8話 カップル誕生
ようやく開かれた門の先にあったのは、美しく整えられた白薔薇の生け垣とアーチだった。入り組んだ道の先は霧が立ちこめているせいでよく見えない。
遠くにうっすらと建物らしき影が見えるけど、あれが領主様のお屋敷なのかな。
不思議なことに、恐ろしさは湧いてこなかった。
濃い霧と白薔薇の組み合わせがあまりに幻想的で、絵画のようだったからかもしれない。
領主様が優秀な魔法使いだと知っていたこともあって、立ちこめる霧にもひとりでに開いた門にもなんの疑問も抱かなかった。
門の内側に足を踏み入れた途端、視界がさっと晴れた。
きっと、外から屋敷の様子がうかがえないようにしてあったんだと思う。
「すごい……」
目の前に広がる景色に、僕もベルタもすっかり魅入ってしまっていた。
僕らが暮らす通りにある家々が丸ごと収まってしまいそうなほど広い庭園と、それを彩る美しい花々。
まるで絵画のように美しい風景に、油断していたんだ。
危険が潜むのは見るからに怪しかったり恐ろしかったりする場所ばかりじゃないって、知っていたはずなのに。
門が閉じる微かな音が耳に届く。
それに反応するよりも前に、領主様の声が耳に届いた。
「ようこそ、伯爵家へ。
私に用があるのなら、屋敷までおいで。無事に到着できたら、君たちの話を聞いてあげよう」
「無事に、って……」
ベルタと顔を見合わせて、それから薔薇の生け垣の向こうにある屋敷を眺める。
確かに、この庭園を横切っていけばそこそこの時間はかかるだろう。
でも、それだけだ。普通ならちょっとした散歩程度の距離でしかないはず。
「……気をつけましょう。何か罠を仕掛けてるかもしれない」
「うん、そうだね」
ベルタの言葉に頷いて、腰に下げた短剣に触れる。
わざわざ「無事に」なんてつけるくらいだ。なにか細工がしてあったとしてもおかしくないけど、ずっとここに突っ立っているわけにもいかない。
僕とベルタは、意を決して薔薇のアーチをくぐった。
「これ、もしかして迷路……?」
「そう、みたいだね」
何気なく進んだ道が実は複雑に入り組んでいることに気がついたのは、歩き始めてすぐだった。
少し歩いただけで分かれ道に当たるし、どこを見渡しても白い薔薇ばかりで自分が今どこにいるのか、どこを向いているのかさえ分からなくなりそうだ。
こんなことなら目印をつけておけばよかった、と悔やむ僕に、ベルタが「イザークってば、昔も今も抜けてるんだから」と呆れたように笑う。
「心配はいらないわ。入る前になんだか嫌な予感がして、入口からここまで光の糸を繋いでおいたの。
帰りはこれを辿っていけば、迷わず帰れるはずよ」
「よかった。さすがはベルタ! いつも準備がいいよね」
「イザークが抜けてるのよ」
そう言いながらも、ベルタはどこか得意げだった。
彼女の勘は、割とよく当たる。もちろんはずれることもあるけど「何か嫌な予感がする」と彼女が言った時、ひとまずその言葉に従ってみようと思えるくらいには高い的中率があった。
精霊の力を借りて魔術を発動させる関係上、魔術師は目に見えないものに敏感になりやすい。
だからベルタも、僕よりも先にいろんな事に気がつきやすいのかもしれない。
帰り道が確保してあることに安堵した僕らは、更に先へ進むことにした。
高い生け垣に囲まれた迷路からでも、領主様の屋敷はよく見える。
そっちの方に進めば、そのうちたどり着けるだろう。
問題は、さっきの領主様の「無事にたどり着けたら」という言葉だった。
今のところはなんともないけど、だからといって安心はできない。
常に緊張しながら進むのは疲れるけど、気を抜くわけにはいかなかった。
緩みかけている気を張り直して、用心深く周囲を見渡しながら先へと進む。
視界の端に人影が映ったのは、次第に注意が散漫になってきた頃だった。
もう何度目かも覚えていない分かれ道を右に進もうとした瞬間、左の生け垣がガサリと揺れる。
とっさに振り返った僕の目に飛び込んできたのは、黒い服を着た小柄な人影だった。
「待て!」
影が僕らと同じ立場にしろ、対立する立場にしろ、聞きたいことはたくさんある。
だけど、影のあとを追って左の道を曲がった僕らを待ち構えていたのは、それまで進んできた道となんら代わり映えのない静かな風景だった。
隠れられそうな場所はないし、人の姿どころか気配すらどこにも感じられない。
「……きっと、見間違いよ。
風で植物が揺れた音にびっくりして、勘違いしちゃったんじゃない?」
「そう、だね……」
ベルタの冷静な声に表向きは同意しつつ、僕は未だに納得できないでいた。
だって、僕は見たのに。
でも、それならどうやって消えたのかと聞かれるとさっぱり分からない。
だから、ひとまずはベルタの言うとおりだと思うことにした。
それから、同じことが何度も続いた。
影が現れるのは決まって気が緩み始めた頃だ。まるで狙い済ましたかのようなタイミングに、僕もベルタも段々と疲弊していった。
なにせ、気の休まる時がない。
ずっと緊張していたならまだよかったかもしれないけど、影が現れるまでは本当になにもないからどうしたって気は緩んでくる。
一度緩んだものを一気に張らされるのはなかなか辛いものがあった。
これだけ長いこと進んでいるというのに一向に屋敷にたどり着かないというのも、疲れの原因だった。
屋敷は見えるし、進んだ分だけしっかりと近づいたようには見える。それなのに、この迷路が終わる気配は一向にない。
