18話 伯爵は憐れな弱者を演じるが演じなくとも割と簡単に憐れまれる
……そんなことがあったおかげで、エテールや屋敷には当分帰れないそうだ。
寂しいけれど、それがヴェンディミアの意向なら仕方がない。
少しでも早く身の潔白を証明して屋敷に戻れるよう、教皇侍従である彼の指示に従おう。
私の身に染みついた悪魔の影響力が人々に移らないよう、ヴェンディミアまでは馬車の中で寝泊まりをすると言っていた。外で寝泊まりをするのは初めてだけど、よく眠れるだろうか。
心配だから、今日は早く休もうと思う。
……それから明日、誰かにこっそりと私を助けてくれた教皇侍従の名前を聞いておこう。
いろんなことがありすぎて、すっかり忘れてしまったから……。
「……これでいいかな」
日記をもう一度丹念に見直し、表紙を閉じる。
これで私と視界を共有している彼に状況が伝わったはずだ。
トレーラントが私と視界を共有してくれて助かったよ。
いくら彼が魔力を隠すことに長けていたとしても、ここには悪魔の魔力に敏感な神官が大勢いる。
私の立場も決してよくはないから、ほんの僅かでも疑われることは避けたい。
日記を書くだけなら「長年の習慣」と言っておけば怪しまれることはないし、彼らも表だって止めたりはしない。
中身を確認される可能性は高いから、めったなことは書けないけどね。
でも、私と違って勘のいいトレーラントなら、こんな遠回しの文章でも理解してくれるはずだ。
それにしても、上手くいくものだね。
状況的に信用してもらえるか不安だったけれど、教皇侍従を始めとしたあの場にいた聖職者の多くは私を信じてくれた。
怯える演技、なかなか上手かったと思わないかい?
母や使用人たちにされたことと当時の気持ちを思い出して再現したからね。真に迫っているのも当然だ。
それに、悪魔を演じたあのゴーレムもよく出来ていただろう。
まるで悪魔がその場から立ち去ったように見せかけるのは、苦労したんだよ。
あのゴーレムは外見こそ人間だけど中身は空気しか詰まっていない、風船のようなものだった。
聖職者たちはきっと、悪魔を消滅させるために手加減なしで魔法を打ち込むだろう。
どんな魔法を使われたとしても、人の皮一枚を消滅させることくらいは容易なはずだ。
幸運なことに、今の時点では全て思惑通りに事が進んでいた。
あの場にいた聖職者たち……特に、彼らの中でもっとも立場の強い教皇侍従は私を信頼してくれている。
悪魔と契約した者特有の魔力を感じないし、私が嘘をついているようには見えないから、だそうだ。
確かに、私は彼らにほとんど嘘をついていない。
全てを嘘で覆い隠せるだけの頭も技術も、私にはないからね。
ただ、加害者が私だということは伏せて全てを客観的に、まるで第三者として見ていたように話しただけだ。正直は美徳だね。
もちろん、完全に信用されたわけではないよ。
手首に嵌められた枷によって魔法は封じているし、監視もついているから。
食事や着替えなどは要望を聞いてもらえるけれど、枷は外してもらえなかった。
それにしても、魔力を封じる魔道具か。話は聞いたことがあるけれど、初めて見たよ。
きっと、ヴェンディミア特有の技術を使ったものなのだろう。
「気になりますか?」
どういう仕組みなのかと手首に嵌められた枷を眺めていると、不意に背後から声を掛けられた。
屋敷で私を最初に見つけた、教皇侍従の男だ。
私が日記を書き始める少し前に席を外していたのだけど、戻ってきたらしい。
それはいいのだけど、声を掛けられた時に思わず身体を硬くしてしまったのは失敗だったかな。
今まで探知魔法に頼りきりだったから、人の気配を感じ取るのに慣れていなくてね。
別にやましいことをしていたわけではないけれど、妙に思われてしまったかもしれない。
「一魔法使いとして、エテールの領主として、興味を惹かれてしまって……」
「魔法への造詣が深いアーチェディア伯爵が興味を惹かれるのも分かりますが、魔封じの枷の製法はヴェンディミアの秘法とされております。それ故、我々もその原理をよく知らないのです。
下手に触れては思わぬ事故が起きるかもしれません。
どうか、気になることがありましたら私にお申しつけください」
「ええ、分かりました」
どうやら、彼はあまり怒っていないようだ。そのことに安堵しながら、枷に触れていた手を下ろす。
確かに、原理の分からない魔道具を弄るのは危険だね。
普段の私ならともかく、今は自分の身を守るための魔法すら使えないからなおさら。
「傷はまだ痛みますか」
彼の言葉の意味が理解出来るまで、やや時間が掛かった。
向けられた視線の先を辿って、ようやく納得がいく。
きっと彼は、私の身体についた細かな傷のことを尋ねたのだろう。
あまり綺麗な身体だと監禁されていた感が出ないと思ったから風の魔法で少し皮膚を裂いてみただけで、もう血も痛みも止まっているのだけどね。
「もうふさがっていますから、ご心配なさらず。
この程度の痛みには慣れていますので」
そう言うと、彼の表情が明らかに引きつったのが分かった。
この言い方だと、痛みが特別好きな人間だと思われてしまっただろうか。
さすがにその疑いは晴らしたい。私はいたって普通の性癖しかもっていないからね。
「別段、痛みが好きなわけではないのです。
ただ、爵位を継ぐ前はこの程度の怪我などよくあることでしたから慣れているだけで……」
「ええ、ええ。分かっております」
その言葉のわりに、彼の表情は戻らなかった。まるで怒っているような顔に少し不安になる。
今の状況で彼の機嫌を損ねたら色々と不便だからね。ひとまず、理由を尋ねておこうかな。
「……何か、気に障るようなことをしたでしょうか?
