16話 噂と現実
アストルム国王ウィルフリート・フォン・アーチェディア。
天使の寵愛篤く、世界的に高名な魔法使いの一人でもある陛下を守るのが俺に与えられた使命だった。
精鋭ぞろいと謳われる聖堂騎士団に属しているとはいえ、一介の騎士でしかない俺は陛下と直接言葉を交わしたことはない。
だが、その噂はヴェンディミアにいた時から耳にしていた。
謂れなき罪で陥れられた親友と悪魔に脅かされる民を救った聖人。
第七天使フェネアン様に寵愛されるほど清らかな魂を持った神の信徒。
国と民のために日々の祈りを欠かさず、身分の貴賎問わず救いの手を差し伸べる慈悲深き王。
噂は他にもあるが、内容は変わらない。陛下がいかに優しく純粋であるかを謳うものばかりだ。
アストルムで他の騎士たちと共に陛下の身辺警護に就いた後も、耳にする噂は変わらなかった。
正直、本当にそんな聖人君子みたいな人間がいるのか疑問だった。
確かに陛下は聖人という呼び名にふさわしく清廉かつ静謐なお姿をされているが、見た目と中身が必ずしも一致しているとは限らないし、印象操作はヴェンディミアの得意技だ。
教皇台下や聖女様同様、陛下も噂と違う側面を持つのだろうと予想はしていた。
していたんだが……。
「っ……」
「ヘルフリート様、ご安心を。
今の声は猫が鳴いただけですし、家具が揺れているのは仕掛けのせいです」
宝物庫の扉を開く鍵だという指輪を手に取ると、それを見計らったかのように猫の鳴き声が響いた。次いで、室内の家具ががたがたと揺れ出す。
声にならない悲鳴を漏らす陛下を宥めたのはこれで何度目だろうか。
初めに感じた神秘的で近寄りがたい印象はすでに崩れていた。
俺としてはこの方が親しみやすくていいんだが、当の陛下は気が休まらないに違いない。
仕掛けを熟知しているはずの陛下がさっきから驚いているのは、仕掛けよりも悪戯好きな猫が原因だ。
使用人の死体(本物かと思ったほど精巧だった)を見ても「なかなか出来がいいだろう」と言ってのけていた陛下が、猫の尻尾が首筋を掠めた途端に声を上げて驚いていたからな。
陛下の頭上を陣取っている猫をそっと見やると、黒猫が「みゃお」とどこか満足げな声を上げた。
飼い主を驚かせて楽しんでいるのだとしたら、相当性格が悪いな。この猫。
「ヘルフリート様、今のは猫が原因ですから」
少しでも落ち着かせようと思って陛下の腕を引くと、細い肩が一瞬びくりと震えた。
駄目だ。刺激に対して敏感になりすぎて、味方と敵の区別がついてない。
いくら怯えているとはいえ、陛下は世界有数の魔法使いだ。
さすがに見境なく魔法を乱発されることはないだろうが、ここは一度安全な場所で休ませよう。
万が一陛下が乱心されたら、聖堂騎士団の中ではもっとも魔法が得意だった俺でも止められない。
「どこか、仕掛けのない場所はありますか。そこで少し休みましょう」
もしかして俺は、陛下を守るのではなく陛下から国民を守るためにつけられた護衛なんじゃないのか。
そんな疑いを密かに抱きながら休憩を告げると、陛下は弱々しく頷いた。
今の自分が過敏になっている自覚はあるらしい。
陛下が自分の精神状態を把握できる方で本当に良かった。
さいわい、任務を達成するのに必要な当主の指輪は手に入れた。
館に入ってからまだ一時間も経っていないのだから、少しくらい休んでも視察に支障はないだろう。
休息場所として陛下が選んだのは三階の子供部屋だった。
室内には可愛らしいぬいぐるみや木馬など、子供が喜びそうなおもちゃが置かれている。
陛下曰くここには笑い声をあげる人形しかいないようだから、それさえ気にしなければ休息するにはちょうどいいかもしれない。
……壁や床に飛び散った血液や肉片(のようにみえるだけで、本当は違うのだろうが)さえなければ。
「これは……」
職業柄、血や臓物は見慣れている。そんな俺でもこの部屋の惨状には眉をひそめざるを得なかった。
正確には、この状況から想像できる部屋の主の末路に、だが。
恐らく、この部屋は仕掛けではなく視覚的に恐怖を煽るよう作られているのだろう。
俺が覚えたのは恐怖ではなく嫌悪だが、果たして陛下の精神は大丈夫なんだろうか。
「ここまでくれば、ひとまず安心だね」
不安に思って振り向くと、陛下は落ち着き払った様子で子供用の木馬に腰掛けていた。
……平気、なのか?