あともう少し。あともう少し。
そんな期待を抱いては裏切られての繰り返しだった。
一体、いつになったらたどり着けるんだろう。
「……ベルタ。一回、戻らない?」
「ええ……そうね……」
そう提案したのは、日もすっかり暮れかけてきた頃だった。
ここで夜を迎えるなんて、たまったものじゃない。団長のことは心配だけど、まずは自分とベルタの身の安全が優先だ。
そう考えたのは僕だけじゃないみたいで、普段は負けず嫌いなベルタもこの時ばかりは頷いてくれた。
ベルタが繋いだ光の糸は薄暗い中でもぼんやりと光っていたから、辿るのは簡単だった。
進んできた時よりも早い速度で帰り道を進む。
結構な距離を進んできたけど、この調子なら完全に日が暮れる前に入口に戻れるだろう。
そう考えていた時、ベルタが止まった。
「……うそ……」
「ベルタ? どうしたの」
心なしか震えているベルタの声を不思議に思いながら、彼女の手元をのぞき込む。
彼女の右手には、光の糸の片端とこれまでたぐり寄せてきた糸の塊。
そして左手には、入口に向かって伸びた糸がある……はずだった。
彼女の右手には、光の糸の片端とこれまでたぐり寄せてきた糸の塊。
そして左手には……力なく垂れ下がる糸の端があった。
それが何を指すのか、疲れた頭で理解するには少し時間がかかった。
僕よりも頭のいいベルタには、ずっと早くこの意味が分かっていたのだろう。
「うそよ」と何度も呟く。
「だって、この糸はわたしが魔術で出したのよ! 絶対に切れないし、燃えないはずなのに。
なんで、なんでよ。どうして……」
「べ、ベルタ。落ち着いて。
大丈夫だよ。ほら、周りは植物だ。切るか燃やすかすれば、すぐに戻れるって」
今までは領主様の持ち物を破壊するなんて恐ろしくてできなかったけど、これは緊急事態だ。
あとでどんな罰を受けようと、知ったことじゃない。今の僕には、自分とベルタの命の方が大切なんだ。
動揺が収まらない様子のベルタから離れて、腰に差していた短剣を引き抜く。
エテールで一番腕のいい鍛冶屋に作ってもらったこの短剣は、僕のよき相棒だ。
こいつで切れなかったものは今まで一つもない。植物くらい、簡単に切れるだろう。
その考えはあっさりと打ち砕かれた。
「え……な、なんで……いや、もう一度!」
何度切りつけても、生け垣どころか葉の一つすら落とせない。
途中からベルタが火の魔術で生け垣を燃やそうとしてくれたけど、白薔薇も木々もみずみずしいままだった。
これは単なる花じゃない。
その考えに至った僕たちに感づいたように、生け垣の花が風もないのに小さく揺れた。
一本の蔓が、僕らに向けて伸ばされる。
「逃げよう、ベルタ!」
立ちすくんでいるベルタの手を掴んで、僕は急いで走り出した。
そんな僕を嘲笑うように、仄かな月明かりに照らされた白薔薇が揺れる。
どこからか聞こえてくる笑い声が、こちらを正確につけてくる足音が、木々のさざめきや葉のこすれる音が、地面に映る自分の影が。
なにもかもが怖くて、立ち止まる余裕なんてなかった。
突き当たりの部屋に逃げ込んだ時、僕の体力はもう限界だった。
僕ですらそうなんだから、女の子で普段から力仕事をしないベルタはもっと辛いだろう。
呼吸を整えたあと、ベルタの方を振り向く。
その時、荒い呼吸を繰り返すベルタの後ろで、僕たちが通ってきた道が薔薇に覆われていくのが見えた。
慌てて引き返そうとしたけど、もう一歩も動けない。
完全に閉じ込められたと悟ったのは、それほど遅くはなかった。
なにも言えない。言うだけの気力がない。
僕とベルタの呼吸音だけが辺りに響く。
『まだ迷路を抜けられていないようだね』
領主様の声が響いたのは、その時だった。
どこからともなく聞こえてくるその声は先ほどと全く変わらなかったけど、変わらないことがかえって恐ろしい。
せめてベルタだけは守ろうと、彼女の手を強く握りしめて空を仰いだ。
『私はもう待ちくたびれてしまったよ。
そこで、君たちに迎えを寄越そう』
「迎え?」
本来なら嬉しい申し出だけど、素直に喜ぶことはできなかった。
絶対に、なにか裏がある。
『そう。けれど、先ほども言ったように私は疲れてしまった。
話を聞くだけなら、一人でも十分だろう』
それはつまり、僕かベルタの一人だけがここから出られるということだろうか。
だとしたら、僕は……。
『選ぶといい。ただし、早めにね。相談しても構わないよ』
「相談なんか必要ない」
僕の答えは、もう決まってた。
「ベルタ。君が行って」
「本気なの? イザーク」
「うん。ずっと前から、君のことが好きだったんだ。
本当は、もっとロマンチックなところで言いたかったんだけど……」
昔からベルタに助けられてばかりの僕だけど、こんな時くらいは格好つけたい。
そういうと、ベルタの白い頬が真っ赤に染まった。
「わ、わたし……ぜったいにイザークを助けに来るわ。
それまで、死なないでね」
「もちろん。約束する」
『決まったようだね。
自分の命よりも優先するなんて、よほど彼女が大切なようだ』
「当たり前だ。ベルタは……僕にとって、なによりも大切な人なんだから」
そう言った途端、繋いでいた手がぎゅっと握られた。
柔らかくて暖かなベルタの手を感じられるのも、これで最後かもしれない。
離れがたいけど、そろそろ放さないと……。
『ああ、分かったよ。ご協力ありがとう』
領主様の言葉が耳に届いた瞬間。
ベルタの身体に無数の茨が巻き付いた。