第3話 エンカウント率、0%
生まれて初めて村の外に出たケインは、高揚感を抑えきれず、喜びを噛みしめるように歩いていた。
草原を越え、深い森を抜け、また木々が鬱蒼と生い茂る山道を登ってゆく。
実際のところ、目にする景色のほとんどが、村でも同じように見られたであろうものだった。
その程度のものでしかない、とケイン自身も思ったが、それでも全てが輝いて見えた。
見るもの全てが新鮮で、ケインの胸を躍らせた。
この先に待ち受ける試練の前触れだろうか。
苦難から目を背けているからこその高揚感だろうか。
一瞬、そういった思いが脳裏を掠めたが、すぐに忘れた。
偉大な使命が、俺にはある。
成すべきことを成し、村に帰る。
全てを終わらせて、村に戻ったら、この景色を皆に見せよう。
俺が村に戻った時には、もう誰も、村に閉じこもる必要はなくなっているのだから。
そう思いながら、ひたすらに歩き続けた。
だが、村を発って5日経った昼間には、高揚感はすっかり失せ、猛烈な違和感が彼に圧し掛かっていた。
外の世界は、結界の外は、魔獣たちで溢れかえっている、そう思っていた。
しかし、おかしい。
5日経ったにも関わらず、魔獣に、全く出くわさないのだ。
1匹たりとも、である。
旅立ってすぐに気付いても良かったものだった。
あまりに素晴らしい景色にケインは胸躍らせたが、素晴らしい景色が見られるということが、そもそもおかしな話だったのだから。
誰かが襲われたような痕跡さえも、どこにも見当たらないのだから。
「なんでだ…」
村では、明るくお喋りな青年として知られていたケインだったが、この5日間で心細くなったか、独り言を呟く機会が増えていた。
バッグの中から、昔、初代勇者ドーズが書き記し、各地に配ったと言われる『退魔指南書』を取り出し、ページをめくる。
この辺り一帯にも、魔獣がいたはずなのだ。
大した力は持たないが、一般の人間に比べれば強い、低級魔獣と呼ばれるランクの魔獣が。
ケインは退魔指南書に書かれた魔獣の名前を読み上げながら歩く。
「コワモテウサギ……リクザメ……ナンデモクイアリクイ……」
退魔指南書には、それらの魔獣への対策法と、調理法が書かれている。
いずれの魔獣も、「極めて美味」と注釈がつけられていた。
「ダークネスイノシシ……プリケツスネーク……」
川に差し掛かったところで立ち止まると、深くため息をつく。
バッグを下ろし、そのまま座り込むと、またため息が出た。
「……あー……腹減った」
実のところ、ケインは退魔指南書を読んで、魔獣が食べられるという事実を知って以来、それを楽しみにしてきたのだった。
故に、バッグの中にはまだ非常食の干し肉がいくつか残っていたが、あまり手をつけないようにしていた。
いざ魔獣が出てきたら、本当に美味いのかどうか、確かめるために。
だが、とうとう空腹には勝てず、バッグから干し肉を取り出す。
それでもまだ完全には屈服していないようで、ひと口かじると、またバッグの奥に仕舞い込み、川の水を無理やり腹に流し込む。
半分ほど胃袋に溜まったところで、はっと気付く。
「そっか。5年毎に勇者が出てるんだから、ここら一帯の魔獣はほぼ退治されちゃってるんだ」
何故その可能性にもっと早く気付けなかったのか、と頭をかく。
つまりは、もうこの辺りで意地を張っていても仕方がない。
そう思うと、また腹が減ってきた。
仕舞った食べ残しの干し肉を再び取り出し、今度は思い切りかぶりついた。
「うまっ」
食べながら、地図を広げて確認する。
もう200年以上前の地図だが、他に頼るものがない。
それが正しければ、あと2日ほど西に歩けばウェルダンシティと呼ばれる街に出る。
それまではこの干し肉で十分やっていける、はずだ、と自分に言い聞かせた。
少しの間休憩し、立ち上がると、ふと来た道を振り返る。
その瞬間。
ぞくり、と背筋が凍りつく。
「あ…れ?俺……どこから来たんだ?」
今通ったばかり、だったはずの道。
それにまるで見覚えがなかった。
行くべき道はわかっている。
だが、どこから来たのかがわからない。
行くべき方向が西なのだから、東から来たはず、なのに。
西がわかるのに、東がわからない。
慌てて地図を広げ、再度位置を確認する。
自分が今いる地点はわかった。
そこから指でレイブ村をなぞろうとしたが、途端に手が止まる。
