第9話 魔女の森
森に逃げ込んだケインは、あてどもなく彷徨っていた。
この森が世界のどの辺りに存在するものなのか、近くに町はあるのか、などを確認しようとして、そこでようやく地図や退魔指南書などが入ったバッグがないことに気付いた。
シマシマに預けたまま、返してもらうのを忘れてしまっていたのだ。
辺りには道らしい道もない。
仮に地図を持っていたとしても、到底正確なルートなどわかりそうもなかった。
そもそもケインが持っていた地図は森のことなど載っているはずもない世界地図だったので、最初からほぼ無意味だったのだが。
慌ただしい出来事の連続から解放され、忘れていた空腹感が戻ってくる。
最後に食事をしてから既に丸一日が経とうとしていた。
非常食も全てバッグに入っていたために、森に生息する植物や動物を狩って飢えをしのぐ他はない。
ケインは派手な色と模様をしたキノコが木の根元にいくつか生えているのを見つけると、火炎魔法で軽く炙って食べ、そのまま眠りについた。
それから3日経ってもケインは森から脱出できずにいた。
3日前に食べたキノコにあたったこととはほぼ無関係に、純粋に迷い続けていた。
歩けど歩けど、まるで出口らしいところが見つからない。
途中、10人グループの盗賊に遭遇し、襲撃を受けたのを返り討ちにした後、出口はどこかと尋ねたが、その盗賊たちも森から抜け出せずにいる迷い人だった。
その中の一人が、この森を『魔女の森』だと言い、一度入ったら抜け出せない死の森と呼ばれていることを教えてくれた。
にも拘わらず何故そんな森に入ったのかと訊くと、危険を冒してでも手に入れたいお宝がこの森にはあるからだと言っていた。
どんなお宝かまでは教えてはくれなかったが、ひとまずの礼を述べ、次に襲い掛かったり悪事を働いているのを目撃したら殺すと忠告した後、彼らと別れた。
野ネズミを捕まえ、それを焼いて食べながら、この森について考える。
魔女の森、そう呼ばれるのなら、魔女がこの森にいるということなのか。
もし本当に魔女がいるのだとしたら、それは果たして人間なのか、それとも魔獣の生き残りなのか。
魔女と分類される魔獣は存在しないが、それに近いものならケインは知っている。
ニアヒューマンという中級魔獣だ。
姿かたちや知能は人間に限りなく近いが、獣のような耳が頭頂部にあり、人間以上に膨大な魔力を持つと、退魔指南書に書かれているのを覚えていた。
その生き残りがこの森を支配し、旅人を迷わせているのだろうか。
だがすぐさまその考えを自分で否定し、首を振る。
中級や上級の魔獣でさえ、今は瘴気が発生する場所にしか生息していない。
魔界の他にあと一ヶ所だけ魔獣の住処があるらしいが、瘴気を放っている様子が感じられない以上、この森はその魔獣の住処ではない。
であるならば、この森にニアヒューマンや魔獣はいないのだ。
そう考えると、いずれは脱出できる希望が湧く気がした。
脱出できたところで、何かをしようという明確な意思を、ケインは今持ち合わせてはいなかったが。
中級以上の魔獣と戦えるだけの実力に、自分はまだ達していない。
例えそれらと戦えたとして、その先にいる魔王ゴアが今どこにいるのかがわからない。
いや、出会った者たちの口振りから想像するに、魔王は…。
考えながら右腕のミサンガ、勇者の証を見ると、無性に腹が立ってきた。
思わずそれを左手で引きちぎろうとした。
だが、勇者の証はびくともしない。
「は?」
ケインは剣や火炎魔法でミサンガを切ろうと試みた。
それでもミサンガは全くの無傷で、逆にミサンガを巻いているケインの右腕は、火傷を負ってしまった。
「俺はミサンガにも負けるのか…」
情けなくそんなことを呟いて、また立ち上がって歩きだした。
森に入って、既に10日が経過した。
弱りゆく体力のせいでロクに動物を狩ることもできず、空腹と無力感に苛まれ続けながら、ケインはあてどもなく歩いていた。
目は虚ろで、森から抜け出せる希望など、もはや彼の頭の中にはない。
ただ、村に帰りたかった。
村の光景が目の前にぼんやりと浮かぶ。
脳が勝手に作り出した幻影に向かって歩いているケインは、実際の目の前が急な下り坂になっていることに気付かず、そのまま転げ落ちた。
浮遊魔法を使うこともなく、一切の抵抗もせず、重力のままに転がり続ける。
坂を下りきり、うつ伏せの状態で止まる。
服は泥だらけ、全身は傷だらけで、空腹が極まり起きる気力も湧かない。
誇りを持って村を出たはずなのに、何故こんなことになってしまったのか。
ケインはひたすらに惨めだった。
しばらくそのまま泣いてから、顔を上げないまま考え込む。
海賊たちはどうしているだろうか。
女王との戦いには勝てたのか、それとも負けて、死んでしまったのか。
もし勝てていたのだとしたら、あのまましばらくは船に乗っていた方が安全だったろう。
こんなにボロボロでも、海賊になるつもりはまだないが。
サラミ婆さんの料理が食べたい。