それなら申し訳ありません。私は人の感情を推し量る術に長けていないのです。
次から改善しますから、どうか不快に思われた理由を教えていただきたいのですが……」
「いえ、伯爵のせいではありません」
私の問いかけに、彼は驚いたように首を横に振った。先ほどよりも強い口調に、つい肩が跳ねる。
相手が男性であろうと女性であろうと、厳しい言葉を向けられるのはあまり得意ではないんだ。
「ああ、その……申し訳ありません、アーチェディア伯爵。
ただ、そのような痛々しい傷を負うことに慣れてしまう環境に少々思うところがあっただけです。
伯爵は何も悪くありませんから、どうかご安心ください」
「それならよいのですが」
アーチェディア伯爵は被虐趣味を隠している……なんて噂が広がったら、さすがの私も恥ずかしい。
いや、貴族にもそういう趣向の人は多いし、彼らを否定するわけではないのだけど……。
「急ぎの話がないのでしたら、そろそろ眠らせてもらってもよいでしょうか。
先ほどから、身体が重くて……」
「きっと、悪魔の影響でしょう。気がつかず、失礼いたしました。着替えの用意を致します」
「よいのですか? そのような雑事をお任せして」
先ほどから私の世話を焼いてくれているけれど、教皇侍従というものは本来高い身分のはずだ。
ヴェンディミアとアストルムでは制度が違うから一概に比較出来ないけれど、彼の身分はおそらく私と同等かそれよりも高いのではないかな。
そう言うと、彼は少し困った顔をした。
「ここがヴェンディミアならばその通りなのですが、今はまだアストルム国内です。
悪魔が来襲した際、他の者では対応出来ない可能性がありますから」
なるほど。逆に言えば、彼は悪魔に襲われても対応出来る力を持っているということだね。
彼からは平均よりも質の高い魔力を感じるし、屋敷内では精度は低いながら扱いの難しい探知魔法も使用していた。
この一団だけでなくて、ヴェンディミア全体でも力のある人間なのかもしれない。
事情も分かったところで、大人しく着替えを手伝ってもらうことにした。
どのみち、長い鎖のついた枷が両手首に嵌められたこの状態では、食事や執筆はともかく着替えは誰かに手伝ってもらわないと出来ないからね。
早く着替えて、休むとしよう。
「では、腕をこちらへ出していただけますか。
痛みを感じることは何も致しませんので」
言われるがままに両腕を差し出すと、枷に彼の魔力が注ぎ込まれた。枷同士を繋いでいた鎖が消えて、両腕が自由になる。
どうやら、物理的な鍵ではなくて特定の魔力を流して管理する魔道具らしい。
魔法使いのみが使う魔道具なら、確かにこのほうが安全だね。
彼に背を向けてあちこちが破れた(正確には、私が破いたのだけど)服を脱ぐと、代わりに寝間着用のシャツが手渡された。
丈は合うけれど肩幅が広すぎて袖が余って、着心地はあまりよくない。
彼らが私の着替えを用意していたとは思えないから、誰かの私物かな。
「伯爵と背の高さがさほど変わらない神官のシャツを借りてきたのですが……申し訳ない。
明日にはヴェンディミアへ到着いたしますので、どうかその時まで辛抱を」
「ええ。それにしても、ずいぶん早いのですね」
ヴェンディミアとアストルムは、決して近くはないはずだ。両国の間には海もある。
たった一日で移動出来る距離ではないと思うのだけど……。
「エテールより西へ、半日ほど馬車で進んだところに移動陣を用意してありますので」
なるほど。道理で一日も休まずに聖職者たちがエテールへ派遣されていたわけだ。
屋敷を後にした頃にはもう夜だったから野営になったけれど、本来はもっと早くに引き上げてヴェンディミアへ戻る予定だったのだろうね。
ちなみに、アストルムでは王の承認なく移動陣を設置することは禁じられている。
陛下が移動陣の設置を承認されるとは考えづらいのだけど、許可は取っているのだろうか。
その問いかけにどのような返答が返ってきたとしても何も言えないから、聞かないけれど……。
状況を教えてくれた彼に礼を言って、長椅子の上に身体を横たえる。
今夜は君に見守られて眠れないかと思うと、なんだか寂しいよ。
少し前は一人で眠ることが当たり前だったはずなのに、不思議だね。
