9話 悪魔の事情
妹が死んだ。
それを知ったのは今より少し前。
エテールに派遣されていた警備ギルド長からの定期連絡を偶然耳にしてしまったことがきっかけだった。
正確には死んだと決まったわけではない。昨年末から姿を見せていないだけだ。
そして、悪魔と契約した男と同じ屋敷にいるだけ。
警備ギルド長と定期連絡を取っていた王の秘書官を問い詰めたところ、そのように話していた。
確かにそうだろう。死体はまだ誰も見ていないそうだからな。
……生存が、絶望的なだけだ。
「あんな男に、嫁がせるのではなかった……!」
妹は、マリアは「アストルムの聖女」と呼ばれるほど信心深く、身も心も美しい子だった。
もし殿下があと十年早くお生まれになっていたら、間違いなく婚約者に選ばれていたはずだ。
王女を祖母に持つとはいえ、伯爵家の当主などに嫁ぐ必要はなかった。
マリアを嫁がせたのは、陛下直々の指名だったこともあるが、ほかならぬマリア自身が望んだためだ。
妹はあの男を心底好いていた……彼女の唯一の欠点だ。美しいものと哀れなものに目がない。
このアストルムで、伯爵ほど両方の条件を満たすものはいないだろう。
マリアの望みなら。伯爵なら、ほかの男のように愛人を持つことはないだろうから……と、あの時は目をつむった。
その結果がこれだ。
マリアが帰ってくることは永遠にない。彼女は完全に失われてしまった。
マリアを殺した伯爵も、婚姻を斡旋した陛下も、全てを隠蔽しようとした王国も、今となっては腹立たしい。
胸の内をかき乱す苛立ちを紛らわそうと爪を噛んでいると、部屋の扉が軽く叩かれた。
聞き慣れた使用人の声が扉越しに響く。
「ユルゲン様。先日お呼びされた魔術師が到着いたしました」
「入るよう伝えろ」
ほどなくして、栗色の髪を一つにまとめた女が部屋に入ってきた。
冷たい印象を受ける顔には憔悴の色が濃く残っている。
それがエテールからここまで馬車に揺られてきたためではなく、孤児であった自分を拾い上げて育ててくれた恩人を失った悲しみのためであることは、調べがついていた。
「私をお呼びだと伺いましたが」
「依頼だ、ローザリンデ・アーベントロート。
お前の勤め先に関する、な」
私の言葉を聞いた途端、ハシバミ色の瞳がぎらついた光を灯した。
どれほど冷静に見えても平民、特に女は感情的だ。だが、それでいい。
だからこそ、魔術師としては大した技量もないこの女を呼んだのだから。
「この杖をやろう。使い道は分かるな」
「……これは……!」
かしこまる魔術師の前に先日手に入れた杖を置くと、その目が大きく見開かれた。
驚くのも無理はない。新しく取引をするようになった商人から購入した魔道具だ。
中には高位の精霊が封じ込めてある。いくら伯爵が優れた魔法使いとはいえ、さすがに適うまい。
城の御用商人への斡旋という条件を突きつけられた時には悩んだが、購入した甲斐はあった。
かつての私なら、初対面の人間を王城の御用達になどしなかっただろう。
だが、マリアの死を隠蔽しようとしたこの王国に情はない。
「私がお前の恩人を殺した男の妻の兄であることは、お前も知っているだろう。
お前同様に、私もあの男を憎んでいる。だが、私には魔術師の素養がなくその杖は扱えない。
お前ならば、杖も扱えるだろう。それで、屋敷ごと灰にしろ」
「かしこまりました。この命に代えても、必ず……」
女はひどく感謝しているようで、震える声で礼を言いながら何度も頭を下げていた。
たかが仕事を与えられてその実力を評価された程度で、警備ギルドのギルド長に何故それほど忠誠を誓っているのかは分からないが、まあいい。
この女の実力では、高位精霊の力など制御出来まい。
力を暴走させ、術者ごと周囲を焼き尽くすのが目に見えているが、それで構わない。
王のようにあの男を穏便に捕らえるつもりなど私にはなかった。
それほどあの男が、あの男の魔力が大切なら、いっそ全て灰にしてやる。
それが、妹を殺された兄として出来るせめてもの復讐だった。
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「おや、戻ったんだね」
「豹のままで葡萄酒を嗜むのは、あまり優雅ではないですから」
貯蔵庫から葡萄酒の瓶を持って帰ってくると、トレーラントが人型になっていた。
よかった。豹のままだったら、葡萄酒を注ぐのはグラスか皿か迷っていたところだ。
テーブルの上にはいつの間にか、手軽につまむことの出来る軽い料理がいくつか並べられていた。
どれも葡萄酒に合いそうだ。一日中考えてばかりでお腹が空いていたから、ちょうどよかった。
しばらくの間は、私もトレーラントものんびりと葡萄酒を楽しんだ。
せっかく上等な葡萄酒とおいしい料理があるのだから、難しい話の前に味わっておきたい。
悪魔の性質なのか、トレーラントが一度約束したことを破ることはないからね。
「驚かせたいのですよ」
「うん?」
トレーラントが口を切ったのは、二杯目の葡萄酒を楽しんでいる最中だった。
なんの前置きもなかったし、小さな声だったから危うく聞き逃すところだったよ。
うん、ある意味驚いたかな。
「私をかい?」
「まさか。僕の先輩ですよ」
「先輩……」
「以前、話したでしょう。変化の魔法が使えない悪魔など、僕は一名しか知らないと。
その、変化の魔法が使えない悪魔が僕の先輩です」
「それだけ聞くと、先輩というより後輩に聞こえるね」
「変化の魔法が使えなくとも生きていけるほど、頭のいい悪魔ですよ」
そうだね。皆が持つ才を持たない者が生きていられるのは、それを補える能力があるからこそだ。
