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スラム街から南下すると、そこはもう町外れだ。この辺一帯まで来ると、浮浪者や犯罪者も近寄らないらしく、人の気配は全くといっていいほどしなかった。付近には過去の名残なのか、朽ち果てられた教会や、ボロボロの家屋が時折顔を覗かせている。
水都に凪ぐ涼風も、ここではまるで別物。それは過去の哀愁を乗せてきているかのようであり、荒廃した街並みに物寂しさを覚えそうだった。しかし、草花たちは変わることなく、伸び伸びとしており、地面の彩りだけは豊富だ。
視界の隅に映る水路は整備される予定がなかったのか、小川のように剥き出しにされている。そんな水の通り道が、町外れには至る所に点在している。
ソフィアは複数ある水路から一本を選び、それを辿っていた。
彼女のエメラルドグリーンの瞳は、倒壊寸前の教会を横目にしている。
それは果たして、いつの時代に造られたものなのだろうか。解体すらされずに見捨てられた教会は、ソフィアにとって何か感じるものがあるようだ。
街の南側は、このように発展に追いつけなかった区画が多かった。
雨除けにもならないような廃墟郡を通り抜けると、周囲には建物さえも影を隠す。そして、ほぼ街の郊外にまで辿り着くと、一本の水路が横に大きく広がりを見せていた。
その水の道が行き着く先には、トンネルのような建造物が待ち受けている。半円形の入り口は水路を飲み込むように大口を開けており、一本の大河を思わせるほどだ。奥は薄暗くて視認できない。
徒歩での移動は可能なようであり、両脇にはコンクリートの道がどこまでも先に伸びているようだった。
流れる水はやや濁っている。異臭こそはしないものの、かといって足を浸そうとも思えない。そんな水路が辿り着く先は、下水処理の施設であることを物語っていた。
「……かすかに、臭いますね」
ラウナは漆黒の水路を見据えながら、慎重な面持ちで言った。
余はそれに対して頷き返し、ソフィアだけが目をぱちくりと開閉させている。
「わたくしには何も匂いませんけれど……やっぱり、下水に繋がっているからでしょうか?」
「いえ、そうではありません。これは微かな魔族の痕跡……どうやら、この先にはそれなりの力を持った魔族がいるみたいですよ」
余とラウナが感じ取ったのは、魔力の残り香だ。
魔力とは、魔族に流れる力の源のようなものである。それは身体を護るための膜のような役割を持っていたり、力を自在に操る能力を会得していれば、様々な攻撃手段に用いることもできる。魔族から見れば人類が脆弱に見えてしまうのは、この魔力と呼ばれる潜在的な差によるものだ。
そして、魔族にしか捉えることのできない、不可視のオーラでもあった。……いや、司教ノワールの反応を見た限り、彼女もまたそれを知覚できるようだったし、手練の人間ならば、可能なのかもしれないが。少なくとも、ソフィアにその力は備わっていなかった。
漂ってくる気配は、只者ではないことを示唆している。
どうやら、余たちの読みは正解だったようだ。はたまた、ラウナの言った通り、罠、の恐れもあるが。
「……わたくしたちだけで進んでしまって、大丈夫でしょうか? 魔族がいるのならば、司教さまに相談に戻るのも手、ですよね」
「まあ、問題はないですかね。所詮は地下に身を隠す、卑怯な犯罪者です。私一人でも充分でしょう」
ラウナは切れ長の双眸に、感情も込めずに言い放つ。それは絶対的な自信の現れだった。まるで、台所に出た害虫を処理するかのような言い草でもある。
ソフィアは未だにそれを信頼することができないのか、不安な表情を募らせていた。
メイドの格好でそんなことを言われても、信用性に欠けるのはわからんでもないが。
「その、ラウナさんは、丸腰ですけれど、戦いになっても平気なのですか? 格闘でも習っていたのでしょうか?」
「いや、そうではないぞ。ソフィ、これを見よ♪」
余は俊敏な動きで、ラウナの背後に回り込んだ。
そして、彼女のエプロンドレスのスカートを、バッサリと捲りあげる。
現れたのは……おおっ♪
「ラウナよ、お主、その歳でくまさんパンツとは、可愛いのぅ」
「わぁ、すごい」
余の視界に広がるのは、純白のショーツにくまの絵がプリントされた、少女趣味のような下着だ。
同時に感嘆の声をあげ、じっくりと凝視しているのは、ソフィアである。彼女もまた、女の子には目がないのであった。ただ、他の女のパンツに目を奪われるとは、嫉妬してしまいそうにもなるがのう。
「…………っ! こらっ、フレデリカ様!」
ラウナは普段の澄まし顔は皆無、顔全体を真っ赤に染めながら、余に痛烈な拳骨を浴びせてきた。
「ぐ、ぐぉぉ、これは効いたぞ、ラウナ……」
「スカートを捲るなんて、はしたなすぎます。全く……」
余は頭頂部を押さえながら、蹲る。
