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悪魔の道具は今日も真摯に絶望させる  作者: 紫苑
2章 悪魔の道具は今日も真摯に嘘を吐く
27/201

8話 伯爵は身体を張りました

 走り続けていた足を止めたのは、二階と一階を繋ぐ階段に差し掛かった頃だった。

 安全だと判断したためではない。私の体力が尽きたせいだ。

 ここ最近は書類処理と情報収集に忙殺されていたせいで、少々身体がなまっていたらしい。


「マインラート様、大丈夫ですか?」

「……問題ない」


 不安げに尋ねてくるウドに頷いて、息を整えた。

 嘘ではない。実際、ジークヴァルト団長が部屋に入ってきてからの記憶はひどくおぼろげだ。

 アンデッド特有の虚ろに濁った目を見て、一瞬だがカリーナを想起してしまったせいかもしれない。


 情けない。仕事の手伝いをさせていた時点で、妹に害が及ぶ可能性は想定していたはずだ。


 カリーナはもともと遠い縁戚である侯爵家に仕えていた。

 その家がアーチェディア伯爵夫人の実家だったことは単なる偶然だ。

 私がこの任務を受ける前から、妹はそこに勤めていたのだから。


 だから、エテールで再会した時には驚いたものだ。

 嫁ぎ先にまで連れてこられるほど夫人に気に入られていたとは夢にも思わなかった。


 私はそれを幸運と捉えた。

 カリーナに私の仕事を話し、この仕事が成功すれば莫大な金と地位が手に入る。家も復興出来ると吹き込んだ。

 昔から私の言葉には全て従ってきた妹は、その時もただ笑顔で頷いた。


 伯爵家の情報を私に流していると知られたら、これまで築き上げてきた信頼は一気に崩れるだろう。

 侍女としても働けなくなるに違いない。

 最悪――伯爵の性格からして、それはないだろうと思っていたが――口封じに殺されたり、それよりも惨い仕打ちを受けるかもしれない。


 カリーナに協力を持ちかけた時、私はその危険に気づいていた。

 私の頼みをカリーナが断るはずがないということも理解していた。

 つまり、妹は私が殺したようなものだ。私にカリーナの死を悲しむ資格などあろうはずもない。


「……あの、マインラート様……」

「すまない。ぼんやりしていたようだ。何かね」

「あ、い、いえ! その、この先どうしようかと思いまして……」


 ウドの心配はもっともだった。

 屋敷の出入り口が裏口か正面玄関しかない以上、我々が脱出するにはそのどちらかを目指すしかない。

 正確な場所の分からない裏口よりも、道を覚えている正面玄関のほうが早く屋敷からは出られるだろう。


 だが、屋敷の敷地外へ出るにはあの迷路を再び通り抜けなければならない。

 風の魔法が使えるユストゥスがいない以上、それはほぼ絶望的だ。

 まともに歩いて攻略出来るような迷路なら、何人もの犠牲者が出ることはないだろう。


「目指すは裏口だ。たった二人で無事にたどり着けるかは分からんが、可能性があるだけまだいい」

「分かりました。お守りいたします」


 特段反論はないのか、ウドは青い顔をしつつも大きく頷いた。


「裏口は一階にあるはずだ。一度、戻るとしよう」


 目の前の階段を降りれば必然的にカリーナの肉片と対面することになるが、致し方あるまい。

 余裕のない今の状況で、わざわざ遠回りをするわけにはいかないのだから。

 早まる鼓動を無視して、足を踏み出す。


 おかしい、と感じたのは階段を半ばまで降りた頃だった。

 匂いが少しもしない。


 カリーナを刻んだ時に血は出なかったから、血の匂いがしないのは当然だ。

 しかし、アンデッド特有の腐った肉の匂いは確かにした。

 だが、いくら階段を降りても空気は清浄なままだった。


 いやな予感が胸を過ぎる。

 自然、歩く速度が速まった。


「……どうなっている?」


 一階にたどり着いた時、匂いがしなかった理由が分かった。

 壁や床のみならず、階段や手すりにも飛び散っていたカリーナの肉片は綺麗に消え去っていた。

 微かな汚れも見つからないその場所を、私はただ呆然と見下ろすことしか出来なかった。


「え、あれ……た、たしか。あの、ここには……」

「そうだ。カリーナがいた」

「伯爵が片付けたのでしょうか……」


 一瞬過ぎった「もしや、蘇ったのでは」という思いは、ウドの言葉で霧散した。

 そうだ。我々が上に向かっている間に伯爵が片付けたに違いない。


 いくらアンデッドが丈夫とはいえ、あの状態から動くことは出来ないはずだ。

 身体を動かすための神経や腱を斬っただけでなく、身体そのものも細切れにしたのだから。

 無駄な期待を抱くのはよせ。死んだ妹よりも、私が生きたまま外へ出るほうが今は優先だ。


 頭では分かっていた。

 だが、後から思い返せば私の心は納得しきれていなかったのだろう。


「たしか、僕たちは右側の通路から来たんですよね」

