15話 死神の決意は固いが衝撃には脆い
「待たせたね」
しばらく待っていると、伯爵が戻ってきた。
腕に抱えているのは葡萄酒ではなく、琥珀色の蒸留酒が詰まった小瓶のようだ。
「君なら、これが好きそうだと思って」
「どういう偏見だ」
返した声は震えていなかっただろうか。笑みは引きつっていなかっただろうか。
不安な私をよそに、伯爵は鼻歌交じりで酒の栓を開けた。
濃い色の蒸留酒が、丸みを帯びた足のないグラスに注がれる。
質がいいものなのか、グラスに注がれた液体からは濃厚な林檎と心地よい樽の香りがふわりと香った。
こんな状況でなかったら、きっと楽しめただろう。
「では、屋敷に戻れたことを祝って」
君の口に合うといいのだけど、と言われて口をつけると、喉を焼くような強い酒の味が口に広がった。
普段なら心地よいはずのそれが今日ばかりは責められているように思えて、一気に酒を煽る。
上質な蒸留酒を一度に飲み干されるとは思っていなかったのか、伯爵は驚いたように私を見て、それから「口に合わなかったかい?」と心配そうに尋ねてきた。
「いや……うまい」
「それならよかった。たくさんあるから、好きなだけ楽しんでおくれ。
ああ、そうだ。預かってもらっていたエミールの首と魂を返して貰っていいかな」
「ああ」
伯爵がヴェンディミアにいる間は監視が厳しく、普段のようにエミール・モルゲンロートを持ち歩くわけにはいかなかった(例え監視が厳しくなくともどうかと思うが……)為、私がそれらを管理していた。
だが、今となってはその必要も無い。
「やっと君と自由に話が出来るね」
言われたとおりにエミール・モルゲンロートの首と魂を渡すと、伯爵はとても喜んでいた。
ヴェンディミアにいた頃も、十分自由だったと思うが。
「あの国で私が正気を保てたのは、レーベンがエミールと定期的に触れあわせてくれたおかげだよ。
ありがとう」
ずいぶん大げさな言葉だと思うが、伯爵の普段の様子からして冗談などではないのだろう。
ヴェンディミアにいる間は思うようにローザに会えず苛立つことが多かったから、その気持ちは多少理解できる。
抱きかかえたエミールを撫でながら「もうすぐ話せるからね」と上機嫌に酒を楽しむ伯爵を見る度に湧き上がる微かな痛みを無視して、二杯目の酒を口に運んだ。
それから私は、酒を飲みながらその時を待った。
長旅の疲れと酔いによって、伯爵の警戒が緩むその瞬間を。
伯爵の魔力の高さはこれまでの付き合いで十分に知っている。
無論、それは人間としてであって死神の長である私とは比べ物にならない。押さえ込むのは容易だ。
だが、出来ればあまり手荒な真似はしたくない。
それは伯爵のためではなく、私自身の保身のためだった。
トレーラントは認めないだろうが、あの悪魔は伯爵を相当気に入っている。
もし私が伯爵を不用意に傷つければ「大切な道具を壊したから」と報復されかねない。
私とトレーラントの力は、恐らくほぼ互角だ。
返り討ちにする自信はある。いくら才があろうとも、トレーラントはまだ若い。
死神は戦いに向かない種族だが、私はあの悪魔の十倍以上生きている。戦闘経験は私の方が豊富だ。
だが、あまり事を荒立てれば他の悪魔達に目をつけられる恐れがある。
穏便に済ませられる方法があるのなら、その方がいい。
それだけの判断力は残っていた。
やがて、酔いが回ってきたのだろう。
マイペースに杯を重ねていた伯爵が、眠たげな瞬きを繰り返し始めた。
しばらく何かを考えた後、まだ酒が残っているグラスをテーブルに置いて危なげに立ち上がる。
どうやら、もう眠るようだ。
「明日に備えて、私はそろそろ眠るよ。レーベンは……?」
「私も、眠るとしよう。
……待て。その足取りでは、いつ倒れるか分からない。
部屋まで連れて行く。どこだ?」
「うん……三階の、一番奥」
少々強引にその腕を掴むと、伯爵は少し驚いたように私を見上げたあとで柔らかく微笑んだ。
そこに警戒心のかけらもないことを確認して、胸を撫で下ろす。
言われたとおり伯爵の自室まで連れて行くと、伯爵は少々心もとない足取りでベッドに横たわった。
服を着替えさせることはしなかった。
それだけの余裕は肉体的にも精神的にもなかったし、それは私の役割ではない。
最後まで大切に抱きかかえていたエミール・モルゲンロートを取り上げるのは苦労したが「このままでは潰れるぞ」と言えばあっさりと手放してくれた。
全く。子供じゃないんだぞ。
「おやすみ……」
「ああ……おやすみ」
青みがかった紫の目が閉じられたことを確認して、魔法を発動させた。
その途端、部屋一面が眠りの霧に包まれる。
対象を深い眠りに落とす魔法だ。これで、私が何をしたところで伯爵は朝まで目覚めないだろう。
そう、どんなことをしても。
刺繍や装飾が施された上着を伯爵から脱がせ、その懐を探る。
少しして、目当てのものが見つかった。
銅色の錘に白銀の針。昼に見せられたものと全く同じものだ。
天使と取引をして手に入れたのだという伯爵の話を裏付けるかのように、僅かだが天使の残存魔力が感じ取れる。
これがあれば、私はローザを蘇らせる事が出来る。
再び彼女の笑みを見ることが出来る。
卑怯な手を使って蘇らせたところで、ローザに顔を合わせられるのか?