レイブ村の位置がわからない。
「モコモココウモリの幻覚か……?あの魔獣は確か幻覚を見せて人を惑わすって……」
そう言い聞かせようとするが、モコモココウモリという魔獣が夜行性であることを、ケインは理解していた。
昼間に襲われるようなことはない。
それに、さっきこの辺りに魔獣はいないと確信したばかりじゃないか。
一度地図を遠ざけてから、また目を凝らして、村の位置を確かめる。
レイブ村、と書かれた文字が見えた。
すぐさま現在地と照らし合わせようとするが、また見失う。
また来た方向を振り返る。
だが、おおよその方向はわかるのだが、どの道を、どうやって通ったのかが、わからない。
また地図を見る。
何度も、何度も、繰り返す。
だが、わからない。
必ず帰ると言ったはずの村に。
母やザックたちが待っている村に。
帰ることができないのかもしれない。
そう思うと、さらに強い寒気が背筋を駆け抜ける。
「……うっ……!うわぁぁぁあああああっ!!!」
これ以上考えるのが怖くなり、ケインは走り出した。
行くべきだと理解できている、西へ。
翌日、ケインは山道を下っていた。
相変わらず、振り返っても、来た道がどこかはわからない。
だが、いつまで考えても仕方がない、と割り切るようになっていた。
昨日ペースを速めた分、この調子でいけば、今日の夜には街までたどり着く。
街でまともな食事にありついたら、今度こそ魔獣退治だ。
道中見つけた小さな木の実を大量に頬張りながら、そんなことを考えていた時だった。
「やめてっ!」
女性の叫び声が聞こえ、足を止める。
声のした方向に耳を傾けると、複数の男の笑い声も聞こえてきた。
下卑た、不快な笑い声だ。
何事かを考えるまでもなく、女性が襲われているのだと、ケインは確信した。
足音をなるべく立てないよう、しかし素早く、その方向に足を運ぶ。
見ると、聞こえた通りの品の無さそうな、しかし屈強そうな盗賊の男が3人、小柄な少女の周りを取り囲んでいた。
盗賊。
一目でケインがそう判断できたのは、実際に見る機会が多かったからである。
レイブ村にも、何度も盗賊が現れたことがあった。
勇者ドーズの結界は、魔獣は通さずとも、弱い人間に対しては効力を持たないからだ。
弱い人間が略奪目的で現れた時の対処は、勇者志望者たちの役目だった。
ケインやザックは、何度も盗賊による襲撃を防ぎ、腕を磨き続けてきたのだ。
男たちの手には棍棒やナイフが見える。
少女もそれが見えているのか、いや、例え武器を持ってなくとも男が3人取り囲んでいるのだ、怯え、小刻みに震えている。
「見れば見るほど美人だぜ~?こぉんな真っ白な肌、そこらじゃ拝めねえなぁ」
「さぞかし高く売れるだろうぜ、ブフフフフ」
「さっさと売っちまう前によぉ、つまみ食い……いいよな?エヘッヘエヘッヘヘ」
いかにもな下種の台詞に、ケインは憤りを隠せずにいた。
しかし同時に、理性的に、どうやって少女を助け出すべきかと考えていた。
ここで飛び出して、下手に盗賊を攻撃しようとすれば、かえって少女を危険に晒すことになるかもしれない。
慎重に様子を伺い、隙を見て助け出す方が利口ではないのか。
そんなことを考えていると、少女が再び叫んだ。
「いやっ!助けて!!」
「うるせえよ!」
盗賊の一人が、少女の顔を叩く。
瞬間、ケインは飛び出していた。
先程まで考えていたことは、既に頭の中のどこにもなかった。
ただ、盗賊と少女の間に素早く割って入ると、少女を叩いた男の顎を、全力で殴り抜いていた。
「おごぉっ!?」
男が遥か後方へ吹っ飛ぶ。
仲間の2人が、何が起こったのか理解できず、狼狽している。
吹き飛ばされた男は、意識を失い、ぴくぴくと痙攣していた。
「最初からこうしてりゃ良かった。死にたくなけりゃさっさと帰れ」
恐ろしく冷たい声で、吐き捨てるようにケインは言った。
表情も暗く、殺気を孕んだ眼を向ける。
顔つきとは裏腹に、その胸中はめらめらと怒りの炎が燃え滾っている。
ケインとは逆に冷静さを取り戻したか、2人の男は数歩下がると、それぞれに武器を構え、見せびらかすようにして威嚇する。
少女は震えながら、ケインの背中にぴったりとくっつく。
「なんだテメエ!?この女の仲間かよ!」
「不意打ちかましやがって!汚ぇぞ!」
ケインの眼はますます鋭く、冷たくなっていく。
