雪娘を想えば
背の高い男に連れられて、落ち着かない様子の少年が見世物小屋を訪れました。
見世物小屋は、多くの人が訪れていて、大変活気があります。
少年は、自分が悪い事をしているのではないかという不安を抱えたまま、男に手を引かれて小屋の中へと入っていきました。
この少年は、信心深い母親と、子どもの事は母親に任せきりの父親の間に生まれ、厳しくしつけられて育ってきました。
いつもなら、このような低俗な場所を訪れることはありません。
ただ、今日は両親が家におらず、彼はおじの元に預けられていました。
おじは、たまには気分転換も必要だろうと言って、半ば無理やり少年をこの場所に連れて来ていたのです。
見世物小屋の中には、少年が今まで見た事のない光景が広がっていました。
少年よりも背が低い男が、派手な衣装を身にまとって曲芸を行っています。
彼が曲芸を成功させるたびに、観衆はおしみない拍手を送ります。
他にも、一つの身体に二つの頭を持つ男や、剣を飲んでも死なない男などがおり、歓声が絶えませんでした。
「どうした。こんなににぎやかな所なのに、楽しくないのか?」
おじがそうたずねますが、少年はうつむいたままでした。
心のどこかで、自分がいてはいけない場所にいるのではないかという思いが常にあったからです。
「ほら、あの娘を見てみろ。かわいいと思わないか?」
おじは少年の肩をつかみ、右側を指さしました。
おじが指し示した方に見えたものに、少年の目はくぎ付けになりました。
そこにいたのは、大きな檻に入れられた、少年と同い年くらいの少女でした。
きらめく白銀の髪に、氷のように澄んだ青い瞳。
雪のように真っ白な服を身にまとい、手足や顔の肌はそれ以上の白さをほこっています。
紅水晶のようなくちびるも目を引きます。
少年は、なんてかわいらしい子なのだろうかと、ため息をつきました。
それと同時に、何で彼女はこんな所に入っているのだろうか、とも考えました。
「さて、お集りの皆様。私から、この雪娘についてお話させていただきましょう!」
檻のそばに立っていた男が、観衆を見渡しながら声を張り上げました。
雪娘と呼ばれた少女が入れられている檻の中には、バラの花がかざられた花びんと、水の入ったグラスが置かれたテーブルがあります。
「雪娘は、さわったものをたちまち氷漬けにしてしまうのです。さながら、ふれたものすべてを黄金に変えるミダス王のように!!」
男が目配せをすると、雪娘と呼ばれた少女は、両手をのばして花びんにふれました。
男の言葉通り、雪娘にさわられた花びんもバラもみるみるうちに凍り付いてしまいました。
凍ったバラの花を雪娘が握ると、まるでガラス細工のように粉々になりました。
その様子に、周囲から一斉に歓声が上がります。
少年も、かわいらしい彼女がこのような力を持っていることにおどろきました。
おそらくこの檻は、観衆がうっかり彼女にふれてしまわないようにするためのものなのだろう、と少年は考えました。
「彼女は生まれながらにして、このような力を宿しているのです! 雪娘の母親は、生まれたばかりの彼女をその手に抱く前に凍死してしまったという話です!」
悪趣味な冗談としか思えない口上を男がまくし立てると、観衆はいかにも気味が悪いといった様子の顔をしました。
「雪娘は食べるものすら必要としません! わずかな水さえあれば生きていけるのです! もっとも水を飲むときは注意しないと、こんな事になってしまいますがね!」
檻の中の雪娘が、今度は水の入ったグラスを手に取りました。
すると、中の水はたちどころに凍り付いていき、グラスごと砕けてしまいました。
「皆様のうち勇気あるお方! ぜひ、この雪娘の手を握ってやってくれませんか!? 彼女は生まれてこの方、人の温もりというものを全く知らないでいるのです!」
男が呼びかけると、場内がどよめきました。