最後の良心が私に問いかけたが、私はそれを振り払った。
私は既に一族を裏切り、トレーラントに力を貸している。
今更裏切りが一つ増えたところで、変わるまい。
ベッドの近くに置かれたソファに上着を掛け、転移魔法を発動させた。
向かうは、彼女が待つ城の中――。
「人が寝ている間に、それはないんじゃないかな」
行き先を思い描き、いざ転移魔法を発動しようとした瞬間、強い魔力がそれを拒んだ。
そんなことが出来るのは、この部屋で一人しかいない。
武器である大鎌をいつでも出現させられるように構えながら、そちらを振り向く。
「君の様子がおかしいと気づいたとき、とっさに魔法障壁を張って正解だったよ。
出来ればよい気分のまま眠りたかったのだけどね。
返してくれないかな、レーベン。冗談にしては度が過ぎるよ」
「伯爵は、これを冗談だと思えるのか」
私の言葉に、伯爵は怒ることも笑うこともしなかった。
ただ淡々とした様子で首を横に振っただけだ。
「私は……これが欲しい」
「欲しいから奪う。それは子供のすることだよ」
聞き分けのない子供を諭すような伯爵の声は、普段とまるで逆だった。
ベッドからゆっくりとした動作で起き上がり、こちらへ歩み寄る。
私は、その場から動くことも魔法を発動させることも、大鎌を呼び出すことも出来なかった。
伯爵が恐ろしかったわけではないし、逃げられなかったわけでもない。
先ほどは予想していなかったから転移を防がれただけで、覚悟が出来ている今なら発動は可能だ。
そうでなくとも傍にある窓から身を投げ、空を飛んで逃げればいい。
だが、私の身体は凍り付いたようにその場に留まりつづけた。
何をしている、早く動け。
そんな声が微かに湧き上がるが、それよりも私は動きたくなかった。
やがて、伯爵が私の前で立ち止まった。
「返してくれ、レーベン」
「……悪いが、返せない」
渇ききった口が何とかそれだけ紡いだ。伯爵が悲しげに目を伏せる。
瞬間、世界が反転した。背中に強い痛みを感じて、思わず咳き込む。
足を払われたのだと分かったのは、起き上がろうとした身体を強い力で押さえつけられた後だった。
私と伯爵では私の方が背は高いが、腕力は人間である伯爵に分がある。
その上、この体勢だ。このままでは、取り返される。
その時、伯爵の身体がぐらりと揺れた。恐らく、眠りの霧が効いてきたのだろう。
あの霧は見えなくなった後もしばらく効果が残り続ける。
恐らく伯爵は霧が晴れたからと魔法障壁を解いたのだろうが、仇になったな。
「エミール……」
微かな呟きと共に、力の抜けた手が私の右腕に縋った。
これを振り払うことは、例え非力な私でも容易に可能だ。
さっさと伯爵の身体を押しのけて転移魔法を発動させ、ローザの元へこの糸と針を持っていけば私の目的は完遂する。
そうなれば、私は今度こそ彼女と共に過ごすことが出来る。
もう、死神としての誇りをこれ以上穢すことはない。
一族を裏切らずに済む。幼い悪魔の指示に従う必要も無い。
親しくもない人間の世話に明け暮れて、自分の時間と神経をすり減らすこともなくなる。
その時、伯爵の青みがかった紫の瞳がぼんやりと私を見つめた。
抗えない眠気に襲われているせいか瞳にいつもの光はなく、うっすらと霧がかった色をしている。
夢見るようなその色が彼女に似ていると一瞬でも思ってしまったのは、きっと私の精神が弱いせいだ。
――逃げよう。
徐々に大きくなりつつある「止めた方がいい」という心の声をねじ伏せて、そう呟いた。
実際に声に出さなければ、いつまでもこのままでいてしまいそうだった。
捕まれている腕を放させようと、その手に触れる。
その時、右腕に強い衝撃を受けた。
続いて、焼けるような痛みが伯爵に捕まれている辺りを中心に広がっていく。
何が起きた。
とっさに状況を確認しようとしたが、未だ私の腕を掴み続ける伯爵によってそれは叶わなかった。
渾身の力を込めても一向に離れる気配のないほど強い力だ。
いくら私の力が弱いからといって、眠りかけの人間一人引き離せないとは思わなかった。
……いや、違う。抵抗されているわけではない。
それに気がついたのは、私の腕を濡らす液体が私の血液だけではないと気がついたためだった。
伯爵はただ、離れられないだけだ。
私の腕には、巨大な氷の柱が突き刺さっていた。
利き腕を封じられたこの状態では、氷を抜くことは不可能だろう。
だが、転移魔法が使えればこの場から逃れることも出来るはずだった。
それが出来ないのは、氷が貫いて床に縫い止めているのが私だけではないからだ。
氷は、私の上にいる伯爵の手のひらごと貫いていた。
私が発動させたわけでない以上、この魔法を使ったのは伯爵のはずだ。
繊細な魔力操作が得意な伯爵が自身の右手ごと私の腕を貫いたのは、転移魔法を封じるためだろう。
転移魔法は、発動させる際に術者に触れていたものも対象とする性質がある。
もし私が転移を発動させれば、間違いなく伯爵も彼女の元へ運んでしまうはずだ。
彼女の傍で戦闘を繰り広げるつもりも……私の醜い面を見せるつもりも、無い。
私が逃亡を諦めたのを悟ったのだろう。
「ごめんね」と囁くような、それでいて楽しげな声が私の耳に吹き込まれた。
「私も君も、滅多なことでは死なないから」
そういって、伯爵はまるで痛みなど感じていないかのように笑い続けていた。
大量に血を失ったせいで襲い来る眠気にあらがえず、目を閉じる。
その瞬間、彼女を蘇らせる手がかりを得られなかったことへの落胆と共に微かな安堵のようなものが胸を過ぎったのは、気のせいだっただろうか。




