1話 本日より、伯爵家は悪魔のものになりました
君が死んで、十年が経った。
周囲はまるで、初めから君という人間がいなかったかのように振る舞っている。
君の友人も、同僚も、家族さえも。
私も決して例外ではない。
君の声も笑顔も差し伸べてくれた手の温もりも、日々の新しくどうでもいい記憶に押し流されて次第に色褪せていっている。
代替わりした外国の王の名も、我が領の今年の収穫高も、妻が新調したドレスの話も、君の声一つにさえ及ばないというのに。
人間の記憶というものは、私が想像していた以上に留めておきにくいようだ。
そんな不甲斐ない私だけど、最近ようやく君と再会する方法を見つけた。
準備には少々時間と手間がかかったけれど、君に会えるのならたいした手間ではない。
唯一の取り柄と言える魔法以外は凡人以下の私にも出来る、とても簡単なことだ。
「旦那様。奥様がお待ちです」
「ああ。今行こう」
もうすぐ教会の鐘が鳴って、新しい年が始まる。君がいた頃もそうだったように、今でも伯爵家では新年に家族と使用人を集めて当主が挨拶をするんだ。
君と再会するための儀式を始めるのにちょうどいい瞬間だと思わないかい。
「お待ちしておりました、あなた。
今年も何事もなくあなたと過ごせたこと、神に感謝しておりましたの」
「そうか。君らしいね」
執事と共に大広間へ向かうと、純白のドレスを着た妻が美しい笑顔で迎えてくれた。
その後ろには忠実な使用人達たちが姿勢よく控え、普段は落ち着いた色合いでまとめられている室内は伯爵家を象徴する色である赤と金で飾られている。
例年と何一つ変わらない、伯爵家らしい夜だ。
だけど、一つだけいつもの夜と違う箇所がある。
私の心だ。君を失って以来絶望しかなかったけれど、今は希望で満たされている。
こんなに明るい気分で新年を迎えられるなんて、君が生きていた時以来だよ。
鐘が鳴った。
「諸君。昨年は、伯爵家のためによく働いてくれた。当主として感謝しよう。
これは、今日まで忠実であった君たちへの餞別だ。どうか受け取ってほしい。
──最後まで、私のために働いてくれることを期待しているよ」
言葉を終えた瞬間、シャンデリアが輝く天井から銀色の結晶が降り注いだ。
美しい景色への歓声や称賛はすぐさま悲鳴に変わり、辺りに赤く染まる。
大丈夫。結晶の切れ味は格別だけど、一つ一つは小指の爪ほどしかないからね。
全身を裂かれて苦しみはするけれど、死ぬことは当分ないだろう。
なにより、彼らはこれから生か死を選択することが出来る。
君のように、選択肢もなく首を切り落とされるよりはよほどいいはずだ。
「あ、あなた! どうして……」
妻はこの状況を見て咄嗟に魔法障壁を張ったらしい。
白いドレスは僅かに血で汚れていたものの、たいした怪我はしていないようだ。
ただ、常に優しげな色を浮かべている緑の瞳には怯えた色が宿っていた。
侯爵家の令嬢だった彼女には、この光景は少し刺激が強すぎたのかもしれない。
「ああ、驚かせてしまったようだね。すまない。
君にも使用人にも恨みはない。ただ、契約でね。彼を生き返らせるためには必要なことなんだ。
少しでも早く私が彼と再会出来るよう、協力してくれないだろうか」
「……どうして」
私の願いを聞いた妻は困惑した様子で呟いた。
理由はたった今説明した通りなのだけど、聞こえなかったのだろうか。
不思議だね。聡明な彼女なら、きっと喜んでくれると思ったのだけど。
妻も彼らも、君の処刑をとても喜んでいた。君の首を切られる瞬間を、笑顔で見ていた。
観戦者から参加者になることが出来たのだから、今は当時よりもずっと嬉しいはずだろう?
私の問いかけに妻は蒼白な顔で首を横に振った。口をいつにない速度で動かして、何かを唱えている。
神への祈りだろうか。彼女は敬虔な神の信徒で、どんな時でも祈りを忘れなかったからね。
本当は祈りが終わる時まで待つのが夫の務めなのだけど、これ以上時間をかけては使用人たちが本当に死んでしまうし、なにより君を待たせてしまう。
君ならきっと「俺のことはいいから、待っててやれよ。夫だろ」というのだろうが、私はもう君に会いたくて仕方がないんだ。
大丈夫。妻はとても優しい。君への慈悲はあまりなかったようだけど、世間では聖女と呼ばれるくらいに慈悲深い女性だ。
少しばかり神への祈りが途切れてしまっても、許してくれるだろう。
君が愛用していた剣を腰に下げていた鞘から抜いて、妻の喉にあてがった。
殺すつもりはないよ。敬虔な彼女はきっと死を選ぶだろうけど、選択肢は多く残してあげたいからね。
「あ──」
見開かれた緑の瞳を見つめて、刃を進める。
今年は最高の年になりそうだ。
「ご苦労。なかなか多くの人間と契約出来ましたよ」
自室でひと眠りしてから目を覚ますと、窓辺に腰かけていた私の契約相手がこちらを振り向いた。
薔薇色の瞳に浮かんだ色から察するに、私が捧げた人間の数には満足してくれたようだ。
伯爵家の使用人は約二百人。
自らの生死がかかった状態で「契約すれば助けてやる」という誘いに頷かない人間はそうそういないだろうから、きっとこの悪魔は伯爵家に仕えるほぼ全ての使用人と契約したのだろう。
これで満足してもらえなかったら、困っていたところだ。
「これが約束していたものです。一つ目の契約は、これで完遂ですね」
