第5話 サラミ婆さんの魔獣狩り
翌日、外はまだ薄暗く、日が昇る直前。
サラミ婆さんの店の2階にある子供部屋。
真ん中に敷かれた大きな布団の上で、ケインはサラミ婆さんが世話をしている子供たちとぐっすり眠っていた。
ケインと子供たちはすぐに打ち解け、布団を共有するほどに仲良くなっていたのだ。
久しぶりの布団での安眠を満喫していたところに、またしてもあの凄まじい爆音が耳を襲う。
「起きなァァアアアッ!!!夜が明けちまうだろォォオオオオオッ!!!!!」
慌てて飛び起きるケインに、サラミ婆さんはより大声で怒鳴り続ける。
「あんまり物音立てるんじゃなァァァァい!!!子供たちがまァだ寝てるだろォォォオオオオ!!!!!」
辺りを見回すと、確かに子供たちはすやすやと寝息をたてながら、まだ夢の中にいるらしい。
こんな爆音で起きないのだから、自分が多少うるさくしても起きるわけがないのではないか、と思いながら、ケインは一応静かに立ち上がり、部屋を後にした。
起きたばかりではあったが、あまりの爆音にすっかり目は覚めていた。
サラミ婆さんはゆっくり足音を立てないように歩いている。
声はうるさいのに物音には気を遣っているのかと思いながら、ケインもついて行く。
ゆっくりと階段を下りるサラミ婆さんの後に続きながら、ケインは尋ねる。
「魔獣狩りをやるって言ってましたよね。他に誰かやる人いるんですか?」
「あたしとあんただけだよ」
「えっ」
「他に誰がいると思ったんだい?」
「いや…」
まさかとは思っていたが、しかし実際に、この老婆が一人で魔獣を狩っているのだと思うと、少し納得はできるような気がした。
だって、格好は老婆そのものだが、背丈が明らかに強そうなんだもの。
とは言え、2Dドラゴンのような上級魔獣を倒せるとは、まだにわかには信じ難いが。
そう考えながら、ケインは質問を続けた。
「魔獣狩りって、一体どこでやるんですか?」
「魔獣がいる場所だよ」
あまりにざっくりとした返答に困惑しながら、再度ケインは尋ねる。
「いや、だから、その魔獣がいる場所ってのは、一体どこなんですか?」
「着いてくりゃわかるさ」
そう言うと、サラミ婆さんは階段を下りると、裏口の扉を開ける。
どうにも望んだ答えが返ってこないことに少し苛立ちならがも、ケインはその後は何も訊かずに着いて行った。
裏口の外に出てみると、そこはやけに広いが、少しばかり雑草が生えているだけで、他に何もないただの庭だった。
周りに何かある様子もない。
ケインは少し首をかしげたが、その何もない空間に、サラミ婆さんは声をかける。
「さあ起きなよシマシマ。出かけるよ」
そう言うと、突然目の前に、緑色の光沢を帯びた鱗が姿を現す。
鱗はみるみるうちに増えていき、その中には白や黄色のものもある。
増えていく鱗の端から、人間一人分ほどの大きさもある爪や角のようなものも飛び出す。
ただ漫然と増えているわけではなく、徐々に尻尾や翼の形を成していく。
ケインが呆然と眺めている間に、それは巨大なドラゴンの姿になった。
「紹介しておくよ。こいつはシマシマ。あたしのペットだ」
シマシマと呼ばれたドラゴンが目を開き、低く唸り声を上げると、緑と白と黄色の鱗はそれぞれ規則正しく色を揃え、全身に綺麗な縦の縞模様を描いた。
真っ青な瞳で、ケインを一瞥すると、フン、と鼻を鳴らす。
「ツ、2Dドラゴン!?いや違う!この特徴は…」
「あんなペラくなるしか能の無い連中と一緒にすんな。俺はボーダードラゴン、あいつらの上位種だ」
シマシマが不機嫌そうにそう答えると、ケインは目を見開いた。
