魔物使いと竜の谷 承章3
承章 3
近隣の小さな町に戻って数日。
アイーシャは自身が思っていたよりも重傷で、周囲が心配したよりは軽傷だった。合計四か所の裂傷はいずれも大事はないものの二か所は縫う必要があった。痛み止めの薬をもらいうつらうつらする間に幾度か熱を出したのを覚えている。それを看病してくれたのは、あろうことかドレイクの守護魔――ルマだった。赤茶色の髪に紅の瞳、やや濃い肌色の美青年ではあるが、如何せん、声が醜い。喋らなければそれなりのおかまで通りそうだが、元が鳥であるのに、なぜに声だけこんなに醜いのか。
「あんたに看病されるなんて」
「仕方ないでしょ。怪我をさせたのはあたしだもの」
自分なりに責任を感じているのだろうか、殊勝な物言いも含め細やかな気配りが献身的だ。憎らしいことに、女のアイーシャよりも格段に気が回る。
ルマも人型になることができる。ということはかなり高位の魔物ということだ。つまりはドレイクも相当な魔物使いということになる。当然、ルマに尋ねてもドレイクのことがわかるわけはない。使い魔たちは己が仕える主について他人に話すことはないからだ。恐らくその友人であるエディのことも教えてはもらえないだろう。
こんなに長くベッドにいる毎日というのは経験がない。昼からずっと横になっているのだ。夜に眠れるはずもない。いたずらに目が冴えるだけの何度目かの夜、アイーシャはだるさの残る身体を起こすと外套を羽織る。今までのものは破れて血に汚れてしまったので、これは新しく購入したものだ。購入資金を提供したのはドレイクだ。ちなみに上等な一人部屋に泊まっているが、この宿泊費もドレイクが持つらしい。
「シュリ、どこにいったのかしら」
見回しても見慣れた姿はなかった。うとうととした微睡にあった頃は確か部屋にいたはずだったのに。お喋りをしようにもいないのでは叶わない。もしかしたらエディたちの部屋に行っているのかもしれない。
静まり返った廊下を抜けて外へ出ると丸い月が出迎えてくれた。冷えた空気は空まで続いているらしく幾万にも広がる星が溢れそうな輝きを湛えていた。
「――なら、もう戻るのか?」
洩れ聞こえた声にアイーシャは咄嗟に身を隠した。間違いがなければ今のはドレイクのものだ。潜めたような声に思わず耳をそばだてる。
「もう鍵はあんだろ?」
「そうだね。いつまでも谷を留守にはできない」
鍵とは何だろう。谷とは何のことなのか。
「向こうは今どうなっている?」
「大して動きはねえよ。まあ谷が開かなければどうしようもねえってのが本音だろ」
「確かにね」
「一応攪乱はしたんだ。お前が出た後に偽物を仕立ててばらまいて。ちょっとでも時間が稼げればってことで。まあ、どれだけ役に立ったかはわかんねえが」
「いや充分だ。多分そのおかげだね。ココラ寺院近くまでは見つからずに来られたのは」
「で、玉は?」
その声にアイーシャは思わず腰に手をやった。が、病床にあったのだ。そこには携帯しているポーチなどあるわけがない。
「揃ってるよ。彼女が持ってる」
「あの魔物使いのくそ生意気な小娘か?」
思わず怒鳴り込みたくなる衝動を抑えて、痛くない方の手で拳を握る。
「彼女の守護魔がそうお望みだ」
へえ、とドレイクの声がどこか楽しそうに答えた。
「じゃあ、あの生意気ちび、谷まで連れてくのか?」
「私はそのつもりだよ。護衛なんだし」
「大丈夫か?」
「どうだろう。難しいかもしれないけど。まあ、平気じゃないかな」
「ったく、ちゃんと知らせがきてりゃ俺は残れたのに、めんどくせえ」
悪かったわねと思う。知らせはしたのだ。悪いのはもうろくじいさんのせいではないか。
「それは嘘だろう。ドレイクなら遅からず来てくれると思っていたよ」
「ラトラにつく頃には追いつきたかったが。思ったよりも遅くなった。すまなかったな」
「問題ないよ。アイーシャたちがいたからね」
あたし? と内心首を捻る。
「ラトラ寺院は隠されてる部屋が多いとは聞いていたけど、一人だったらどれだけかかったかわからなかったね」
「ほんとだな。よくもまあ、運よく見つけられたもんだ」
そういえばと思い出す。ココラ寺院では迷わず部屋に入ったエディなのにラトラ寺院では玉のあった場所を通過している。シュリに確認をしなければわからなかった。つまり魔物使いの――ひいては魔物の力が必要だったということだろうか。
「それよか、あの姿はなんなんだ? すぐにはわかんなかったぞ」
「さあね。私も驚いたよ」
――あの姿?
