく。強力な麻酔作用を持つ麻薬だ。
(こんなものに頼ることになるとはな……)
男の顔に嘲笑が浮かぶ。実際、薬を使わなければ痛みで動けないほど、男の怪我は深刻なものだった。
壁に背をもたれさせ、上着の隠しから二つ折りの革製の写真入れを取り出す。
最愛の両親と妹、そしてまだ何も知らず希望に満ち溢れ、誇らしげにライヒヴァイン近衛兵の制服を身につけている自分がいた。
「……もう少しだ……」
もう少しで皆の敵は全て死の国へ送ってやれる。
「……もう……少し……」
フレーリヒは、ぼろぼろになった身体が眠りに引きずり込まれる手前で何度も、写真に向かって呪文のように誓いの言葉を繰り返した。
エミールとアルトマイヤーがベルタ王国の首都レギーナに到着したのは、翌日の昼近くであった。
すでに軍を経由して、標的のクレンゲル家に危険が迫っていることは連絡が行っている。 屋敷の周りにはクレンゲル家の私兵とベルタの軍隊が、物々しく警備に当たっていた。
アルトマイヤーは、それぞれの責任者に話を通すと、エミールと共に屋敷周辺の警備体制の確認を始めた。それこそ警備の実戦を兼ねた訓練である。
ベルタ軍側も情報を受け取ったときは半信半疑であったが、ライヒヴァインから情報部の人間が派遣されてきたと聞いて、緊張が高まった。
しかし、いかにも切れ者といった風情の中佐殿はともかく、側にくっついている子どもは何だろうとの疑問はあった。幼年学校の制服を着ているから軍属としておトモに付いてきたといってもおかしくはないが、装備で固めた無骨な軍人達の間をちょこまかと走る様子は、いかにも場違いな感がある。
とりあえずまだ、屋敷に爆発物を仕掛けられた形跡はなかった。警備の兵達がちゃんと仕事をしてくれれば、火を掛けられる恐れも少ないだろう。
しばらくの間家人の外出は厳禁としても、屋敷内にも危険は至る所にある。
特にフレーリヒは狙撃の名手だった。並みの狙撃手なら不可能な距離と角度からでも、彼なら狙ってくるかも知れない。
窓という窓にカーテンを掛け、窓に近づかないように警告する。そしてアルトマイヤーは、エミールを連れて屋敷の四方の景色やその中にある建物をひとつひとつ確かめるように見ていった。
屋敷の北は運河に面している。対岸はそこそこ遠いが、このくらいの距離なら狙撃があってもおかしくはない。東と西は同じような貴族の邸宅が並んでいる。こちらも、隣家に忍び込んで犯行を行わないとは限らない。要注意だ。
反対に南側は、平屋建てかせいぜい二階建てまでの町屋が広がっている。遠くにぽつんと鐘楼が建っているが、私兵に尋ねると上には狙撃の可能な足場はないとのことだ。
「南側はそれほど警戒しなくても良さそうですね」
エミールのこの台詞をアルトマイヤーが低い声でたしなめた。
「味方の勝利が百パーセント確実ということはありえない。同じように敵の勝利がゼロパーセントということもない。たとえ一パーセントずつでも確率を上げる努力をするかしないかが戦場で生き残れるか否かの差だ」
「はい、すみませんでした。教官」
「別に謝らなくていい」
「はい、すみま……じゃなくて了解しました。教官」
肩をすくめてしょげてみせた教え子にさっさと背を向け、教官は屋敷の使用人達に、南側の窓もカーテンを閉めさせている。エミールはすぐにけろりとしてカーテンを閉めるのを手伝った。
「外出もするな、こんな閉めきった部屋に穴熊のようにこもっておれだと? 私を誰だと思っておる?」