ボーダードラゴン。
ひと口にそう呼ばれているが、縞模様や水玉模様など、様々な異なる模様を持った個体が存在する種族だ。
ドラゴン型と分類される魔獣の中でも、特に強大な力と、知恵を持っている。
最大の特徴は、自信の体の模様を形成している鱗の形を組み換え、変色し、周りの景色と同化できるという擬態能力。
そこまではケインも知っていることだったのだが、人語を解せるということまでは知らなかったのだ。
「しゃ、喋った……?」
「当たり前だろう、上級魔獣なんだから」
「上級魔獣だからってそんな……というかペットって!!ボーダードラゴンを!?一体どこで……」
「シマシマ、今日はこの子も一緒に連れてっておくれ」
ケインの言葉を無視して、サラミ婆さんがしれっと言うと、シマシマはまたしても不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「2Dドラゴンとボーダードラゴンの違いも一目でわからないようなトーシロを連れてけっての?死んじゃうよこいつ?」
長い緑の髭を伸ばし、ケインの顔を撫でながらそう言う。
突き放すような口調とは裏腹に、その撫で方は存外優しいものであった。
ケインは不意に、シマシマの髭を撫で返す。
「えへへ」
シマシマは嬉しそうにそう笑い、ケインに顔を近づける。
「えっ可愛っ」
つい口から出た言葉を恥ずかしく思いながらも、ケインはシマシマの顎を撫でていた。
シマシマは低く唸りながら、大人しくケインに撫でられ続けている。
その様子に、サラミ婆さんは言う。
「仲良くなれたみたいだし、さっさと行くよあんたたち」
シマシマはふと我に返ると、ケインから顔を離し、サラミ婆さんに向かって言う。
「だからこいつじゃ死んじゃうって!なんで連れてくのさ!」
「払う金が足りないってんだから働いて返してもらうんだよ。おまえが心配するようなことじゃないだろう?」
サラミ婆さんの言葉に、シマシマは少し目を閉じ考える。
やがて目を開くと、ケインに顔を向け、口を大きく開く。
「ん」
その動作が理解できず、ケインは戸惑っていると、サラミ婆さんが教えてくれた。
「口の中にバッグとか剣とか、荷物を入れな。ボーダードラゴンの腹の中は異空間になってるからね。口に入りさえすりゃなんだって保存できるのさ」
そんなことは退魔指南書には全く書かれていなかった。
魔獣が喋るということも、一切だ。
初めて知った魔獣の生態に動揺を隠せないケインだったが、言う通りにシマシマの口にバッグと剣を入れる。
シマシマはそれを飲みこむと、尻尾を振りながら言った。
「乗りなよ。ただし連れて行ってあげるけどさ、俺の目の前では死なないでね。後味悪いから」
「あたしもいるんだから死にゃしないよ、多分」
サラミ婆さんはシマシマの首に跨りながら言った。
そのままケインの手を引っ張り、自分の後ろに乗せる。
シマシマはまるで重さを感じていないかのように頭を軽く振ると、翼を羽ばたかせる。
ゆっくりと上昇していきながら、ケインに向かって言った。
「上まで行ったら一気に飛ばすからね。しっかり掴まってなよ」
ケインは少し体を強張らせながら答える。
「上ってどこまで!?」
「雲のギリギリ下くらいだよー」
シマシマの軽い返事に、ケインの全身に更なる緊張が走る。
「雲!?そんな高く……って、どこ掴まればいいんだよ!?」
ケインはこの時、初めて自分が、軽度の高所恐怖症であることを自覚した。
掌から汗が吹き出し、顔から血の気が引いていく。
足の先が冷たくなっていくのを感じる。