あんなのにさわったら氷漬けにされてしまう、俺はいやだよ、などといった声が聞こえてきます。
少年は、雪娘の方を見たり、自分の手のひらを見たりしながら、考え事をしています。
その時でした。
「この子がやる」
おじが少年の手をつかみ、真っすぐ上げました。
「え、ぼくがやるの……?」
「そうだ。お前、あの子の手を握ってみたいんだろう?」
少年が雪娘に見とれていたことを、おじは見逃しませんでした。
おじの言葉に、少年は思わず顔を赤くします。
「皆様! この勇気ある少年に拍手を!」
少年は男や観衆にうながされて、雪娘が入れられた檻の前に立たされました。
少年も、あらゆるものを凍らせてしまう雪娘を怖いと思わなかった訳ではありません。
しかし、いくらなんでも本当に観客を氷漬けにはしないだろうと考えました。
何より、少年の雪娘に対する興味は、恐怖心よりも強かったのです。
彼女にふれてみたい。
できる事なら、彼女と仲良くなりたい。
少年はそんな事を考えながら、檻の中へおそるおそる手をのばしました。
雪娘は、不思議そうな顔をして少年を見つめています。
もしかして自分の事をいやがっているのだろうか、と少年は思いました。
よくよく考えてみたら、自分は見世物小屋の客で、彼女にとっては自分を珍獣のように見回してくる連中の一人でしかない訳だ。
きらう方が自然に決まっている。
手を差しのべたまま、少年の頭にはそんな考えがよぎりました。
少年の考えをよそに、雪娘は彼の方に歩み寄ると、その手のひらにそっとふれました。
「痛いっ!」
おどろきのあまり、少年は手を引っこめてしまいました。
冷たい。いや、冷たいどころではなく痛い。
本当は彼女にふれたいと思っていたのに、身体の方はあべこべの反応を示してしまいました。
雪娘は、悲しむような、さげすむような、何とも言えない表情でこちらを見ています。
観衆と男は、ぼうぜんとしている少年の様子を見て笑っていました。
「ま、待ってください!」
少年は男の方に向き直って、必死にお願いをしました。
「もう一度、もう一度だけやらせて下さい! ぼくは雪娘と仲良く……いや、雪娘の手を握りたいんです! 今はちょっとおどろいてしまったけど、今度は……!」
「大変申し訳ありません。後からのお客様もいらっしゃるので、挑戦できるのは一度きりとさせて頂いております」
「そんな……」
少年が肩を落とすと、檻の中の雪娘は興味を失った様子でそっぽを向いてしまいました。
「ほら、もう行くぞ」
「お、おじさん、待って!」
おじに出口へと連れて行かれながらも、少年は雪娘に声をかけました。
「今度は、今度はちゃんと君の手を握ってみせるから! また必ず会いに来るから!」
「おい、しつこい男はきらわれるぞ」
少年はなりふり構わず声をかけ続けましたが、雪娘はちらりと彼の方を見ると、視線を外してしまいました。
おじに引っ張られていく少年の様子を、観衆は笑いながら見ていました。
おじに連れられて家にもどった少年は、気持ちが晴れないままでいました。
見世物小屋に行ったこと自体もですが、それ以上に雪娘の前で自分がしたことを恥じていました。
雪娘のかわいらしさは、確かに少年の心に強く印象付けられるものでした。
しかし、いつもならあんな風に人に笑われるような真似をするべきではないことぐらい分かっていました。
おまけに周囲の人間は、雪娘の事を何か不気味な化け物のように見ているだけでした。
もしかしたら、彼女をかわいいと感じている自分の方がおかしいのだろうかとも思えてきました。
夜も更けたころ、おじが少年に声をかけました。
「もう一度、あの見世物小屋に行くぞ」
少年の返事を待たずに、おじは彼を夜の街中に連れ出しました。
「おじさん、見世物小屋ってこんな遅くまでやっているの……?」
「いいや、もう終わっている。だからだよ」
