第67話 サラミ婆さんとシマシマ
サラミ婆さんがシマシマこと竜王ゼブラに出会ったのは、今からおよそ70年前のことである。
ドーズ=ズパーシャを恐れ逃げ続けたゼブラは、ドーズが死んでもなお、勇者そのものを恐れ、とある山に身を潜め続けていた。
悪さらしい悪さなどその間一度たりともせず、人の瘴気を食うなどもっての外。
しかし魔界に帰って瘴気を摂ることも、他の魔獣たちからの報復を恐れてできずにおり、つまるところゼブラはおよそ130年もの間、絶食していたのだった。
食を断つことで力は衰えても餓死はしないというのが上級以上の魔獣の特徴であり、ゼブラもその例に漏れず弱るだけで死ぬことはなかったが、空腹による苛立ちは募る一方だった。
数人ほど人間を攫って食おうかと思い立ち、山を下りる道中、物凄い勢いで山道を駆ける老婆がこっちへ向かって来た。
130年ぶりの食事が、たかだか老婆一人の搾って出るかも疑わしい瘴気では味気ないとも思ったが、急に上質な瘴気を食らっても胃が驚くかもしれないとも思い、つまみ代わりに口を大きく開けて老婆を殺しにかかった。
が。
呆気なく返り討ちに遭った。
空腹とは言え老婆にさえ負ける己を恥じる暇さえなく、「ボーダードラゴンを調理するのは初めてだからどうしたものか」などと言い出す老婆を説得するために思考を回すしかなかった。
「なんでもするから食べるのは勘弁してくれ」と懇願してみると、老婆から思わぬ提案があった。
魔界とウェルダンシティを往復するのに乗せていけば今回だけは見逃してやる、と。
聞けば、これまでほぼ毎日魔界まで魔獣を狩りに行っていたが、徒歩で行くのは年齢的にそろそろしんどくなり、飛行手段があればありがたいとのことだったので、快諾して魔界に連れて行った。
毎日魔獣を狩るような老婆に着いて行けば、魔獣たちの報復も恐れず安心して瘴気が摂れる。
瘴気を摂りさえすれば、如何に魔獣を狩るほどの老婆であっても負けるわけがない。
そう打算してのことだったが、魔界に着いた途端その考えが吹き飛んだ。
ゼブラが想定していたよりも遥かに、老婆は強かった。
例え全盛期の自分が戦ったとして、果たして勝てるのか自信が持てないほど、強かった。
そして、自分が全盛期の強さを取り戻すことができないこともそこで悟った。
魔界の瘴気では栄養価が低く、どれだけ摂っても全盛期の強さを得るには今一歩足りないのだ。
だが、それもゼブラにはどうでも良いものになっていた。
その時目の当たりにした老婆の強さは、かつて仕えた魔王ゴアとも、戦うことなく逃亡を決意するほどだった勇者ドーズとも違い、彼を心底安心させるものだった。
彼女と共に生きよう。
あらゆる理屈も、過去も、掟も、全てを払い除けてそう決心した。
魔獣を大きな袋に入れて持ち帰ろうとする彼女に、優しく口を開けて言った。
「入れなよ。俺の胃袋だったらどれだけでも入るし、ほぼ永久的に保存できる」
「……ありがとよ、竜王ゼブラ」
魔獣の一匹が彼に気付いて叫んだことで、老婆は彼の正体を知った。
ゼブラは首を振った。
「もうゼブラじゃない。竜王ゼブラはとっくの昔に死んだんだ。俺の名前なんかよりも、あんたの名前を知りたいな」
老婆は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで言った。
「あたしゃサラミ婆さんだよ。よろしくね……シマシマ」
戻って現在、そんな過去が唐突に脳裏に浮かぶのを振り払いながら、シマシマは必死にサラミ婆さんへ声をかけていた。
「サラミさん!!!サラミさん!!!起きてくれよ!!!」
「……うる……さい、ねぇ……あたしゃ耳が……いいんだよ……しず、かに、しとくれ……」
目を開けずに答えたサラミ婆さんの声は、普段の面影もないほど弱々しく、シマシマには生気を感じることができない。
下半身が丸ごと消し飛ぶ重傷を負って、それでも即死せず生きていられるだけでも奇跡と呼ぶに等しいものだったが、それもついに限界が訪れようとしていた。
ロレッタも承知で、追撃をせずにただその時を待っていた。
「し、ま……シマシマ……お、まえ、なんで……に、げ……さっさと……にげ……」
「あんたを置いて逃げられるかよ!!待っててくれ!!地下の倉庫にまだバンパパイヤの肉があるはずだ!!それ食えば……!!」
「ハハ……馬鹿だ、ね。そんなん、で……治る、わ、け……ないじゃ、ないか。あ、たしは……もう、たすか……ら、ない……」