すると、ケインの手元、シマシマの首の付け根の鱗が、ケインが掴むのにちょうど良いくらいに変形した。
「そこ掴まればいいよ。多少強く握ったって剥がれやしないし、万が一剥がれたって痛くなんかないからさ」
「おまえ、あたしにはそんなことしてくれないじゃないかい。妬いちゃうよ」
「サラミさんは力強すぎて鱗剥がしちゃうだろ!跨ってる脚だけで十分だ!」
サラミ婆さんの言葉に、シマシマは泣きそうな声でそう言った。
ケインはサラミ婆さんが跨っている場所に目をやる。
シマシマの首の鱗は、サラミ婆さんの太腿の周辺だけが、剥がれたような跡があった。
どうやら本当に何度も剥がされてしまったらしい。
苦笑いしながら、ケインはシマシマが掴みやすくしてくれた鱗をしっかりと握りしめた。
「シマシマ、ゴーグル」
「はいよ」
シマシマは口を開けると、器用に髭で赤いゴーグルを掴み、サラミ婆さんに渡す。
どうやら腹の中は本当に異空間になっているようで、ゴーグルには胃液どころか、水滴一つついていない。
サラミ婆さんがゴーグルを着けている後ろでケインが見上げると、雲がもう間近に迫ってきている。
シマシマは、ぐぐっと体を丸める。
それと同時に、サラミ婆さんはケインに声をかけた。
「そういやまだあんたの名前聞いてなかったね」
「……ケインです。ケイン=ズパー……」
ケインが言い終わる前に、シマシマは一気に加速し、前方にすっ飛んだ。
「しゃああああああああああ……!!?うぐっ」
ケインは悲鳴を上げたが、あまりの勢いに息を詰まらせ、声を出せなくなってしまった。
目も開けていられなくなり、必死で鱗を握りしめながら、身を屈め、目を思い切り瞑った。
どれだけそうしていただろうか。
やがて、速度に体が慣れてきたのか、ケインは目を開けた。
見渡すと、辺りはウェルダンシティを飛び立った時よりも暗くなっていた。
「暗っ!!」
「太陽に背中向けて飛んでるからね!!!ウェルダンシティは今頃は朝だよ!!!」
高速で飛んでいるために風の音が強いせいか、サラミ婆さんの大声も、さほど苦ではなかった。
逆にこの風ではこちらの声が届かないと思い、ケインも思い切り大声で叫ぶ。
「そろそろ!!!どこに向かってるか!!!教えてくれませんか!!!」
「うるさァァァァァアアアアアアアアアアアイ!!!!!」
鼓膜を粉砕せんばかりに、大声でサラミ婆さんは怒鳴る。
まさかの返答に、ケインはうっかり手を放しそうになる。
「あたしゃ耳が良いんだよ!!普段通りの声量で十分聞こえてんだから!!!!!普段通り喋りなァァア!!!!!」
「いやあんたのが何倍もうるさいよ!それよりも、どこに向かってるかそろそろ教えてください!」
「あんたは魔獣がどこに住んでるか知ってるのかい!?」
突然の質問に、ケインは少し返答に迷ってから答える。
「魔獣って、世界中、各地を襲ってるんじゃないんですか?」
「そんなの昔の話さ!!今の時代、魔獣はね!『瘴気』が自然に発生して、人間が寄りつけないような場所にしかいないんだよ!!」
「えっ!?」
予想だにしないサラミ婆さんの言葉に、ケインは動揺する。
この世界には、人間が住むことのできない、有害な瘴気を放つ場所がいくつか存在する。
魔獣は瘴気を吸うことで生きている。
それはケインも知っていることだったのだが、
「もう、そこにしか、魔獣は存在していない……?」
そう口にしたところで、すぐに表情は明るさを取り戻した。
明るく笑いながら、独り言を呟く。
「つまり、それだけ歴代の勇者たちが活躍したってわけか。俺も頑張らないとな!」
それを聞いていたのかは定かではなかったが、サラミ婆さんは話を続けた。