おじの言葉に、少年は首をかしげました。
「さっきは中々の活躍だったな、少年」
あの時の男が、おじと少年を見世物小屋の中に案内しました。
もう営業は終わっているのですが、おじはこの男と知り合いだそうで、特別に入っていいのだと言われました。
「ほら、この中にお目当ての女の子がいるぞ」
案内されて入った部屋の中には、凍り付いたイスに座っている雪娘がいました。
「こ、こんばんわ……」
少年は思わずもじもじしながら、雪娘にあいさつをしました。
「あなた、さっきの子ね? また来るとは言っていたけど、まさかこんなに早く会いに来るだなんて思ってもみなかったわ」
雪娘は座っていたイスから立ち上がり、少年に向き合います。
「で、あなたは何をしに来たの?」
「そ、そうだ! もう一度……君の手を、今度はちゃんと握りたいんだ!」
少年は必死に自分の想いを伝えますが、雪娘は不思議そうな顔をするだけです。
「そんな事したら、あなたの手が凍り付いてしまうわ。下手したら、死んじゃうかもしれない」
「だ、大丈夫だよ!」
かぶりを振りながら、少年は手を差し出しました。
「さっきは、ちょっとびっくりしただけなんだ! 今度は大丈夫だから! それに、ぼくは……」
「ぼくは?」
「ぼくは……君の手を握りたい。いや、君と仲良くなりたいんだ!」
真っすぐに自分を見つめる少年の顔を見て、雪娘は困ったような様子で言いました。
「私と、仲良くなりたい……?」
「ご、ごめん! いきなりこんな事を言うだなんて……」
しどろもどろになる少年でしたが、雪娘は静かに手をのばしました。
「あなたがそれで満足するならいいけれど……無理はしないでね」
「む、無理なんかしていないよ!」
「危なくなったら言ってね。すぐに手をはなすから」
雪娘はそう言うと、そっと包むようにして少年の右手を握りました。
「ぐっ……」
まるで氷の張った真冬の湖に手をつっこんでいるかのようです。
冷たさと痛みが右手から腕へと広がっていき、思わず身震いをしてしまいます。
それでも、少年は手を引っこめようとはしませんでした。
雪娘は少年をじっと見つめています。
手を握ったまま、雪娘の方を見てほほえんでみせました。
しかし、十数秒ほど握手を続けたところで、少年はたえきれずに手を放してしまいました。
「はあっ……はあっ……」
少年は両手をこすり合わせて、自分の息をふきかけます。
しびれたような感覚は続いていますが、少しずつ右手は温かさを取り戻していきました。
「……ずいぶん辛そうだけど、大丈夫? そんなにまでして私の手を握りたかったの?」
「気づかってくれてありがとう……ところで、どうだった?」
少年は、雪娘に問いかけます。
「どう……って、何のこと?」
「人の手の温かさ、だよ。今度はちゃんと君の手を握る事ができたから、分かってもらえたんじゃないかって。さっきの男が、雪娘は人の温もりを知らない、って言っていたから……」
少年の言葉に、雪娘は困った様子で答えました。
「ごめんなさい。よく、分からないの……」
「分からない?」
少年が聞き返すと、雪娘は静かにうなずきました。
「あなたは人の手の温かさを伝えたかった、って言ってくれたけど、私にはそういうのが分からないの」
「温かいとか冷たいとか、そういうのが分からないってこと?」
「ううん。火の前や夏の空の下だと、さすがの私も気分が悪くなるけど、人の手にふれても、温かいとも何とも感じないの」
雪娘は続けます。
「多分私は、人間の見た目をしているけど、本当は人間じゃない。雪の塊か何かにたまたま命が宿っただけのようなものなんだと思うの。あの男が言っていた通り、さわったものは何でも凍らせるし、食べ物は食べなくても水さえあれば生きていけるし、物心ついた時には母親も父親もいなかったし……」
雪娘の言葉を、少年はうつむきながら聞いています。