「そんなことないって!!!」
後ろにいる敵には目もくれず、シマシマはただただサラミ婆さんへの呼びかけを続ける。
そうし続けなければ、今すぐにでもサラミ婆さんが息絶えてしまうとシマシマは思った。
自分の呼びかけで命を繋ぎ止められるのならば、永遠にそうしようとさえ思っていた。
「死に貴賤なし。我が国で生まれ損なった『異物』と言えど、その死には敬意を払わねばなりません。別れを済ませるまでは、手を下さないで差し上げましょう」
冷淡に告げられた女王の言葉。
シマシマの耳にはそれも入らない。
「そうだ!ケインがもうすぐ来る!!ケインならこんな傷すぐに治せるはずさ!!だから……だから……!!!死なないでよ……!!!」
受け容れられない。
仲間だった氷王ロズの死も、魔王ゴアの敗北からも目を背け、100年以上も逃げ惑い続けたこの竜にとって、愛する者が死ぬという現実は到底受け容れられるものではなかった。
ましてや、生を受けてより初めて芽生えた、特別な愛情を向ける対象者の死。
涙が止まらず、髭を伝ってサラミ婆さんの顔中にも落ちてきた。
それに気付く感覚さえサラミ婆さんは失っていたが、泣きじゃくるシマシマの声に、笑った。
「うれし……いよ、シマシマ……おまえ……が、魔獣の、おまえが……あたしの……死に……泣いてくれて……嬉しい……」
サラミ婆さんはシマシマの髭に触れようと手を伸ばす。
察したシマシマが自ら髭を手に絡め、優しく握った。
「シマシマ……よく、聞きな。おまえじゃあ……おまえ、だけじゃあ……あの女王は倒せない……けどね、ケインなら……オーロに勝った……ケインなら……きっと、やってくれる……あたしじゃ、駄目、だった……ことでも……ケインなら……やってくれる……おまえは、助けて……やるんだ。ケインと一緒に……女王を……倒すんだ……!」
「ああ!!絶対倒すさ!!ケインたちと一緒に!!だから……!!」
「それから……全部、かた、づいたら……あたしの、店……おまえが継いでおくれ……子供たちの……ことも……」
「えっ!?」
思わぬ言葉に、一瞬髭が緩んだ。
「いや、子供たちはもちろんだけど……でも……俺ドラゴンだし、飯屋なんて……!」
「おまえがいつも……子供、たちと……り……料理の、練習を……してたのを……知ってる……おまえに……やってほしいんだ……」
「サラミさん……!」
言葉に詰まる。
もしここで拒めば、サラミさんはいつものように怒鳴り散らしてくれるだろうか?
髭を引っ張って、頭を叩いてくれるだろうか?
生きて、いてくれるだろうか?
そんな考えが浮かぶ。
だが、髭に繋いだ手の力がもうほとんどなくなっていることに気付いた時、咄嗟に口から出た言葉は、シマシマの本心からのものだった。
「もちろんだよ!!俺に全部!!任せといてくれよ!!!」
「……大好きだよ」
サラミ婆さんの温かい微笑みが、シマシマの瞳にしっかりと映された。
「あたしの……シ……マ……シ…………マ………………」
髭から手がするりと抜け落ち、そのまま動かなくなった。
サラミ婆さんことサラ=ポプランが、息絶えた。
シマシマは目を瞑り、声を押し殺して泣いた。
息を吐き出し続け、次に吸い込むまでの間、泣き続けた。
涙がサラミ婆さんの遺体を洗い流すシャワーの如く、ぼたぼたとこぼれ落ちた。
それが10分も続いたが、ロレッタは口約通りに手を出さず、シマシマの心の整理が終わるまで待っていた。
だが、シマシマが息を吸い込んだその瞬間、ロレッタの目の色が変わった。
「……忘れていましたよ、魔獣の生態。人が死ねば生まれる瘴気、それを吸うことで力を取り戻すということを」
シマシマにとって最愛の人間の死によって生まれた瘴気は、皮肉にも彼に全盛期の強さを取り戻させるきっかけとなった。
これまで魔界で摂ってきた瘴気とは比べものにならない上質な瘴気。
それは瞬く間にシマシマの全身に行き渡り、魔力を倍増させ、更には肉体にも変化を及ぼした。
単純な縮小化ではなく、人間に近い体型へと圧縮、変貌していったのだ。
大きな翼だけは変わらず、それを広げた下から、サファイアのような青い瞳がロレッタを睨み付けた。
「我が国に遺された書物に、あなたのことも書かれていますよ。魔王ゴアに次ぐ力を持った最上級魔獣……名は確か……竜王ゼブラ」
「竜王ゼブラは200年前に死んだ。俺はこの人の……サラミさんの家族……」
稲妻のような魔力が、彼の周囲で弾け飛んだ。
「シマシマだ!!!!!」