「あたしが知ってる限りでは、その瘴気を放つ場所は2か所あるんだ!!だけど、内の一つは最近厄介なのが現れてね!!今向かってるのはもう一つの方さ!!」
「もう一つの方って……」
「見えてきたよ!!」
ケインが下を見ると、辺り一面、海が広がっていた。
生まれて初めて見る海だ。
「うぉお……」
その広さに圧倒され、言葉を失う。
それを察してか、サラミ婆さんは言った。
「前だよ!前!!」
「え……あれ……?」
遥か前方には、紫色の霧のようなものが立ち込めている。
それが瘴気であることは、ケインにはすぐにわかった。
瘴気が立ち込めるその奥には、巨大な城のようなシルエットが見える。
魔獣の住処の一つ。
そう確信すると、ケインは肩に力が入っていることに気付いた。
緊張しすぎないよう、肩を回してほぐそうとする。
シマシマは少し速度を落とし、なるべく音を立てないように飛び方を変えた。
魔獣たちに接近を悟られないように。
サラミ婆さんもそれに合わせて、かなり声量を抑えながら言った。
「さて、早く済ませて帰ろうね。あたしでもあの瘴気の中で2時間もいたら痺れてきちまう」
「俺はもっと居てもいいんだけど」
シマシマがそう零すと、サラミ婆さんは笑った。
「おまえには貴重な食事時間だものね。でもせいぜい1時間だよ。ケインが1時間耐えられるならの話だけどね」
「わかってるよ。普通の人は5分だっていられやしないんだ。贅沢言ってごめんよ」
なだめるようにシマシマの頭を撫でながら、サラミ婆さんはケインの方を向く。
「ケイン、あんたにやってもらうことを伝えるよ」
「は、はい」
魔獣狩り。
ひと口にそう言っても、調理の材料として持ち帰らねばならないのだ。
ただ倒すだけでは、きっとないのだろう。
この老婆と、一体何をすれば良いのか。
ケインはツバを飲み込んだ。
「あそこに着いたら、魔獣をいっぱい倒して、シマシマの口に放り投げる。以上」
「……それだけ?」
思っていたより遥かに単純であったその内容に、ケインは拍子抜けする。
「それだけって、あんた、他に何かやるつもりだったのかい?」
「いや、料理に使うんだから、もっと何か、例えば、皮は剥いでおくとか……」
「いらないいらない。シマシマの体内で保存して、帰ってからあたしが全部やるんだから。あんたは魔獣を倒すことだけ集中してりゃいいんだよ」
「……そうですか」
「それなりの仕事をすれば昨日の飯代はタダにしてあげるよ」
「ほ、本当ですか!」
「生きて帰ったらの話だけどね」
ぶっきらぼうにサラミ婆さんはそう告げると、城が完全に見えるようになるまで、何も言わなくなった。
「おや?参ったね」
城の頂上近くまで来て、サラミ婆さんが頭をかく。
既に瘴気が立ち込める空間の中にいるのに、苦しそうな様子は一切見せない。
ケインは初めて体験する瘴気に戸惑いながらも、なんとか1時間は耐えられるだろうと確信すると、同じように後ろから城の頂上を覗き込む。
頂上には、魚のような顔をした人型の魔獣が、大量に待ち構えていた。
その魔獣を見て、ケインは言う。
「フグファイターですね。体の中に毒を溜め込んでいて、怒ると紫に変色してその毒を全身に広げてしまう、中級魔獣ですよ」
フグファイターたちの体は、全員紫色に染まっていた。
それぞれに拳を握り、ファイティングポーズをとっている。
サラミ婆さんはため息をつく。
「あたしらの接近はバレちまってたってわけかい」
「あれじゃ食材には使えないよサラミさん」
シマシマがそう言うと、サラミ婆さんはますます深くため息をついた。