「だから私は何も感じないの。人の温もりも感じられないし、仲良くなるって事も分からない」
少年は、またも自分のしたことを恥じました。
人の温もりを知らない雪娘に、自分の手の温もりを感じてもらえれば、仲良くなれるのではないかと思っていたのです。
しかし、それはまったくの見当違いで、独りよがりの考えでした。
彼女は今までどんな思いをしてきたのかは、自分の想像もおよばないものなのだと思いました。
人の温もりも分からないし、人と仲良くなることも知らない。
自分だけが周りの人間とは違う生き物だという現実の中で、彼女は生き続けていたのです。
そんな彼女と仲良くなろうだなんて、考えが甘すぎたと感じました。
雪娘も少年も、だまったままうつむいていました。
それでも、少年は意を決したように、雪娘の手を再び握りました。
「ごめん!」
「あなた、何を考えて……」
「君が分からなくても、君と仲良くなりたいという気持ちは変わらないんだ……!」
しかし、今度は十秒も握り続けることができませんでした。
「仲良くなるって事が分からないのは君だけじゃないよ。ぼくだってきっと分かっていないよ。それでも、ぼくの君に対する気持ちは嘘偽りなんかじゃないと思うんだ」
自らの手をかばいながらも、少年は雪娘に笑顔を見せてみせました。
「だから、これからちょっとずつ知っていけばいいと思う。仲良くなるってどういうことなのか、もね」
「……あなた、面白いのね」
雪娘は、初めて小さく笑いました。
その顔を見て、少年も心からの笑顔をうかべました。
少年は、雪娘が笑顔をうかべている口元を見てしまいました。
つやのあるかわいらしいくちびるに、つい目がいってしまいます。
しかし、少年に見られていることに気が付いた雪娘は、笑顔を消して淡々(たんたん)と告げました。
「言っておくけど、口づけなんてしたらひどいことになるからね。私の吐息をあびただけでもあなたの命が危なくなるわ」
雪娘の言葉に、少年は思わず耳まで真っ赤になりました。
「必ず、また来るからね」
少年は帰り際にそう言うと、男に連れられて部屋をあとにしました。
部屋に残された雪娘は、少年に握られた手をじっと見つめていました。
手を握られても何も感じることはなかったけれど、彼が自身の想いを伝えようとしていたことは分かりました。
なぜそこまで彼が自分にひかれているのかは分かりませんでしたが、人間にはそういう時もあるのだろうなと考えました。
不思議なことに、その少年だけは、見世物小屋の人間や自分を見物に来る人間とは少し違う存在のように感じられました。
もしかしたら、おたがいに相手を特別な存在だと考えることが、彼が言っていた『仲良くなる』という事なのかな、と雪娘は考えました。
約束したにも関わらず、少年は二度と見世物小屋に行くことができませんでした。
どういうわけか、おじが少年を見世物小屋に連れて行ったことは母親と父親が知るところとなり、見世物小屋に行くことを固く禁じられてしまったからです。
親に内緒で行こうかとも思いましたが、少年にそのような勇気はありませんでした。
おまけに、少年が雪娘に会ってから程無くして、見世物小屋はよその町へと越していってしまいました。
少年がその事に気が付いた時には、跡地には何もありませんでした。
さらに悪いことに、見世物小屋の事を知っていそうなおじが亡くなってしまったのです。
大酒を飲んだあげくに事故を起こして、命を落としてしまいました。
ある意味ではおじらしい死に方だったと言えますし、母親はそんなおじの死を悲しむ様子もありませんでした。
ともかく、少年は雪娘のいる見世物小屋についての手がかりをすっかり失ってしまいました。
少年はやがて、青年と呼ばれるほどの年齢になりました。
親の望むように勉強をして学校も出ました。
周囲の勧めもあり、自分の母親と同じような厳格な女性を妻に迎えました。