「そうだ。だから、今回は左に……」

「マインラート様? どうされましたか」


 耳に届いたウドの問いかけは、意味を理解する前に頭を通り抜けた。

 その時の私の頭は、目の前の出来事を処理するので精一杯だったからだ。


 一つにまとめた栗色の髪。落ち着いた色の制服。華奢な後ろ姿。

 視線の先。ここから少し離れた場所に、見慣れた後ろ姿が立っていた。


 いや、そんなはずはない。これは罠だ。

 思い直したところで、視線は外せなかった。


 せめて、振り向いてくれれば顔を確認出来る。

 どうせ、後ろ姿だけ似た別人だろう。カリーナでないと分かれば、すぐにでも……。


 その時、女性がこちらを振り向いた。

 窓から差し込む月明かりを背にしているせいで分かりづらいが……。


「カリーナ」


 怪しいと頭が警告を発する前に、既に足は動いていた。

 いや、仮に警告を発するのが間に合ったところで、私はそれに従わなかっただろう。

 近づく私を見つめる、薄茶色の瞳がうっすらと微笑む。


 それに安堵を覚えた瞬間、カリーナの顔に傷跡が浮かんだ。

 まるで、何か鋭い刃物で切り刻まれたような……。


 その意味に気がついて手を伸ばした瞬間、妹の頬が片方ぼとりと落ちた。

 とびきりの美人とは言えないが愛嬌のあるおっとりとした顔が、みるみるうちにそぎ落とされていく。

 これだけは自信があると言っていた形のよい鼻も、母に似て薄くて小さな耳も、きらきらと輝く目も、もはや原形をとどめていなかった。 


 この光景に耐えかねたのだろう。背後にいた魔術師が絶叫し、駆け出す音が耳に届いた。

 だが、私にはそれを咎めることも続けて駆け出すことも出来ない。出来るわけがない。


 妹を切り刻んだのは、私なのだから。


 動くことが出来なくなった私に、カリーナだったものがおぼつかない足取りで歩み寄ってきた。

 その度に、顔が、身体が、音を立てて床に落ちていく。

 目を逸らすことは、出来なかった。


「…………」


 近づいてきたそれは、何も言わなかった。

 ただ、鼻も目も分からなくなった顔に唯一残っていた唇を、小さく動かしただけだ。

 だが、読唇術を身に着けている私にはそれで十分だった。


 お兄様。

 返して。

 助けて。

 寂しい。


 頬に感じた手の感触。彼女が何を欲しているのか見当をつけるのは簡単だった。

 恐怖と、憐憫と、贖罪とが混ざり合った感情がこみ上げてくる。


 仕方なかった。

 一度アンデッドになった者を人として死なせてやるには――何よりも、私が生きるためにはああするより方法はなかった。


 叫ぶ自分とは裏腹に「生き長らえたところで、意味はあるのか?」と問いかけてくる自分がいる。

 そもそもカリーナが死んだのは、伯爵が危険人物だと知りながらその妻に仕え続けさせていた私のせいではないか。あの時、私も共に死ねばよかったのだ。


 幼い頃に憧れていた、美しいドレスを着せてやりたい。

 貴族の令嬢らしい、優雅な生活をさせてやりたい。

 いろんな国へ旅行して、好きだった歌劇を思う存分鑑賞させてやりたい。


 それが、私がこの仕事を始めたきっかけではなかったか。

 目的を失った今、何故私は生きているのだろう。

 ああ、そうだ。報酬を求める意味も、生きる意味も、もうないのだ。


 今の自分は正気でないと、分かってはいた。

 これまで積み重ねてきた恐怖や贖罪の重みに耐えきれず、心のどこかが壊れたのかもしれない。

 だが、今ならまだ間に合う。完全に壊れていない今なら、まだ。

 ……しかし、カリーナを突き放してこの場を後にすることはもはや考えられなかった。


「ああ……私を殺して顔の皮を剥ぐのでも、目や鼻を奪うのでも、好きなようにするといい」


 そう伝えると、カリーナはどこか戸惑った様子で私を見上げた。

 まるで、そんなことなど求めていないというかのようだ。


 無論、単なる私の思い込みであろうことは分かっている。

 だが、せめて死に逝く前のほんの一瞬くらいは夢を見てもいいだろう。


 目を瞑った私の首に、カリーナの指が触れた。

 最後に握った時よりも少々骨張っているのは、侍女として働き尽くめだったせいか。

 昔はもっと小さくて、柔らかな手だったというのに。


「君の願い、叶えてあげようか?」


 すぐ近く、私の胸の辺りからカリーナとは全く違う声がした。

 驚いて目を開き、視線を落とす。

 そこには、妹の薄茶色の髪と小さなつむじが見える……はずだった。


「誰、だ……」


 エテールどころか王都でも珍しい黒髪と、弧を描く薄い唇。菫色の目。

 どこか見覚えのある、しかし記憶には存在しない男がそこにいた。

 カリーナは。カリーナはどこにいる。


「今は二人で話をしたくてね。

 それで、君の望みはなんだい」

「望み……望みだと」