「お前らこそ、女の子攫って金儲けなんて、人間のやることじゃねえな」
指の関節を鳴らし、敵意をむき出しにして言い放つ。
「もう一回言うぞ。死にたくなけりゃさっさと帰れ。こちとらお前らみたいな野盗共の始末は初めてじゃねえんだよ」
盗賊の一人が雄叫びを上げ、棍棒を振り回しながら突進する。
ケインはズボンの左ポケットに手を突っ込む。
ポケットから木の実を取り出し、親指で弾き飛ばすと、それは男の鼻っ柱に命中した。
動きが止まったのを見逃さず、鳩尾を殴りつける。
男は悶絶し、その場に倒れ込んだ。
残った最後の一人は、その様子に絶句している。
ケインはその男に目を向け、冷たく言葉を投げかける。
「そら、さっさとこいつら持って帰れ。まだ生きていたいだろうがよ?」
男は歯軋りすると、ナイフを両手で持ち、そのままケインの腹めがけて走り出した。
ケインはふぅ、とため息を漏らすと、凄まじい速度で蹴りを放つ。
それに怯んで目を瞑った男が再び目を開くと、ナイフの刃がなくなっていた。
今の蹴りで、刀身が丸々飛んでいってしまったのだ。
飛ばされた刀身は、くるくると宙を舞うと、最初に殴り倒された男の肩に突き刺さった。
「あででででで!!」
不意の激痛に跳ね起きる男の声を聞きながら、ケインは冷静さを取り戻し、残った男に笑いかける。
「お前らには魔術も剣も必要ない。そっちの武器はもう品切れみたいだけどな?」
ナイフだったものを右手に握りしめたまま、男は懐に左手を忍ばせる。
しばらくケインの様子を伺っていたが、何も攻撃してこないのを確認すると、懐から拳銃を取り出した。
「!!」
背後で少女の全身が強張るのを、ケインは感じ取っていた。
当のケイン本人はというと、冷静そのものと呼べるほどにクールダウンしていた。
それに気付いてはいない様子で、男は笑うと、ナイフだったものを投げ捨て、両手でしっかりと構え、銃口をケインの胸元へ向ける。
「あへっへっへぇええ。こ、こいつにはど、どうするってんだよぉおへへへへ」
「さあて、こうするかな」
そう言うとケインは、左ポケットからまたしても木の実を一つ取り出す。
掌に乗せ、男にしっかりと木の実だとアピールする。
「…なんのマネだ?」
「そっちの弾とサイズは一緒ぐらいだろ。これで十分だ」
「ふざけてんのか!!」
「大真面目だよ。俺は気に入った台詞は何度も言うタイプだからもう一度言ってやるけどさ。お前らには魔術も剣も必要ないんだよ」
激昂する男に対し、ケインは余裕の笑みを見せつける。
男が引き金に指をかけると同時に、木の実を親指と人差し指で摘まみ、胸の前で構える。
「……死ねやぁ!!」
男が引き金を引く。
銃声が鳴り響く。
ケインの目は、銃口から放たれた弾がはっきりと見えていた。
それが目の前に接近したのを確認すると―――。
「りゃっ!!!」
左手を思い切り振り、持っている木の実に銃弾をぶつけ、弾き飛ばす。
銃弾は男の右足首に命中した。
男は声にならない悲鳴をあげ、その場でうずくまる。
銃弾で半分欠けてしまった木の実を食べてから、ケインは最後の警告を言い渡す。
「さあ、もう十分だろ。まだ軽い怪我で済んでる今のうちに引き上げないと、帰れなくなっちゃうぞ?」
ケインのその台詞を最後まで聞くことなく、うずくまっていた男は立ち上がり、肩にナイフが刺さった男と二人で、気を失っている三人目を担ぐと、そのまま走り去っていった。
その姿が見えなくなるまで見届けてから、ケインは少女の方へ振り返る。
少女の表情は、安堵で満ちていた。
「あ……あの、ありがとう、ござい、ます」
少女はたどたどしく礼を言う。
改めてケインは少女を見る。
成程、盗賊が言った通りに肌は白く、瞳は金色に輝き、髪は長く艶やかな黒色をしている。
一見すると小柄に思えたのだが、実際のところボディラインは出るところはしっかりと出ており、むしろ「そこ」だけ見ると大きい印象を受ける。
身に纏う白いワンピースが、より煽情的なものにケインには思えた。
盗賊たちが目をつけるのも無理はないな、と思ったところで、すぐにはっとなり、頭を振って煩悩を断ち切ろうと試みる。
ふと疑問が頭をよぎったので、そちらに考えを巡らせて解決を図った。
山に来るのに似つかわしくない。
魔獣が出てくる心配はほぼないにしても、今のように盗賊が出るような地域だ。