やがて二人の娘にも恵まれ、よき家庭人として過ごしていました。
彼の妻は、母親の生き写しのような女性でした。
彼の娘たちも、妻の生き写しのような女性に育ちました。
妻も娘たちも彼にとっては大切な存在ではありましたが、彼の心に寄りそってくれる存在ではありませんでした。
それでも、家族を支えるために、彼は文句も言わずただひたすらに働き続けました。
おじのようにやくざな道を歩むことも無く、外から見れば『よき夫』であり『よき父親』であり『よき息子』であり続けました。
雪娘の事は、彼の心の中に根雪のよう残り続けていました。
彼女の手のひらの冷たさも、かわいらしい姿も、わずかに見せてくれた笑顔も、まるで昨日のことのように思い出すことができました。
本来であれば、妻以外の女性について考えることは、責められるべき事なのでしょう。
しかし、彼にとっては雪娘が心の安全地帯のようなものでした。
雪娘を想えば、彼の灰色の生活に色が足されるような気がしていたのです。
時は流れ、あの時少年だった彼は、もうすっかり老人になってしまいました。
両親はもちろん、妻もすでに天に召されています。
娘たちは家を出て、それぞれの人生を歩んでいます。
今は、自分以外に誰もいない家で、独りで暮らしていました。
老人になっても、彼はあの日の雪娘の事を忘れていませんでした。
雪娘に伝えた約束を果たせなかったことを、ずっと悔やんでいました。
今までも何度か見世物小屋の事や雪娘の事を調べようとしましたが、上手くいきませんでした。
どこそこの町に見世物小屋があったとか、そこに何でも凍らせる娘がいたとか、そういううわさ話は聞きましたが、肝心の雪娘は見つからずじまいでした。
そもそも今となっては、見世物小屋なんてものも世の中に存在しません。
年をとって、身体もやせ細った今、これ以上彼女の事を探すことはできませんでした。
今ごろ彼女はどこで何をしているのだろうか。
自分と同じように、歳を重ねているのだろうか。
あるいは、人間とは違う存在だという彼女は、ずっとあの姿のままなのだろうか。
また来るという約束を果たせなかった自分をどう思っているのだろう。
それとも、自分の事なんてとっくに忘れてしまっているのだろうか。
そんな事を、とりとめもなく考えながら日々を送っていました。
もう会う事はないだろうと考えていた雪娘と再び出会えたのは、降り続けていた雪がやんだ冬の日の事でした。
娘夫婦がたずねて来るというので、老人が玄関の雪をどけていた時、家の門の前に見覚えのある少女が立っているのを見つけました。
目をこらして見てみると、おどろくべき事に、それはまさにあの時の雪娘でした。
着ているものこそ違いましたが、あれから何十年も経っているにも関わらず、彼女はあの日のままの姿でした。
最初は幻かと思いましたが、老人はいてもたってもいられず、雪娘の方にかけよりました。
雪娘も、彼の方に向かって歩いていきます。
二人は、向かい合って立ち止まり、おたがいの顔をじっと見つめました。
抱き合ったりはしませんでした。
それでも、目の前にいる雪娘は幻ではないということが、老人にははっきりと分かりました。
「……すまなかった。必ず会いに来るという約束を破ってしまって」
老人に謝られても、雪娘は表情を変えませんでした。
「構わないわ。私は人間じゃないから、あなたと違って年も取らないみたいだし」
「ああ、そうだな……君の姿は、あの日と全く変わっていない」
雪娘は、澄んだ瞳で老人を見つめます。
「あなたの姿はずいぶん変わってしまったけれどね」
そう言われて、老人は小さく笑いました。
雪娘は、老人の家の中に招き入れられました。
部屋の中の暖房のたぐいはすべて消されており、ひんやりとした空気に包まれています。
