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結局ギリギリで間に合ったエミールに、再びアルトマイヤーの洗礼が浴びせられる。
「軍における行動は、全て五分前集合が原則だ。以後守るように」
冗談ではない。これでも短距離、長距離を問わず、走りでは幼年学校最終学年の足自慢の生徒にも、軽く流して勝てる自分が速度全開で走った結果だ。その証拠にまだ呼吸が乱れている。家の使用人が車を出そうかと言ってくれたとき、素直に乗せてもらえばよかったと、寒気に痛むのどを押さえながら後悔した。
士官用の淡い茶褐色の野戦服を着込んだアルトマイヤーは、さっさと演習場の奥へと足を進めていく。
エミールは、突然現れた場違いな子どもをじろじろと見ている詰所の兵士たちに、一応愛想よく礼をして、慌てて教官の後ろ姿を追った。
王国軍第一軍の演習場は、首都の北東の丘陵地に広大な敷地面積を有している。灌木地帯、草原と起伏に富んだ種々の地形が、地上戦にはよい演習場となり、また、背後に控える荒涼とした険しい岩地が、首都への敵軍の侵攻を防ぐ役割を果たしていた。今はその景色のほとんどが先日来降り続けた雪に覆われ、行軍に踏みしだかれたのであろう細い道筋だけが、黒く地面を晒している。
十分ほど歩いたであろうか、歩幅が全く違うアルトマイヤーに、エミールは半ば小走りに付いて来たが、演習場内にある兵器庫らしい倉庫群の前で、先導者が足を止めた。
おもむろにエミールの方に向き直る。例の何を考えているのか読めない、抑揚のない低い声が小柄なエミールの真上から聞こえた。
「しばらくは君の基礎的な能力を確認する。詰所に話は通してあるので、明日からは指示のない限り、直接この場所に集合するように」
「はい、教官」
先程のこともあり、エミールはとにかく素直に返事に努める。
しかし当の教官は、また何故か攻撃的とも感じられる発言を教え子に対して投げかけてきた。
「私も、そして君にとっても無駄な時間を費やすつもりはない。要求された課題が達成できなかった時点で訓練は中止する」
「承知しました。教官」
エミールはまた、素直に返事をしてみたが、この発言には内心驚いた。
彼が有言実行の人間なら、どんな難題を出されようともとにかくやり遂げなければ、すぐにでも首を切られるということか。また、脅しやはったりではない、いかにも本当にやりそうな口調だ。
まあ、士官学校で軍事訓練を受けている学生ならともかく、(実際は親類から訓練されているとはいえ)書類の上では自分は全くのシロウトの子どもである。キーファ殿下の入学時期までに警護官となれる見込みのない人間に、いつまでも関わっていられないのは当然だ。アルトマイヤーの言っていることに異論はない。
「では始める。付いてきたまえ」
短く前置きをすると、アルトマイヤーはエミールに背中を向けて走り出した。慌ててエミールは後を追った。
最初から手加減なしの速度である。ただでさえ歩幅が倍近くあるアルトマイヤーに、エミールは遅れないように付いていくのがやっとであった。おまけに雪が融けて足場が悪く、泥でブーツがすぐ重くなってくる。
そしてさすがは第一軍自慢の演習場である。土地の高低差は憎らしいほどだ。ずいぶん昔に叔父が新兵だったころ、基礎訓練でここの演習場を走らされただけで脱落していった者が結構いたという話を聞かされていたが、この厳しい地形なら納得もいく。
首都横断全力疾走後、さらにそれに近い速度で走らされて、エミールも息が上がっている。
それでも、
(……いちおうゆっておいた方がいいかな……)
と、周囲に誰もいないことを確認して、前を走る教官に話しかけた。
「あの……はじめまして、で、よかったんですよね」
初めて出会った日のことを覚えていると、そしてそのことは誰にも言うつもりはないと、そう宣言したつもりだった。
忘れたふりをしても構わなかったが、多分アルトマイヤーは自分のことを覚えているだろう。冷徹で通っているこの人が、おそらくはけして見られたくなかった顔を見せてしまった。相手がほんの子どもだったとはいえ、あまり快い記憶ではあるまい。
いつか思い出して誰かに言いふらす、そんな心配はしないでください。そう言外に伝えたかった。あの時の行動は、エミールにとっても罪の記憶としてけして忘れられるものではなかった。ちゃんと謝ることも出来ず、なんとなく別れてしまった。幼い心の中にいつまでもわだかまりがあった。
しかし、そんなエミールの心情を知ってか知らずか、アルトマイヤーは振り返ることもなく、息も乱さずに教え子に向かって一気に注意を飛ばした。
「訓練中に無駄口は禁止だ。質問は必要があれば受けるが、今の課題に疑問などありえないだろう」
そりゃごもっとも、だ。教官の後ろに付いて走っているだけなのだから。
とりつく島もない返答に、エミールは先程再会して以来の戸惑いを強くしていた。