アイーシャの心臓が跳ねた。どうしてだか瞬間的にそれがシュリを示していると感じた。
「カウルアゼスはやっぱり?」
「ああ、違う。多分もう俺たちだけじゃ無理だ。なんとかしてもらうしかねえな」
知らない言葉だった。土地の名前か人の名前なのか、それすらわからない。だが想像するに「カウルアゼス」がだめだからなんとかさせようとしている――恐らくシュリに。
――何をさせるというのか。二人の会話からするに彼らは元々からシュリを知っているような口振りではないか。彼らが自分にそれを言わないのは何か都合がありそうだというのはなんとなくわかる。
――しかし、シュリにそんな都合があるのだろうか。
……ずっと一緒にいた魔獣。稚い、愛らしい幼馴染はいつだって澄んだ紫の大きな瞳で自分を見つめていた。
シュリに知らない面が幾つもあるのは当然で、まして魔物なのだから人とは考え方の違う部分があることも理解している。明かさないものだってあるに違いない。だが、それは見ないようにしていた気がする。自分の親友枠に嵌めこんでそれ以外はないものとしていた。そしてそれはシュリも同じで、その枠に収まってくれていた。
ふと思う――この仕事は受けてはいけなかったのではないのか。
仕事を受けるか相談したあの日、シュリの様子がおかしかったことを思い出す。だからこそ受けた仕事である。知りたかったはずの相棒の片鱗。掴みかけているなら望み通りの展開ではないか……。
二人の青年の話は続いていた。だが己の思考に沈んだ耳には言葉としては届かなかった。のろのろと自室に向かい歩きながら、溜息をついては時折止まってしまう足を進める。
果てしなく自己嫌悪だった。知りたかったくせに知れば耳を塞ぐ。知りたかったくせに、知りたくないと目を背ける。自分の選択に従い踏み出した一歩に、いいことばかりが待っているなんてあり得ないはずなのに。
何が知りたくて何を知りたくないのか。どんな都合のよい情報を得ようとしていたのだろう。これまで知っていた彼にどんな装飾をつけたかったのか。いや、そうではない。どんな彼でも構わない。ずっと一緒にいるのだというその確約が得られるのだったら、過去に何があろうと何者であろうと、今現在のシュリがいるのなら問題はないのだ。しかし、それが揺るがされるようなことだけは絶対にあってはならない事象なのであって――。
「アイーシャ」
部屋に戻ると鋼色の魔物が振り返った。窓からの月明かりに照らされた鱗が不思議な光沢を放つ。
「どこ行ってたの?」
心配しただろと告げる声には責める色はなく、案じている温かさだけがあった。
「ごめん、ちょっと風にあたりに。シュリこそ、どこに行ってたの」
「ルマとお喋りしてたんだ。ここじゃアイーシャを起こしちゃうかもしれないだろ」
「……そう」
「あいつ、結構いいやつだよ、優しいし。あんなだけどね」
「そう、よかったね」
笑うような無邪気な声が今は何だか切ない。
「アイーシャ?」
シュリがふわりと飛翔した。
「元気ないよ。もしかして傷痛い?」
アイーシャは首を振った。
「……なんだか、疲れちゃった」
「まだ完全じゃないのに出歩くからだよ」
正面に浮遊する鋼色の魔物を見つめて、アイーシャはその名前を呼んだ。
「どこにも行かないよね」
シュリが瞬いた。
「ずっと一緒だよね?」
「俺はアイーシャの守護魔だよ? 当たり前だろ」
どうしたのと首を傾げるのに、アイーシャは力のない笑顔を向けた。
「ごめん、なんでもない。寝るわ」
戸惑ったままのシュリには申し訳ないがフォローをする気力もなかった。そんなアイーシャを心配したのか横になったところに降りてくると、珍しく半身をベッドに入れるようにして丸くなる。そしてさらに珍しいことにシュリの方から頬にキスをしてきた。
「おやすみアイーシャ。俺はここにいるから」
アイーシャがしようとすると嫌がるくせに、自分はそんなにまで変なのかと思ってしまう。まあ、変だったろう自覚は十分にある。でも。せっかくシュリが優しくしてくれたのだ。このまま眠ったフリをしよう。そして寝返りを打つついでに温かな体温に手を触れる。大目に見てくれるうちに一杯蓄えておいても悪くはない。