「みなまで言うんじゃないよシマシマぁ」
「使えないだけじゃなくてあれじゃ触れないよ。俺が焼き払っちゃおうか?」
シマシマが大きく口を開けようとするのを、サラミ婆さんは軽く叩いて止める。
「あんたが火ぃ吹くとしばらく口の中が熱くなっちまうだろ!投げ入れた食材が焦げたらどうすんだい!あたしがやる!」
「えっ?」
ケインは聞き直そうとしたが、その前にサラミ婆さんは言う。
「目ぇ閉じるか伏せてな。焼けちまわないように」
そう言うとゴーグルを外し、シマシマの口に押し込む。
不意に押し付けられたゴーグルを渋々飲みこむシマシマをよそに立ち上がると、深く息を吸い込む。
そして思い切り、吐き出した。
「『老婆焼殺砲』!!!!!」
サラミ婆さんの口から凄まじい勢いで炎が発射される。
口元から離れると、それは彼女の倍以上もの太さの火炎となり、フグファイターたちを覆い尽くした。
ケインはその様子を見たいと思ったが、余りの熱さに目を開けていられず、顔を伏せる。
しばらく放射し続けると、呼吸が続かなくなったのか、炎の勢いは弱まり、やがて止まった。
ようやくケインが顔を上げ、見渡すと、城の頂上は炎の海と化し、フグファイターたちはというと、残らずその場で炭屑になってしまっていた。
「すげえ威力」
呆気にとられていたケインを代弁するかのように、シマシマは呟いた。
ケインも色々言いたいことがあったのだが、考えた末に出た言葉はこれだった。
「……どうやって技名言ったんですか?」
「気合い」
サラミ婆さんはそう答えると、全身に力を込める。
すると、みるみるうちに全身が盛り上がり、先程とはまるで別人のような筋肉隆々の体格へと変貌を遂げていく。
「えぇ……」
またしても呆気にとられ、ケインは言葉を失う。
そんなことはまるでお構いなしに、サラミ婆さんはシマシマに声をかける。
「槍!あとケインにも剣出してやんな!」
「あいよ」
シマシマの口から、するすると大きな槍が伸び、それを右の髭で掴むと、サラミ婆さんに渡す。
呆然とそれを見つめているケインにも、左の髭で剣を渡した。
「さあて……」
サラミ婆さんが念じると、頂上の炎は弱まっていく。
炎が完全に消えるのを確認すると、叫んだ。
「行くよォォオオ!!!!!」
勢いよくシマシマから飛び降りると、城の頂上で着地し、床を踏み砕く。
そのまま床下へと落ちていくのを確認すると、シマシマも後に続いて突入する。
ケインはというと、シマシマに振り落とされないようにしがみつくので精一杯だった。
「ケェェェエエエエエエエイ!!!!!」
城の中で、サラミ婆さんの雄叫びがこだまする。
侵入者を迎え撃とうと、魔獣たちが大勢突っ込んでくる。
そのいずれもが、ケインは退魔指南書で読んだ覚えがある。
全て中級、或いは上級魔獣だった。
「美味くない奴はどきなァァァァアア!!!!!」
大槍を振り回し、ハラボテゴブリンの群れを一掃する。
「美味い奴は死になァァァァアアア!!!!!」
そのままバンパパイヤに向かって跳びかかり、顔面を握り潰す。
バンパパイヤが死んだのを確認すると、シマシマめがけて放り投げる。
シマシマはそれを口でキャッチし、飲み込む。
その様子を見ていたケインも、シマシマから降り、魔獣に剣を向ける。
目をつけたのは、ごつごつした馬のような魔獣、中級魔獣のマッシヴヒヒーンだった。
マッシヴヒヒーンもまた、それに気付いたようで、ケインに唸り声を上げて威嚇する。
それに臆することなく、ケインは剣を振り上げる。
躊躇なく振り下ろしたが、マッシヴヒヒーンの顔面には傷一つつけられず、逆に弾き返されてしまう。