雪娘と老人は、お菓子や食べ物も無い、水の入ったコップだけが置かれたテーブルを囲んでいました。
そして、おたがいに今までどんな人生を送ってきたかを話していました。
「あの後、私はいろんな所に連れて行かれたわ。それでも、あなたみたいな人に会う事はなかった。今ではもう見世物小屋なんてものも無くなって、その後もあちこちを転々としていたわ」
雪娘の言葉に、老人は静かにうなずきました。
「そうだったのか……大変だったな。でも良かった。こうして君に会うことができて」
「私は……あなたの事を忘れる日はなかったわ」
雪娘は、老人にほほえんでみせます。
「わしも……君の事を忘れる日はなかった。君の事を想えば、それだけで心が安らぐ気がしたからな……」
「きっと、こうやっておたがいを想い合えることがあなたの言う『仲良くなること』だったのでしょうね」
「ああ……」
老人も、雪娘にほほえみ返しました。
「私と仲良くなれて、うれしいかしら?」
「もちろんだとも。こうしてもう一度会えた事も、まるで奇跡のようだ」
老人はゆっくりと立ち上がると、座っている雪娘に近付いて、ゆっくりと手を差し出しました。
「……どうしたの?」
「また、あの時のように、君の手を握らせてはくれないか?」
彼の言葉に、雪娘はとまどいました。
「やめた方がいいわ。あなたはもうおじいさんよ。下手したら、本当に死んじゃうかもしれないわ」
「いや、それでも構わないんだよ」
雪娘の顔が、わずかにこわばりました。
それでも彼は、にこやかな笑みをうかべたままです。
「今度はもう決してはなさない。わしにはもう、思い残すことは何もないからな」
老人の言葉を聞いて、雪娘は彼が冗談を言っている訳では無いことをを悟りました。
「人生の最後に、君に再び会うことができて、本当に良かった」
「……私たち、折角仲良くなれて、もう一度会う事もできたのに、これで最後になっちゃうの?」
「二度と会えないと思っていた君に、再び会う事ができた。だが、わしに残された時間は君と違ってとても短い。だから、人生の終わりにはせめて仲良くなった君の存在を感じていたい」
雪娘には、老人の目があの時の少年のまっすぐな目と同じように見えました。
「君の思い出の中で生き続けられるのなら本望だ。最後のわがままを、聞いてくれんかね?」
雪娘はしばらく考えこんでいましたが、ゆっくりと立ち上がると、
「……分かったわ。仲良くなった人からの頼みだものね」
意を決したように老人の手を握りました。
老人は、その手をしっかりと両手で握り返します。
決してはなさない、と言った通り。
身体じゅうが寒さに包まれて、感覚が失われていきます。
それでも老人は、雪娘の手をしっかりとつかんだままでした。
「……ありがとう。君に会えて、良かった」
意識が遠のいていく中で、老人はそうつぶやき、笑顔を見せました。
それきり老人は動かなくなり、やがてその場に倒れこんでしまいました。
床にうつ伏せに倒れた老人の頭を両手で抱えて、雪娘は静かに語りかけます。
「あなたの事は決して忘れない。これからも、私はずっとあなたを想い続ける」
そう言うと、老人の額にそっと口づけをしました。
そして、老人をそっと床に横たえると、静かに家の外へと出ていきました。
家の外には、また雪がちらつき始めていました。
父親が家の中で死んでいる、との通報を受けて、警察がかけ付けました。
ただひたすら困り果てた様子の娘とその夫は、父は家の中で暖房もつけずに倒れていたと話しました。
警察も遺体をくわしく調べましたが、奇妙な事ばかりでした。
何かを握りしめていたかのような形の手には、よほど冷たいものにふれ続けたかのような跡があったり、額にも小さな凍傷があったりと、普通の遺体には見られない特徴ばかりでした。
そして、何よりも不思議だったのは、その遺体がとても満ち足りたような表情をうかべていた事でした。