4-3
エミールの記憶の中のアルトマイヤーは、無口で、表情に出すことはなかったが、人としての感情があった。お節介をした自分にも、迷惑であろうにきちんと対応してくれた。
ところが今の彼からは、そういったものが全く感じられない。父や親類の大人たちから聞かされたとおりの、他人に全く興味を示さない、昇進のみを考えている非情な人物像そのものだ。
あの雨の日のことを怒っているのかとも考えたが、そういう訳でもなさそうである。まるで機械と会話を交わしているようだ。
機械といえば、その走る速度も測ったように正確だ。相当この道を走り慣れているのか。
三年前の出来事の回想から始め、いろいろな思考を巡らせていたエミールだが、時間が経つにつれ、そんな余裕も無くなってくる。
そろそろ一時間以上走っている筈だ。幼い頃から父や叔父などに体を鍛えられ、走ることも全く苦にしたことはなかった。しかしさすがにこんな速度でこんなに長い距離を走ったことは初めてだった。体のあちこちが悲鳴を上げている。おまけに吹きさらしの草原である。向かい風ともなれば、エミールの小さな体は今にも吹き飛ばされそうだった。
それでもまさか第一の課題で脱落する訳にはいかない。エミールは寒気に引き裂かれそうなのどを鳴らしながら、必死でアルトマイヤーの背中を追った。
ようやく景色に見覚えがある所まで二人はやってきた。出発した倉庫の前でアルトマイヤーが足を止める。
「休憩を許可する。次の課題の開始は十分後だ。もう一度言っておくが五分前集合が軍での規則だ。守るように」
「はい、教官」
返答もそこそこに、地面にへたりこんだエミールだった。
長距離を走ったときはいきなり止まらない方がよい、などという教えもすっかり頭から抜けていた。震える手を湿った地面について体を支え、溺れかけたように激しい呼吸を繰り返す。五分後には待機の姿勢を取らなければならないが、ちゃんと立ち上がれるか本気で不安になる。
同じ距離をこなしたアルトマイヤーはといえば、軽く息を整えるだけで待機の姿勢を崩さず、目を閉じてエミールから少し離れたところに立っていた。
実働部隊の兵士をしても相当な運動量の筈である。これでアルトマイヤー教官が、少なくとも、命令だけ下して本部でふんぞり返っている士官ではないらしいことは、十二分に理解できた。
エミールはのどの乾きに耐えられず、心の中でよいしょと気合いを入れて立ち上がると、おそるおそるアルトマイヤーに尋ねた。
「お伺いします。どこか水が飲めるところはありませんか」
眼鏡の奥からじろりと一瞥され、エミールは、
(しまった……)
と質問を悔やんだ。先程からの論法ならば、水筒の一つも用意してこないとはと責められてもおかしくはない。こんなことで訓練中止になったらどうしようかと顔をしかめたエミールの頭上から、野外でもよく響く低い声が降ってきた。
「……そこの倉庫のうしろに兵士の休憩所がある。井戸があるから使うといい」
どうやら不興を買った様子はない。ほっと胸をなで下ろし、ふらつきながら指さされた方向へ歩き始めたエミールに、容赦ない注意が突き刺さった。
「休憩時間は訓練のために在るものだ。体力の回復のために使用し、次の訓練に支障の出る行いは慎むように」
……要は水をガブ飲みするなということらしい。
エミールはアルトマイヤーの隣を軽く一礼しながら通り過ぎ、聞こえなくなった頃を見計らって深く溜息をついた。
次の訓練とやらがどのようなものか、想像したくもない気がした。
「……ご主人様……、もう一度様子を見て参りましょうか?」
夜も明けぬうちから、うろうろと息子の部屋を覗いては居間へ戻って溜息をつくヴォルフに、別宅の使用人頭の中年の女が心配半分、呆れ半分で声を掛けた。
この主人の普段からの、息子の可愛がりようはよく知っていたが、夕べ息子が帰宅したときの狼狽や、その後朝までほとんど一睡もしていないだろうことに、改めてその愛情の深さを思い知らされる。
「うん……いつもならもうすぐ起きてくる時間なんだけどねえ……あまり目を覚まさないようだったらお医者様に来てもらって……。……目、覚まさなかったらどうしようかねえ……」
「大丈夫ですよ、ご主人様。きっと少しお疲れになっただけですって」
悪い方ばかりに考え、何かに縋るように女を見つめる目は赤く涙ぐんでさえいる。そんな主人を慰めてはみたが、女にとっても小さい坊ちゃまが心配であることに変わりはなかった。
エミールが夕べ帰宅したのは、もうとっぷりと日も暮れた午後七時過ぎのことだった。
顔合わせだけにしては随分遅くまでかかるものだ、とヴォルフは思ったが、あの息子のことだ。たとえ帰宅が深夜になったところで、普通の十一歳の子どもにする類の心配はしていない。
「そういえば坊ちゃま、一時少し前に一度お帰りになったみたいですよ。すぐに飛び出して行かれましたけど……」
部屋に幼年学校の制服が乱雑に脱ぎ捨てられているところをみると、どうやら訓練用の服に着替えていったようだ。
(初日からしごかれてるのかな? やってくれるじゃあないか、教官どのも)
などと、ヴォルフは呑気に蒸留酒の杯を傾けていた。
そこへ、帰宅を知らせる呼び鈴が鳴る。若い使用人の女が扉を開けに向かった。
と、玄関先から女の小さな悲鳴がヴォルフの耳に飛び込んできた。
「坊ちゃまっっ? しっかりして下さいっっ、エミール坊ちゃまっ!」