「そう。私はディートフリート。悪魔だ。

 この意味が、分かるだろう」


 悪魔。ああ、悪魔か。

 忌避する気持ちはなかった。


 両親が死んだ時、傾いていた家がついに没落した時、そして今。

 たびたび神を呪った私に信仰など残っていない。なんでも好きなものを持っていくといい。

 ただ……望むのなら。


「もう一度、カリーナと……家族皆と、暮らしたい」


 私の言葉を聞いた悪魔が穏やかに微笑んだ。

 頭の中が次第に靄がかっていく。


 恐怖は、なかった。



 +++++



 ……やっと終わった。

 全てのことを済ませた後、まず最初に思ったのはそれだった。

 なんだか、普段の倍は疲れた気がするよ。


「間違いなく、その一因はこの服だけどね」


 やはり、着慣れない服は着るものではないね。

 警備ギルド長の妹である侍女――別の名前があったはずだけど、忘れてしまった。どうせ使わないからいいけれど――に成りすますために着てみたのはいいのだけど、サイズは合わないし足下は心許ないし、そのうえ靴が歩きにくくて何度も転びそうになった。


 普段なら君に見せて「似合うかな?」と聞くところだけれど、今回は止めておくよ。

 間違いなく、似合っていないから。

 警備ギルド長が私の変装に気がつかなくて本当によかった。


 もし気がつかれていたら「悪魔は女装好き」なんて噂が広まったかもしれない。

 トレーラント曰く悪魔に性別はないそうだけど、ディートフリートはどう見ても男だからね。


 うん、そうなんだ。あれは変化の魔法を使ったわけではなく、ただ変装しただけなんだ。

 最初はいつものように変化の魔法を使おうとしたのだけど、上手くいかなくてね。

 変化先が異性だからかもしれない。変化の魔法は、自分と異なる存在に変わろうとするほど難しくなるから。


 それで、侍女の服を着た私の姿のすぐ上に幻影を映し出して誤魔化すことにしたんだよ。

 私の動きと幻影とがぶれないようにするのが少し難しかったけどね。

 ずっと中腰になっていたせいで腰も痛い。

 まあ、おかげで彼はすっかり騙されて……あれ?


「……この服、もしかして着る必要はなかったのかな……」


 冷静に考えてみれば、私の上に侍女の幻影を投影していたのだから別に着替えなくとも……。

 ……いや、一応役に立ったのだと考えておこう。服装が変われば振舞いも変わると言うだろう。

 私の振舞いも、少しは侍女らしくなっていたと思うよ。


 ……言っておくけど、別に私の趣味ではないからね?

 君ならきっと、信用してくれると思うけれど……。


 それから、物陰に隠れていた魔術師は見逃してあげたよ。もともと、一人は帰す予定だったからね。

 口止めするのを忘れていたけれど、それは大丈夫だと思う。

 陛下や宰相に「伯爵家には女装した悪魔がいる」と報告は……しないはずだ。たぶん、きっと。

 ……帰さないほうがよかったかな。


 まあ、いいか。

 重要なのは、これで十四人を新たに契約まで導いたということだからね。


「終わりましたよ」


 まるで見計らったかのようなタイミングで、大きな黒猫……ではなくて、トレーラントが帰ってきた。

 たくさんの人間と契約したからか、機嫌も良さそうだ。

 今ならいいかな。


「お帰り、トレーラント。

 ところで、私はこれで何人を君に捧げたことになるのかな」

「分かりきっているくせに何を言うのかと思えば……百一人ですよ。

 伯爵らしく、きりが悪いですね」

「褒め言葉として受け取っておくよ。

 それで、前に約束したことなのだけど……覚えているよね」

「無論です。僕を誰だと思っているのですか」


 そう言って、トレーラントが少し誇らしげに尻尾を揺らした。


「ただ、話すのは構いませんが伯爵には一切関係のない話ですよ。

 それに、少し長くなります」

「では、葡萄酒を持ってこようか。君の好きな、濃い赤紫色の」


 私の言葉に、トレーラントが微かに目を細めた。

 嬉しい時や怒っている時に彼がよくする仕草だ。


 ちなみにその二つを見分けるのは案外簡単で、今のような黒猫……ではなくて、黒豹の姿になっている時は、尻尾の揺れ具合を見ればいい。

 ゆらゆら揺れている時はご機嫌。床をぴしゃぴしゃと打っている時は不機嫌の証拠だ。

 今はゆらゆらと揺れているから、きっと嬉しいのだと思う。

 百人を達成したお祝いもかねて、特別いい葡萄酒にしてみようか。


 ……ところで、黒豹って葡萄酒を飲んでも大丈夫なのかな。

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伯爵が悪魔と契約するきっかけとなった話
日陰で真実の愛を育んでいた子爵令嬢は神様に愛されていると信じていた

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