それなのに、少女がたった一人でこんな所に。
一体、何の用で。
「君は、どうしてこんな山まで来たんだい?」
「私の名前はククって言います」
「あ、ああそう。俺はケイン。よろしくね」
そっちはまだ聞いてないんだけど、というツッコミはひとまず飲みこむ。
「君は、どうしてこんな山まで来たんだい?」
再度同じ質問でトライする。
同じことを言うのは、ケインにとってさほど苦ではなかった。
「私、人を探してるんです」
「人?」
「クラリって言うんですけど、どこにいるのかわからなくて…」
もじもじした様子で、ククはそう言った。
どこにいるのかもわからない人を山まで探しに来たのか。
少しばかり天然な子なのだろうか、とケインは思った。
それとも、何か言えない事情でもあるのか。
いずれにしても、こんなか弱い少女を放っておくことは、ケインにはできなかった。
下心は、一応なしで。
「こんなところに一人でいちゃ危ないよ。君、お家はどこにあるの?良かったら送ってくけど」
「それもわからないんです」
「は?」
思わず口から出てしまっていた。
お家を聞いてもわからないなんてことがあるのか。
名前を聞く前に自分から言い出したことがせめてもの救いか。
余り深く詮索するのは良くないだろう。
放ってもおけないが、深入りしたら何か面倒なことになりそうな気がした。
「じ、じゃあ、俺これからウェルダンシティって街に行くんだけど、良かったらどう?」
「ぜひ!すみません、私、こないだ出てきたばかりで、この辺りのこと全然詳しくなくて」
ククは明るい笑顔で答えた。
その可愛らしい顔に、思わず頬が緩むケインだったが、すぐに頭の中で先程のククの言葉を思い返す。
こないだ出てきたばかり?
意味がよくわからなかったが、ひとまず忘れることにした。
何故なら、
「じゃあ行こうか。ところでクラリってのは、君のお姉さんかなにか?」
「いいえ、私もよく知りません」
「その服可愛いよね、どこで買ってもらったの?」
「いつの間にか着てました」
「………歳いくつ?」
「300歳ぐらいです!」
そんな問答を繰り返す内に、この子の言うことを一々気にしていられないと思ったからだった。
日が完全に沈み、月が真上に見える頃。
二人の目の前にウェルダンの街並みが広がっていた。
「わー!」
「つ……着いた……」
はしゃぐククとは対照的に、ケインはぐったりした様子だった。
肉体的に疲れたわけではない。
ククと話していく内に、精神がどんどん擦り減っていく感覚を味わっていたのだった。
宿屋を指す看板を確認すると、二人はそこで別れることにした。
「お金持ってるの?宿賃200ジェジェぐらいみたいだし、それぐらいあげるよ?」
「大丈夫です!いっぱい謝って許してもらいますから!」
「踏み倒す気かよ!!手出して!!」
そう言うと、バッグから500ジェジェ分ほどの金貨を取り出し、ククに握らせる。
「ちゃんとポケットに入れて!絶対人に見せちゃ駄目だから!」
「わあ…ここまでしてもらって……ありがとうございます!」
少しばかり顔が赤くなったのを自覚しながら、ケインは顔を背ける。
看板を指差して、ククに言う。
「この宿屋、住み込みアリでお手伝い募集してるみたいだから、しばらくお世話になったらいいよ」
ちゃんと手伝いができるならの話だけど、と付け足すのはやめておいた。
むしろお世話になってくれないと、困るのはケインなのだから。
「ケインさんは宿屋行かないんですか?」
「行くかもね。でもまずは腹ごしらえだ。宿屋にも食事はついてるらしいけど、ちょっと今日はガッツリ食べたい気分でね」
その言葉に嘘はなかったが、同じ宿屋で泊まる気はなかった。
これ以上一緒に過ごしていると、旅どころではなくなる気がしたからだ。
「お別れ……ですか……」
その言葉に、少しばかり申し訳なく思い、ケインはククの目を見る。
「でも、きっとまたすぐ会える気がします!」
「……そうだね」
慰めに言おうとしていた言葉を先に言われてしまい、返事がやや遅れる。
それでも、ケインは笑顔だった。
すぐにではなくとも、また会いたいと思った。
下心は、一応なしで。
「じゃあ!またね!!」
「またねです!!」
手を振り合うと、ケインはそのまま飯屋を探しに歩き出した。
ケインの後ろ姿に手を振りながら、ククは呟く。
「また会えますよ。あなたが勇者である限り」