「君が脅かすおかげで、ずいぶん神経がすり減ったよ」
「みゃう」
「あの……恐れながら、ヘルフリート様」
頭を撫でられて嫌がる猫に苦笑している陛下に声を掛けるのは躊躇われたが、今までのことを考えると早めに確認しておいたほうがいいだろう。
もしかしたら、この部屋の惨状に気がついていないだけかもしれない。
そう思って言葉を掛けると、陛下は「どうしかしたのかい」と不思議そうに首を傾げた。
「君も休んだほうがいい。私の感情で振り回してしまって、すまなかったね」
「いえ、それが自分の職務ですから。
そうではなくその、この部屋はあまり……ヘルフリート様の精神によくないかと思われますが」
「何もないようだけど……ああ、別のこの血や肉片は本物ではないから大丈夫だよ」
室内の状況に気が付いていなかった場合に備えてあえて婉曲に表現した言葉はしかし、陛下には通じなかったようだった。
儚げな見た目とは裏腹に平然と言い切った陛下に驚き、それから納得する。
陛下の過去は有名だ。詳細は伏せられているが、その概要は知られている。
悪魔に義理の母親と弟を目の前で殺害され、妻と使用人を弄ばれ、事情を知らずに訪れた領民や救出に来た騎士達までが嬲られる様を見せつけられた。
常人なら発狂しているであろう試練を、陛下はその強靭な精神と神への信仰で乗り切ったのだという。
確かにそれなら、こんな作り物の血や肉片くらい見慣れているだろう。
それがいいことなのかはわからないが。
陛下に加護を授けた天使も、どうしてそんな試練を与えたのだろう。
神や天使は時に人には理解の出来ない試練を与えるというが、ちょっとやりすぎじゃないだろうか。
天使の理不尽さに思いを馳せていた時、辺りを見回していた陛下がふと口を開いた。
「この部屋は休憩所として最適だね。
二階と一階にも、ここと同じような部屋を用意しておこうかな……」
俺はこの部屋が館の中で一番怖いです。
そう言っていいのか分からずに黙っていると、陛下の方から「君はどう思う」と話を振ってきた。
「私の感覚だけでは偏ってしまうかもしれないからね。君にも意見を聞きたいんだ」
「それなら申し上げますが、この部屋が一番怖いです」
「……作り物の血と肉片があるだけなのに?」
それを言うなら、さっきから陛下が怯えていた仕掛けはただ家具が揺れるだけじゃないですか。
手を触れずに物を動かすことなんか容易に出来る魔法使いが、なにを驚いているんですか。
……とは、さすがに言えなかった。
相手は国王。それもフェネアン様の寵愛篤い聖人だ。
騎士とはいえ雇われている身だし、下手なことをいって陛下やフェネアン様の怒りを買いたくはない。
「でも、そうだね。血を見慣れていない人間からしてみれば、恐ろしく思えるかもしれない。
それなら、血も仕掛けもない謎解きだけがある部屋を各階に一つ作ることにしようかな」
「それがよろしいかと」
陛下が呟いた言葉を、態度こそ控えめながら渾身の気持ちを込めて肯定する。
館に入る前にみた限り、ここに挑戦する者の半分は一般人のようだった。
日頃こういったものを目にしない彼らにとって、この館は少し刺激が強すぎるだろう。
ちなみに、一般人のほとんどは男女二人組だった。
怖がる女性にいいところを見せたい欲求はどの国の男にもあるはずだから納得はいく。
男側に対して一瞬「情けない姿晒して愛想尽かされろ」なんて考えが過ぎったことは……後で神に懺悔しておこう。
普段ならこんなこと思わないが、婚約を破棄されたばかりの今はちょっと心が荒んでるんだ。
破棄といっても、政情の変化によって行われたきわめて事務的かつ円満なものだったが。
政略で結ばれた婚約とはいえ、相手の女性はわりと好きだったんだけどな。
ちなみに、向こうは新しい婚約者と上手くやっているようだった。
元婚約者としては複雑だが、俺個人としては彼女がしあわせそうでよかったと安心している。
俺はまだ決まってないけどな。子爵家の次男って立場が微妙で、なかなか決まりづらいらしい。
陛下の傍にいればそのうち、天使の加護で婚約者が決まったりしないかなあ……。
「では、検討してみるとしようか」
俺が肯定したことで、陛下も自分の考えに自信が持てたらしい。
空中に光の館内図を描いて、どこに部屋を配置しようかと悩んでいる。
……見たことのない魔法だが、少なくとも下級貴族家出身の魔法使いが使えるものじゃないよな。言った方がいいんだろうか。
「おや、誰か来たようだね」
幸いなことに、陛下もその魔法が他人に見られてはまずいと分かっていたらしい。
展開していた魔法を素早く消し去るのと同時に、部屋の扉がそろそろと開く。
警戒しながら姿を現したのは、腰に剣を下げた金髪の青年と焦げ茶色の髪を二つに結んだ魔術師らしき服装の少女だった。
