20話 夢は現、現は夢
『ウィル』
懐かしい声に振り返ると、そこには君の姿があった。
夜明け空を思わせるような濃い青色の瞳が私を見て微笑む。
ああ、なんて素晴らしい夢なのだろうね。
『久しぶりだな、ウィル』
「そうだね」
『もっとこっちに来てくれないか。近くで話そう』
その言葉を拒む理由などなかった。
言われるがままに足を動かして、そちらへ近づく。
当たり前だけど、君の姿は少しも変わらなかった。
優しい声も、穏やかな笑みも、芯の強さを表す瞳も、私が知る君そのものだ。
まあ、ここは私の夢だからね。私の知っている姿が出てきて当然か。
そこまで考えて、足を止めた。
突然立ち止まった私を不審に思ったのか首を傾げる君を見据えて、口を開く。
「それで、君は誰なのかな」
『……ウィル?』
不思議そうに私の名前を呼ぶ声は、本当に君そっくりだった。
でも、君でないことは確かだ。魔力が感じられるからね。
「エミール、君は貴族ではないだろう。魔力を感じるのはおかしいよ」
『ばれたか。このほうが話しやすいと思ったんだけどな』
君の姿をした何かは楽しそうに笑い、次の瞬間姿を消した。
代わりに、見知らぬ女性が姿を現す。
淡い桃色の瞳を持った、美しい女性だった。
少女のようにも妙齢な女性のようにも見える彼女とは初対面のはずなのだけど、こちらを見つめる瞳にはなぜか親しみと慈しみが籠っている。
いくら私でも、人間ではまず見かけない紫の巻き毛や桃色の瞳は一度見たらそう簡単には忘れないと思うのだけど……。
「わたくしは夢魔の女王。あなたが思っている通り、会うのはこれが初めてよ。
もっとも、わたくしはあなたのことをよく知っているわ。だから、あなたに会うのが楽しみだったの」
「私よりも他の人間のもとへ行ったほうが、楽しい時間を過ごせると思うよ」
私の言葉を聞くと、女王はまるで鈴を転がすような声で笑った。
細い指先が、私の喉元をそっと撫で上げる。
「あなたの契約者から、治療を頼まれたの。
あれほど悪魔以外の種族を見下していたというのに、いったいどんな風の吹き回しなのかしら」
「ああ……私は、なかなか使い勝手のいい道具のようだからね」
どうやら、私の目を通して状況を見ていたトレーラントが治療のために彼女を送ってくれたらしい。
悪魔の痕跡を残さないためにこんな遠回しな手段を取ったのだろうけど、大丈夫なのかな。
私の身体に夢魔の魔力が染みついていたら、それはそれで問題になりそうな気がするけれど……。
「夢はあくまで夢。わたくしの痕跡など、ほとんど残らないわ」
考えていることが伝わっただろう。女王は桃色の瞳を微かに細め、慈しむように笑った。
現実で接触したのなら痕跡は残るけれど、ただ夢で接触しただけなら痕跡が残ることはないらしい。
もっとも、ただ夢の中で会って終わり、なんてことは夢魔の特性上あまりないみたいだけどね。
あまり詳しくなかった夢魔の生態を聞いて感心していると、女王がそっと私に寄り添った。
たおやかな腕が私の背に回され、暖かな体温と規則正しい鼓動が伝わってくる。
そこから予想出来る展開に思わず身体を引こうとした私の耳元に「大丈夫よ。安心して」と穏やかな声が吹き込まれた。
「夢魔は他種族を脅かす種族ではないわ。
心地よい思いをしてもらって、その対価としてほんの少し精力をもらうだけ。
相手が望まないことは決して行なわないの。それが自由な夢魔の数少ない掟であり、矜持なのよ」
彼女の言葉に従ってそのまま腕に抱かれ続けていると、私の中に溜まっていた何かが次第に女王のほうへ移っていくのが分かった。
それと同時に、身体がだんだん楽になっていく。
気がつかなかっただけで、どうやら私は夢の中でも具合が悪かったようだ。
「……さあ。これで淀んだ精力は全て吸い取ったわ。
起きてしばらくは力が入らないかもしれないけれど、食事をして少し休めば回復するはずよ」
そう言って女王が離れた頃には、私の身体はすっかり軽くなっていた。
よかった。これできっと浄化が完了したことになるだろう。
彼女とトレーラントには感謝しないといけないね。
私の言葉に、女王がくすりと笑う。
「その必要はないわ。これも契約のうちだもの」
「契約?」
ということは、彼女も私と同じ立場なのかな。
「ええ。他の契約者たちの世話をする代わり、わたくしは彼らを好きに扱える。