何事も平均以下の私が、唯一の取り柄である魔法に助けられて今まで生きてきたようにね。
「面白い契約の仕方をする悪魔でしたよ。伯爵とは違って、頭が回るのでしょうね。
縋ってくる人間を言葉巧みに言いくるめて、報酬をつり上げるのが上手かった。
それに、伯爵とは違って気遣いも出来ました」
「悪魔と私を比較するのは、少し卑怯ではないかな……」
まだ三十年も生きていない私と、少なくとも四百年は生きているトレーラントよりも長生きであろうその悪魔とでは、経験から何から全く違う。子供と大人を比べているようなものだ。
もっとも、私がその悪魔と同じ年月を生きたとしてもトレーラントに認めてもらえるほどの技量を身につけられるかは不明だけど。
たぶん、無理じゃないかな。
「私とその悪魔が全く似ていないのは分かったけれど、驚かせたいというのはどういう意味なんだい?」
「先輩は僕の教育係でした。
契約の仕方も報酬のつり上げ方も魔法の使い方も、全て先輩から教わりました。
もっとも、僕は優秀だったのですぐに教わることがなくなりましたが」
「悪魔って、意外と親切なんだね。
てっきり、産まれたその時から弱肉強食の世界なのかと思っていたよ」
そう言うと、トレーラントは呆れた様子で私を一瞥した。
「それでは、いつまで経っても後継の悪魔が育たないでしょう」
「それはそうなのだけど、悪魔は最初からなんでも出来るものだと思っていたからね」
「産まれた時から誰の助けも借りずに生きられる種族はいませんよ」
当たり前のことではあったけれど、悪魔もそこは変わらないらしい。
トレーラントもそんな時期があったのかな。少し気になるね。
それを聞くと怒られそうだから、言わないけれど。
「もっとも、昔は教育制度などなかったそうです。
その先輩の更に上の先輩方が今の制度を作り上げたと聞きました。
まあ、それについては今回の話に関係がないので今はいいでしょう。
話を戻すと、僕の成長を先輩はそれはそれは喜んで下さいました。
僕が少し仕事で成果を上げれば惜しみなく褒め言葉を掛けてくれましたし、何か尋ねれば的確なアドバイスをくれました。
先輩は僕より倍以上生きた中位の悪魔だったのですが、僕が上位の悪魔になった時にはまるで自分のことのように喜んでいましたね」
「いい先輩だね」
他者の成果を手放しで喜んでくれる者は貴重だ。
少なくとも私は、君以外に会ったことがない。
トレーラントはいい先輩に恵まれたね。それとも、悪魔はみんなそうなのかな。
私の問いかけに、トレーラントは「まさか」と首を横に振った。
「産まれたばかりなのに上位の悪魔になるなんて生意気だと、ずいぶんいやがらせも受けましたよ。
もっとも、返り討ちにしましたが」
悪魔には下位、中位、上位と位階があって、魔力の質や量、契約の成果によって位階が変わるらしい。
魔力が優れていれば上位になれるわけではなく、契約の成果のほうが重視されるそうだ。
そのため上位になれるのは長く生きた悪魔であることが多く、トレーラントほどの若さで上位になるのは珍しいそうだ。普通はどれほど優秀でも、千年から二千年ほど生きないと上位にはなれないと言っていたよ。
だから、八百年生きて上位候補に名が上がる位置に上り詰めた先輩はごく普通の優秀な悪魔だったとトレーラントは強調していた。
「僕はそれまで、失敗など一度もしたことがありませんでした。
与えられた仕事全てで期待されていた以上の成果を出しましたし、難しいと言われる数々の魔法も容易に使いこなせた。我ながら、順調な生だったと思います」
「楽しかっただろうね」
だって、やることなすこと全てが自分の思い通りに行くのだから。
けれど、私の想像とは裏腹にトレーラントは首を横に振った。
「確かに順調でしたが、つまらない生でしたよ。張り合いもありませんし、目標もなかった」
先ほどの楽し気な語り口とは打って変わって淡々と語ったトレーラントの目は、まるで当時のことを思い出しているかのように退屈な色を宿していた。
私には想像出来ないけれど、全てが自分の思い通りに進むというのも案外つまらないのかもしれない。
三杯目の葡萄酒をグラスの中でくるくると回しながら、トレーラントが言葉を続ける。
「ただ、先輩だけは別でした。
僕には想像のつかないやり方で報酬をつり上げたり、契約をこなしたりする姿は見ていて飽きなかったですし、先輩との話は面白かった。
ああなりたい、とは思いませんでしたが、尊敬はしていましたね。
退屈な仕事も、先輩に褒められるためであればやりがいはありました」
では、私に人間が悪魔と契約を結ぶよう唆させているのもその先輩に褒められるためだろうか。
尋ねると、トレーラントはうっすらと微笑んで「まさか」と肩をすくめた。
「正当な理由のない人間への加害行為、契約への直接的な勧誘、未承認の契約……。
これらは全て、今は禁止されている行為です。褒められることはまずありませんよ」
「おや。それではその先輩に怒られないかい?」
「ええ。怒られるでしょうね。悲しまれるでしょうし、何より驚かれるでしょう。
僕はずっと、いい後輩でしたから」
言葉とは裏腹に、トレーラントの目は穏やかだった。
怒られたいのだろうか。だとしたら、変わった趣味をしているけれど。
「別に趣味ではないですよ」
私の考えていることを悟ったのか、トレーラントは少し呆れた様子で言った。
では、どうして怒られると分かっていて禁止されている行為をしているのだろう。
そういうお年頃……ではないよね。きっと。
話の続きに耳を傾けながら、私はそっと二杯目の葡萄酒をグラスに注いだ。