そう言って、彼──性別のない悪魔をこう呼んでもいいのかは分からないけれど、見た目は中性的な青年だから構わないだろう──が透き通った小瓶を取り出した。
中には、君の瞳と同じ深い青色の球体が淡く輝きながら浮かんでいる。
ああ、ようやく君と会えた。
私が悪魔から受け取ったのは君の魂だった。
もっとも、魂だけでは君を蘇らせることはおろか話すことも触れることも出来ない。悪魔が言うには、今の君には意識もないらしい。
だけど、これで準備は整った。あとは肉体と魂を繋げるだけだ。
彼──もといトレーラント曰く、それが一番難しいらしいのだけどね。
「では、次の契約に移りましょうか。
確認ですが、契約内容は覚えていますか」
「多くの人間が君と契約するように導くこと、だろう」
「ええ。よく覚えていましたね」
薔薇色の瞳が私を見下すように細められた。いや、実際見下されているのだろう。
悪魔は他のどの種族よりも優れた種族だし、私は人間の中でも落ちこぼれだからね。
ただ、いくら「魔法以外は凡人以下」と言われる私でも、自分が結んだ契約内容を忘れるほど愚かではなかった。悪魔相手にそれは自殺行為だ。
まあ、契約を結んだ時点で同じようなものだけど。
悪魔と契約して幸福な結末を迎えられた人間はいない。一時は満足のいく結果になっても、結局は悲惨な末路をたどる者がほとんどだ。
だけど、そうと知っていてなお君と再会出来る誘惑には敵わなかった。
君が死んだあと、私は君を蘇らせる方法を探し続けた。
結果は、君が予想する通りだ。私は見つけられなかった。
そのうえ、君に関する記憶は時がたつにつれて徐々に色褪せていく。
そのことに気が付いた時の絶望といったらなかったよ。いっそ、私の方から君に会いに行ってしまおうかと悩んだ程だ。
いや、トレーラントが声をかけてこなければ、私はきっとそうしていただろう。
相応の報酬と引き替えに願いを叶えてやろうかと誘われた時、不安や迷いが過ぎったのは一瞬だった。
君ともう一度再会出来るのなら、例え悪魔にだって縋りたかったんだ。
ただ、トレーラントが言うには死んでしまった人間を蘇らせることは悪魔にも不可能らしい。
その代わり、彼は二つの契約を提案してきた。
一つ目は、君の魂をもらう対価として、伯爵家の使用人や私の妻を彼に捧げること。
二つ目は、君が蘇るか私が満足するまで続く生を得る対価として、彼に人間を捧げ続けること。
捧げる、といってもよくある物語のように命を直接渡すわけではないよ。
彼らがトレーラントと契約するように誘導するだけだ。
人々を悪魔に捧げることへの躊躇いはなかった。
君は私を含む大勢のために殺されたのだから、君のために私を含む大勢を捧げることはなんらおかしくないはずだ。
今、一つ目の契約が終わって君の魂を手に入れた。
あとは君を蘇らせる方法を見つけるまで私の命を延ばし続けるために、人間を捧げ続けるだけだ。
普通なら、悪魔と契約しようという人間を見つけるのはなかなか難しいだろう。
悪魔との契約は、世界でもっとも忌むべき行為だとされているからね。
一人見つけられたら幸運だけど、この悪魔がそれで満足するとは思えない。
それなら、契約するように仕向ければいい。
「ひとまず、それなりの数は確保出来ました。今後は、今の数を減らさないようにしていきたいですね。
出来れば、もう少し多くの人間と契約出来ればいいのですが」
「分かっているよ。前に話した通り、計画を進めていくつもりだ」
「自分と屋敷を餌に、人間たちを誘い込むのでしたね。
人間にしては、なかなか面白いことを思いつくものです」
そう言って、トレーラントは上機嫌に笑みを浮かべた。
以前話した私の案を、彼は大層気に入ってくれているらしい。
人間が悪魔との契約を望む理由は様々だ。
誰かを蘇らせたい、莫大な財産を得たい、過去のあやまちをなかったことにしたい……もっとも一般的な理由はやはり「自分が助かりたい」だろうか。
生存本能は、人間なら誰もが備えているからね。
とはいえ、日常生活を送っていて命の危機に晒されることはあまりない──君のように冤罪を着せられたり、私のように母から死を願われたりしていれば話は別だけど──し、命の危険がある場所にわざわざ訪れる者も普通はいない。
だけど、目的があれば話は変わる。
例えば「領主の屋敷で異変が起きている」となれば町の自警団や警備ギルドは動くだろう。少し時間はかかるけれど、王国からも兵が送られてくるに違いない。
それが彼らの職務だからね。
当然だけど、彼らは別に死にたくて屋敷に来るわけではない……はずだ。
私は貴族としてしか生きたことがないからよく分からないけれど、たぶんそうだと思う。
死にかけた彼らに契約を持ちかければ、きっと成功するはずだ。今回みたいにね。
問題は私が彼らを追い詰めることが出来るかだけど、それについては心配いらない。
ここは生まれてから今日まで暮らし続けてきた伯爵家だ。構造はもちろんのこと、当主しか知らない秘密の抜け道や侵入者対策用のトラップも熟知している。
この屋敷は私にとって、世界でもっとも安全な場所と言っても過言ではなかった。
それに、君も知っての通り、私は魔法が得意なんだ。唯一の取り柄と言っていい。
例えこの国の騎士団と魔術師団が束になってかかってきても、負けるつもりはないよ。
「期待していますよ。伯爵」
「ああ、必ず期待にこたえてみせるよ」
だから君は、心配せずに待っていて欲しい。
私が必ず君を蘇らせるから。