ラウナはぱんぱん、っとスカートを叩き、どうにか平静を保とうとしていた。しかしながら、なかなかに顔面の熱は引かないのか、褐色肌の頬は桜色を浮かべている。こういうところは、ラウナも可愛げがあるんじゃがのう。
「で、でも、くまさんのおぱんつ、とっても可愛らしかったですよ。わたくしも、同じような物が欲しいですわ」
フォローを入れてくるソフィアも、どこかずれている。彼女もまた、大人のショーツは経験のない、色気のいの字もない下着ばかりを好んでいた。ソフィアが今身につけているものは、ラウナとほとんど代わり映えのしない、いちご柄のパンツだったかのう。
ラウナはその話題を逸らしたいのか、大きな咳払いをした。
「はぁ……。ソフィア様も、どこをじっくり見ていたのですか。フレデリカ様が言いたかったのは、きっとこれですよ」
ラウナは自らスカートをたくし上げ、膝の上辺りまで捲くって見せる。
ソフィアの生唾を飲む音が聞こえたような気がした。
しかし、さしものラウナも、自らくまさんパンツを披露するような痴女ではない。
彼女の両の太もも。そこにはガーターベルトよろしく、黒革のホルスターが巻かれてあった。
それに差さるは、二振りの小太刀である。
ラウナは暗殺者の如き、短剣の使い手なのだ。
「あら、しっかりと武装はなされていたのですね、これは失礼致しました」
「かかか、パンツはくま柄じゃがのぅ」
余が茶々を入れると、ラウナにぎろりと睨まれる。
拳骨の二撃目が飛んでこないように、ソフィアの背にささっと逃げ込む。
「遊んでいないで、犯人が逃げてしまう前に、さっさと行きますよ」
「ええ。慎重に進みましょう」
ラウナはそんなソフィアの言葉とは裏腹に、ずかずかと用水路の奥に進んでいった。
最早彼女の脳内には地図がインプットされているのか、案内も不要のようだ。
余たちも慌てて、ラウナの背を追った。
足音だけが、暗闇の道には反響していた。
もちろん、なるべく誰にも悟られないように慎重な足取りではあったが、完全に無音で歩く技術をソフィアは会得していない。
代わりに、ラウナのそれは恐ろしいくらいにしなやかで、呼吸音すらも殺していた。
水路の中は、明かりがまるで見当たらない。元々は作業用として使われていたらしく、壁には電灯の残骸が定期的に連なっている。
しかし、誰もが利用しなくなったこの道に、電気は通っていないようだった。
ラウナが手にする小型のランタンだけが、漆黒の水道を照らし上げている。
「ふぁぁ、意外と退屈じゃのう。もう少し何かと遭遇するかとも思うたが、何にもおらぬではないか」
余は緊張感もなしに、不満をぶちまけた。
それは驚くほど周囲に響き渡り、隠密行動かのような捜査をしている余たちには愚行でもある。
じゃが、退屈なものは退屈なのじゃ。
余にとって、この水路に待ち受けているのは、悪者か低級魔族のオンパレードだと思っておったのだ。
何せ水都サウレスの地下は、それら市民の敵が跋扈している、と聞かされていたのじゃからな。
しかし、歩けど歩けど、生物の存在すらも疑わしい虚無の道が続くだけ。
空気すらも死んでしまったかのような、底冷えする空間だった。
余が沈黙を破ったためか、ソフィアは金の睫毛を伏せ、嘆くように溜息をつく。
「フレデリカ様、もう少しお静かに。後少しで下水処理施設に着きますから」
「わかったわかった。じゃが、もうちょっと何か刺激が欲しいものじゃの」
ソフィアは真っ暗な道で余が離れないように、手を取ってくれている。
いや、もしかしたら、彼女自身が暗闇を恐れているだけかもしれぬが。それでも、ソフィアと手を繋いでいる感触は、余にとって心に温かみをもたらしてくれる行為である。
じゃが、手持ち無沙汰なのもまた耐え難い苦痛じゃ。
余は気配を押し殺して、先を進むラウナの背にそーっと忍び寄った。
そのスカートに手をかける直前、彼女はくるりと反転する。
「何をしようか、バレバレですよ。フレデリカ様」
「いや、大した反応じゃ。その勘は衰えておらんようじゃの、安心したわい」
決してやましいことを、したかったわけではない。そんなことをアピールする余であったが、ラウナにその言い訳は通じなかった。
二撃目の拳骨が、お見舞いされる。
衝撃が、余の脳天を貫く。
それは鈍い響きとなって、地下水路にこだましていた。
「お、お主……余はお主の主君じゃぞ。手加減くらいせんか……」
「手癖の悪い子どもの主に躾をするのもまた、侍女の務めでありますから」
ああ言えばこう言う。困ったメイドじゃ。
しかしながら、彼女と過ごす時間は退屈が削がれるというもの。
ま、ソフィアと二人だけでも、退屈、には無縁じゃったがの。それら全ての時間は、愛を育む時間に代わるだけなのじゃ。
だけど、ラウナの前でずっとイチャイチャするわけにもいかないし、先立つもののために、仕事は遂行しなければいけない。
もう少し、ラウナに暇を付き合ってもらおうかのう。
何度か拳骨を受けていると、下水処理施設の近場にまで到着していた。