「くっ!!」
体勢が崩れたケインに向かって、マッシヴヒヒーンが突進する。
冷静にそれを見ながら、ケインは退魔指南書に書かれた、マッシヴヒヒーンの対処法を思い出す。
まず、マッシヴヒヒーンが雷撃魔法に弱いこと。
左手一本に剣を持ち替え、呪文を唱える。
「『バリボー』!!!」
雷撃の中級魔法を、右手から放つ。
それがまともに命中し、マッシヴヒヒーンの動きが完全に止まる。
次に思い出したのは、マッシヴヒヒーンの視界は、普通の馬と比べて圧倒的に狭いこと。
マッシヴヒヒーンが動けずにいる間に、素早く背後に回る。
そして、最後に思い出したのは、マッシヴヒヒーンの体で一番柔らかい部分が、尻であるということ。
まっすぐに剣を構え、渾身の力を込めて、突き刺した。
だが、
「うぉわっ!!」
またしてもマッシヴヒヒーンの体は傷一つつかず、弾き返されてしまった。
ケインの息が荒くなる。
これまで魔獣の対策を必死に頭に叩き込み、体がそれについていけるように訓練を積み重ねてきた。
にも拘らず、それがまるで通用しない。
魔獣と直接戦ったことがない、経験不足。
それによる、単純な実力不足。
少し考えれば、わかったことだ。
低級魔獣と戦ったことすらないのに、いきなり中級魔獣と戦えるわけがない。
なのに何故、戦えると思ったのか。
ちらりと、サラミ婆さんを見る。
サラミ婆さんは、上級魔獣を複数相手に、まるで勢いを衰えさせることなく、蹴散らし続けている。
彼女の言葉を思い出し、確信する。
彼女が知る限り、今、魔獣が住んでいる場所は2か所しかない。
もう一か所は、何やら厄介なことになっているらしい。
だから、こちらを選んだと。
つまりは、もうここでしか、魔獣と戦えないのだ。
そして、自分が戦っているのは、恐らくこの場で最も弱い魔獣なのだ。
自分がまともに戦えるような低級魔獣は、既に存在していないのだ。
魔獣を倒して経験を得て、実力を上げる。
当たり前にあるはずだと考えていた手順が踏めない。
勝てるわけがない。
強くなれる機会がないのだから、魔王を倒すことなど、できるわけもない。
そう思うと、自然と力が入らなくなる。
マッシヴヒヒーンがこちらに突進してきていることに気付いているのに、剣を持ち上げることができない。
こんなところで終わりかと、虚ろな目で見ることしかできなくなっていた。
目の前まで迫ってきていても、それは同じだった。
ごめんなさい、皆との約束、守れなかった。
心の中で、母やザックにそう謝りながら、静かに目を閉じた時だった。
「危ないっ!!」
背後からシマシマが割って入り、マッシヴヒヒーンに頭突きを喰らわせていた。
マッシヴヒヒーンが呻きながらその場で昏倒すると、シマシマはそのまま飲み込んだ。
「あ……ありがとう、シマシマ」
シマシマは何も答えなかった。
ただ、ケインを憐れむように見ていた。
その視線に耐え切れず、ケインは目を伏せる。
幸いなことに、他の魔獣がケインたちをこれ以上襲ってくることはなかった。
どの魔獣も、サラミ婆さんを迎撃しようと奮闘したり、逃げ惑ったりしていた。
シマシマは、時折サラミ婆さんが放り投げた魔獣を、上手く口でキャッチし、飲み込んでいた。
ケインは、何もする気が起こせず、ただその場で突っ立っているだけだった。
やがて、ケインの腕が瘴気で痺れだした頃、サラミ婆さんが走って戻ってきた。
「今回はこれくらいでいいだろ!!帰るよ!!シマシマ!!」
「うん」
二人を乗せ、シマシマはその場を後にした。
「もっと速く飛びなよシマシマ!!着く頃には夜になっちまうよ!!」