その立ち振る舞いから、二人とも冒険者になって日が浅いのだろうと分かる。
「暗号によれば、ここに鍵が隠されてるみたいなんだけど……」
「怯えるなよ。お前は絶対に守ってやるから」
ああ、そりゃあなんとも心強いお言葉で。
思わず口をつきそうになった言葉が外に漏れることはなかった。
なんでかって、もちろん……。
「うわっ、なんだこの部屋。気味悪いな……」
「こ、この血……本物じゃないよね」
「国が作った迷宮なんだから、さすがに違うだろ。あれ、あそこになんかある」
「あっ、ちょっと待ってよユーリ……え?」
部屋の奥にいた俺たちに気づかず室内を探索する男を追ってきた女がこちらを向いた。
こぼれ落ちそうなほど大きな目が、俺と陛下を見て更に見開かれる。
「ひっ……」
血と臓物に塗れた薄暗い部屋と、その奥に佇む二つの人影。
ただでさえ怯えてる状態でそんなものを目にしたら、そりゃあ館中に響き渡るんじゃないかってくらいでかい悲鳴も上げるよなあ……。
+++++
「さっきは本当にすみません……まさか、もう人がいるなんて思わなくて」
「気にしないでいい。こっちこそ、声をかけるべきだった」
「ま、お互い様ってことにしとこうぜ。リーセが怖がりだって知っててついてきた俺も悪いし」
「怖がってなんかいないって、さっきから言ってるでしょ」
「物音がするたびにでかい悲鳴上げて俺にしがみついてきたくせに、何言ってんだか」
頬を膨らませる少女をつついて、青年が呆れた様子で笑った。
やはり、その反応は一般的に見て怖がりだと思われるんだね。
いや、私は抱き着いてはいないけれど……。
「俺はユーリ・キャンデラ。こっちは相棒のリーセ・フロローサだ。
見ての通り、冒険者やってる。まあ、まだ駆け出しだけどな。二人も冒険者か?」
「ああ」
ユーリと名乗った青年の問いかけに騎士は言葉少なに頷いた。
一応設定は決めてあるけれど、話しすぎてぼろが出たらまずいからね。
幸い、それ以上踏み込まれる気配はなかった。彼ら同様にお忍びの身だと察してくれたのだろう。
「そっか。ちなみに二人とも、どこまで進んだ?」
「任務の半分位ってところだな」
「じゃ、進み具合は大体同じか。お互い、頑張ろうな」
屈託のない笑みを浮かべた青年が、騎士の肩を強く叩いた。彼、少し君に似ているね。
明るい性格もそうだし、体格も。腰に剣を下げているから、君と同じく剣が得意なのかな。
もし不死鳥から魔法薬の作り方を教わっていなかったら、彼の腕を貰うことも考えたかもしれない。
「ところで、二人は後の二つの迷宮に挑戦するのか?」
私が青年を見つめている理由を迷宮の感想を聞きたいためだと考えたらしい。
騎士が一瞬こちらを見た後、さりげなく問いかけてくれた。
「そうだな。最初はどんなもんかと思ったけど、なかなか面白かったし。
あと、俺とリーセはまだあんまり迷宮って奴に挑んだことがなくてさ。
ここ、魔物がでないのと謎解きがやたら多いこと以外は本物の迷宮を参考にして作ってるって聞いたから、予行練習にもなるかと思って」
なるほど、そういう目的で挑む人もいるわけか。
私としては全く想定していなかった理由だったけれど、いいことを聞いた。
もしこの計画が上手くいったら、今度は経験の浅い冒険者向けに予行練習用の迷宮を作ることを提案してみようかな。
冒険者向けの迷宮なら多少人が行方不明になっても怪しまれないだろうから、屋敷にいたころのように直接追い込むことが出来る。
ただ、以前の反応からしてアストルムが主導で迷宮を作成することは渋られるだろうね。
提案するとしたら、運営は冒険者ギルドに任せると言ったほうがいいかもしれない。
その場合、私はどうやって関わろうかな……まあ、それはその時考えよう。
「行きましょう、ヘルフリート様」
次の迷宮について考えている間に、話はいつの間にか終わっていたようだった。
この部屋を探索するという彼らと別れの挨拶を交わした騎士に促されて、部屋を出る。
それにしても……。
「よく、あれだけ短時間の間に親しくなれるね」
「あの程度の話を聞き出すくらいでしたら、誰でも出来るかと……あ、いえ。ヘルフリート様がどうということではなくてその……」
いや、いいんだ。君以外の人と話すことが苦手なのは、自分でもよく分かっているから。
……今後、迷宮の感想を尋ねる役は彼にやって貰おうかな……。
少々気まずくなりつつ二階へ降りると、最初に訪れた時と違って人の気配が伺えるようになっていた。
暗号を解いて階段を見つけた者が増えてきたのだろう。
二階の部屋を探索する者、三階へ上るために暗号を探す者、興味深げに館の内装を観察している者とその行動は様々だ。
任務を達成したらもう一度ここへ戻ってきて、彼らの様子を伺うとしよう。