それが、わたくしとトレーラントとの契約なの」
ああ、なるほど。
今まで私が契約に誘ったり捧げたりした人間たちはどこにいるのだろうと思っていたけれど、どうやら彼女が世話をしていたらしい。
夢魔は相手が望む姿になって夢に入り込み、誘惑する種族とされている。
人間の生態には詳しいだろうし、その扱いにもきっと長けているはずだ。
少なくとも、トレーラントが人間たちの世話を焼いている姿よりはよほど想像出来る。
彼は思いのほか料理が得意だし、人間の生態にも詳しいから世話を出来ないことはないはずなのだけど、どうもイメージがね。
トレーラントが知ったら、きっと鼻で笑われるだろうから言わないけれど。
……そういえば、彼女は契約者たちを自由に扱えると言っていたけどそれは私も対象なのかな。
「あなたには、これ以上何もしないわ」
一瞬過ぎった疑問は、女王にとっても想定内のものだったらしい。
私がそれを思い浮かべたことを見計らったかのように言葉が重ねられた。
「トレーラントはね、お気に入りに手を出されるのが嫌いなのよ。
いくら女王とはいえ夢魔と悪魔では力の差は歴然。あなたの魔力は魅力的だけど、トレーラントの怒りに触れて消されるのは避けたいもの。
……もちろん、あなたが望むのなら話は別よ。どうかしら? 夢魔の女王に、興味はある?」
「遠慮しておくよ。私には妻がいるからね」
アストルムでは双方の同意と教会の許可がなければ離縁は認められていない。
つまり、私はまだ既婚者だ。妻を裏切るのは、あまりいい気分ではない。
男性の、それも貴族の浮気が咎められることは少ないけれど、こればかりは気分の問題だった。
「あら、すてきな考えね。少し変わっているけれど、わたくしは好きよ」
ただ、夢魔は異性を誘惑する種族として有名だ。
彼女の誘いを拒絶したことで気を悪くさせてしまったかと思ったけれど、女王は怒るどころかむしろ楽しげに笑うばかりだった。
助けてくれた相手の気分を害したわけでなくて、よかったよ。
ほっと胸を撫でおろした時、急に辺りが明るくなった。
それに気がついた女王が声を上げる。
「そろそろ、あなたの目覚めが近いようね。
わたくしはもう行くわ。さようなら、アーチェディア伯爵。
どうか、よい現実を」
「ありがとう。トレーラントにも、そう伝えてもらえるかな」
私の言葉に女王が微笑むのと同時に、辺りが眩いほど明るくなった。
足下の地面がなくなったような浮遊感に襲われて、目が覚める。
「アーチェディア伯爵!」
「…………ああ」
真っ先に飛び込んできたのは、不安げなカンネリーノとその後ろに見える見知らぬ天井だった。
どうやら、目が覚めたらしい。
夢の中で女王が言っていた通り、あれほど重かった身体は驚くほど軽くなっていた。
頭も痛まないし、奇妙な寒さも感じない。体調はすっかりよくなったようだ。
「これで、アーチェディア伯爵の身体は完全に清められました。
もう悪魔に怯える心配はないでしょう」
「この幸運は全て、神の慈悲によるもの。その寛大さに感謝することですな」
たぶん、トレーラントと夢魔の女王が助けてくれたおかげだと思うな。
好き勝手なことを言う神官たちに頷きながら、心の中で小さく呟く。
まあ、そんなことを口走ってまた洗礼を受けさせられるのもごめんだから言わなかったけどね。
「お疲れのところ、申し訳ないのですが」
その時、カンネリーノが私の耳元で小さく囁いた。
いったい、どうしたというのだろう。
「アーチェディア伯爵にはこれから、ヴェンディミアで審問を受けていただきます」
「審問?」
思わず声を上げた私に頷き、彼は更に言葉を続けた。
その強張った表情から察するに、あまりいい話ではなさそうだ。
「枢機卿の方々と台下が、伯爵に詳しく話を聞きたいとのことです」
「どのような話でしょう」
「アーチェディア伯爵の館から押収された黒魔術に関する本。それから……」
言い淀む彼を促して先を尋ねると、カンネリーノはようやくその先を続けた。
「十年前に伯爵が起こされた事件について、だそうです」
ああ、やはり見逃されなかったようだね。私が母と弟を殺したあの事件。
それに本も、厳重に隠していたはずなのに見つけ出すのがずいぶん早い。
さすがはヴェンディミアといったところだろうか。
知られてしまったものは仕方がない。大人しく、聞かれるがまま素直に答えるとしよう。
真実をね。