早く屋敷に戻れればよいのだけど。
身体が大きく揺れて、目が覚めた。
ぼやけた視界に見知らぬ天井が映り、思わず身体を起こす。
「申し訳ない。起こしましたか」
聞き慣れない声に顔を向けると、教皇侍従が申し訳なさそうに眉を下げた。
そういえば、昨日から彼らと共にヴェンディミアを目指しているのだったね。すっかり忘れていたよ。
未だに重い瞼を擦りながら馬車の小さな窓に取りつけられたカーテンを開くと、想像していたよりも眩い日差しが飛び込ん出来た。
これは、だいぶ寝過ごしたようだね。最近眠っていなかったせいかな。
油断すると思わず出てしまいそうな欠伸をかみ殺しながら服を着替えようとした途端、強い眠気で一瞬頭ががくりと揺れる。
「伯爵。まだ体調が優れないようでしたら、お休みください」
「そうさせていただきます。
それにしても、私に対してずいぶんと優しいのですね。
私は悪魔に囚われていた身。厳しい尋問や拘束をされるものだとばかり思っておりました」
そう言うと、彼は大きく動揺したようだった。
嫌味ではなく、ただ感想を述べたまでなのだけどね。
「確かに、悪魔と共に長い時を過ごされた伯爵の身は決して清らかとは言えないでしょう。
ですが、伯爵は悪魔の影響力に打ち勝ち、自らの意志で悪魔を攻撃した。
それが神の加護のおかげなのか、あるいは全く別の要因なのかは分かりませんが、私は前者だと感じております。伯爵からは、悪魔の魔力とは異なる清廉な魔力の痕跡を感じますから。
神から寵愛を受けておられるかもしれない方を、どうして神に仕える私たちが手酷く扱えるでしょう。
それに……」
「私が知りたいと言ったのですから、どうか遠慮なさらず」
そこまで言いかけて、彼は少し躊躇った。先を促して、様子を見る。
「これは教皇侍従としてでも枢機卿としてでもなく、私の……孤児院の院長だった男としての見解ですが、伯爵は今まで多くの試練を課されてきたように見えます。
それも、神ではなく人が与えた不要な試練を。
教会はそのような哀れな方々を庇護する場であり、神官は慈しむ存在です。
無論、職務は全うさせていただきますが……私個人に伯爵を害する気持ちはないと言うことを、覚えていていただきたい」
「………………そうですか。感謝いたします」
想像していたものとは全く違った彼の言葉に、なんと返していいのか分からなかった。
気遣うような目でこちらを見る彼に礼を告げて、ついでにもう休むと伝える。
眠気がひどいというのもあるけれど、それ以上に今は無性に彼と話したくなかった。
彼は何か言いたげだったけれど、私が長椅子に横たわって休んでいる振りをすると、声を掛けるのは諦めてくれたようだった。
それをいいことに、今得た情報をもう一度思い返してみる。
先ほどの遠回しな言葉を整理すると、どうやら彼は私に同情してくれているらしい。
演技かどうかを見抜く技術は私にはないけれど、今の私を騙したところで彼に利はない。
つまりあれは、彼の個人的な感情ということでいいと思う。
孤児院の院長といっていたから、きっと不遇な子供を多く見てきたのだろう。
境遇的には彼らより私のほうが恵まれていると思うのだけど、彼には私が哀れに見えたようだ。
人間を契約に誘うようになってから知ったのだけど、人は感情で動くことが多い。
そして、感情で動くと人は強い力を発揮するけれど、いろんなことを見落としがちになる。
何が言いたいかというとね。
彼を上手く誘導することが出来れば、身の潔白を証明するだけでなく、今までにないくらいたくさんの人を契約に誘うことが出来るのではないかな。
彼は、私が悪魔を攻撃したことが「神の加護を受けている証拠」と言っていた。
ヴェンディミアに協力的だと思ってもらえればいいと考えての行動だったけれど、予想していたよりも効果はあったようだ。
やはり、宗教国家の出身だけあって神には弱いみたいだね。それから、哀れな人にも。
……決めた。彼には、人々を契約に誘う手伝いをしてもらおう。
幸いなことに、必要な力は持っている。
あとは上手く立ち回って、彼やヴェンディミアの人間に私の言葉を信じてもらうだけだ。
……たぶん、それが一番難しいのだけどね。
人の心を自由に操れる道具とか、ないかな……。