「しょうがないだろ!あんたが詰め込み過ぎたせいで重たいんだよ体が!!」
「異空間だろ!!おまえの体内は!!」
「物事には限度ってものがあるんだよ!!」
帰り道。
海の遥か上を飛びながら、サラミ婆さんとシマシマは口論していた。
それを聞きながら、ケインは海を眺めていた。
上空からでは小さな点にしか見えないが、いくつかの船のようなものが見える。
他に何も考える気にはなれず、ただぼんやりとそれを見つめていた。
後ろのそんなケインの様子を察してか、サラミ婆さんはシマシマに言った。
「子供たちに渡す用の小遣い袋あったろ。それ一つ出しな」
シマシマは髭で口の中を弄ると、やがて一つの巾着袋を取り出し、サラミ婆さんに渡した。
サラミ婆さんはそれを受け取ると、ケインに差し出した。
「はい」
「……なんです?これ」
巾着袋の口から金貨が見える。
しかも袋は、ケインが持っているものよりも更に大きかった。
「バイト代だよ。今回働いてくれた分」
「……いやいやいやいや。なんで?」
ケインにはまるで理解できなかった。
相応の働きをすれば、食事代をタダにしてくれる。
そういう約束だったはずだ。
それなのに、一匹たりとも魔獣を倒せなかった自分に対して、あまつさえバイト代と称して大金を渡そうだなんて。
「それなりに働いたらって約束だろ?生きて帰ってきただけ、上等だってことだよ」
「納得できませんよ!!俺は何もしていないんですよ!?どういうつもりでそんな……!」
「どういうつもりもないよ。ただこの金で、あとは上手くやんなってだけだよ」
それを聞くと、ケインは歯を食いしばり、俯いて呟く。
「……同情ですか?」
「あ?」
「弱い俺に、同情でそんなことをするんですか!!」
サラミ婆さんはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……まぁ、そんなところかね。勇者だろ、あんた?いっぱい勇者は見てきたけど、全くどいつも大変だねぇ。二度と帰れない村なんかのために、ありもしない使命背負わされてさ……」
「……え?」
彼女の言葉の意味が理解できずに、ケインは固まる。
しびれを切らしたサラミ婆さんが、再度巾着袋を差し出す。
「とにかく、これ受け取りな!」
「嫌です!同情で金をもらう勇者がどこにいるって……」
「いいから黙って受け取りなよォォオオオオオッ!!!!!」
しばらく向けられていなかった老婆の大声に、ケインは思わず跳び退く。
シマシマの鱗から、手を放して。
「あっ」
すぐに気付いたが、時すでに遅し。
勇者は悲鳴を上げながら、真っ逆さまに海へと落ちていった。
それを眺めながら、サラミ婆さんは言う。
「あーあー助けないとねえ。シマシマ!急ぎなよ」
だが、シマシマは顔を青くして首を横に振った。
「ダメだよサラミさん!あそこは危険だよ!!」
「薄情なやつだね!海賊どもの何が危険だってんだい。あいつらはあたしがなんとでもするさ。さあ、早く降りて助けに行くよ」
それでもシマシマは譲らない。
むしろその顔は更に青くなっていき、恐怖で体を震わせる。
「海賊だけじゃないんだ。凄くやばい気配が近づいてきてる。『デュナミク』の女王だよ!!」
それを聞くと、サラミ婆さんも顔をしかめた。
「……あのじゃじゃ馬娘かい。確かにそっちが来るとなりゃ、あたしらも危ないかね」
言いながら、シマシマの頭を撫でる。
「仕方ない、このまま帰るとしようか。あの子も娘に捕まる前に『オーロ』に拾われたなら、ひとまず命は助かるだろ」
「そう祈るしかないね」
そう言うと、シマシマは家路を急いだ。