金は持ってないが、あの街でバイトして、貯金して、腹いっぱい食べたい。
あれがまた食べられるなら、どれだけ目の前でうるさく叫ばれようが、構わない。
そういえばククはどうしただろう。
探していた人には無事会えたのだろうか。
ちゃんと食事は摂れているだろうか。
また盗賊に襲われたりはしていないだろうか。
もし村に結局帰れないまま、また彼女と再会できたら、もう彼女のために生きてもいい。
こんな自分を必要としてくれたらの話ではあるが。
無力感のあまり、現実的な問題から目を背けながらそんなことを考える。
勇者の使命などはどうでもよくなりつつあった。
ようやく顔を上げ、辺りを見渡す。
前方に小屋のようなものが見えた。
助かった、のだろうか。
立ち上がり、先程転んだ痛みも忘れ、小屋の方へ歩き出す。
近づいてみると、小屋の周辺の木々に、林檎のような実がいくつも生っていた。
それはまるで不吉さを孕んでいるかのように黒く、しかしいかにも食べごろだと自己消化しているかのように艶やかだった。
ケインはごくりと生唾を飲むと、その果実に手を伸ばす。
小屋から誰か出てきても、いっぱい謝って許してもらおう、そう思いながら果実を掴み、捥ぎ取ろうとした時だった。
「食べちゃ駄目だ!死にたくなかったらな!」
ケインが予想した通り、小屋から男がライフル銃を構えて飛び出してきた。
それを真っ直ぐケインに向けているが、ライフルはケインにとっては脅しの道具に値しない。
「すみません、一個だけでいいんです。これ食べないと飢え死にしそうなんです。お願いします。一個ぐらい、いいでしょ?」
そう言ってケインは果実を捥ぎ取り、口に運ぶ。
「ひと口でも齧ったらお前は死ぬことになるぞ!そこで止まれ!!止まるんだ!!」
男は警告を繰り返す。
撃たれたところでどうということはないのだが、一応ケインは男の方を振り返って言う。
「ライフルで撃ったって俺は死にませんよ。一応勇者ですからね」
「おまえ……ケインか!?」
男は目を丸くして言った。
ケインも、その男には見覚えがあった。
「ひょっとして……あなた、ブンさん!?」
その男は、ケインより5年早く村を出た三十九代目の勇者、ブン=グリューであった。
ブンの右腕にも、ケインと同様に勇者の証のミサンガが巻かれている。
予想もしなかった再会を、二人の勇者は純粋に喜び合った。
しばらくしてから、ブンはケインの持っている果実を取り上げて言った。
「これは食い物じゃないんだ。飯なら小屋の中で食わせてやるから早く入れよ」
「銃で脅しながら言うから撃ち殺すぞって意味だと思ったじゃないですか。なんなんですかこの林檎…みたいなもの」
「いいから中に入れ」
ブンの言うまま、ケインは小屋の中へ着いていった。
小屋には、ブンの他に中年の男と黒いフードを被った若い女がいた。
女は机に置かれた水晶玉を眺めている。
ちらりとケインを見たが、すぐに無言のまま水晶玉に目を戻した。
中年の男がブンに言った。
「君、勇者かい?」
ブンに促されるままにケインは椅子に腰かけ、干し肉を手渡される。
男の左腕にミサンガが巻かれているのを見てから、ケインは答える。
「あ、はい。ケインといいます」
「親父、ケインはガンギさんの息子だよ。ズパーシャ家だ」
ブンからの言葉に、男は少しばつが悪そうな顔をしながら言った。
「そうかい、よく来たなケイン。俺はスカー。このブンの父親で、三十五代目の勇者だ」
スカーの語気はどこか頼りなく、弱々しい印象を受ける。
何故かはわからないが自分が来たせいで機嫌が悪いのだろうかと思いながら、ケインはひとまず目の前の干し肉にかぶりつく。
ぺろりと平らげると、フードの女を見ながら言った。
「あの…その人は?」
女は自分のことを言われていることにまるで関心がない様子で、構わず水晶玉を覗き込んでいる。
そこにブンが割って入った。
「クラリってんだ。この小屋の主人だよ」
「クラリ?」
どこかで聞いた名前だったが、どこだったかが思い出せない。
そんなケインを、またクラリはちらりとだけ見ると、また無言のまま水晶玉に向き直る。
なんとなく気まずい雰囲気の中、ブンは気さくに話す。
「ここまでよく無事で来られたなケイン!大変だったろ!」
「あなたたちこそ、よくご無事で……いや、違うな……」
ケインは考え込む。
とっくに死んでいるものと思っていたはずの勇者たちが生きていた。
だが、旅の道中に魔獣がいなかったことを考えれば、生きていても何ら不思議はないのだ。
さっきまでの自分のように、野垂れ死ぬ可能性は十分あったにしてもだ。
あるいは他の勇者たちも、まだ生きているのだろうか。
15年前に勇者に選ばれた父も。
そんなことに思いを巡らせているケインを察して、ブンはまた声をかける。
「…まあ、生きててもおかしくはないよな。魔獣に殺される心配はないんだからさ」
「……ええ」
「その様子だと、魔獣が魔界ともう一ヶ所にしかいないことは知ってるんだろ?」
「知ってます。それと、一つ。まだ推測でしかないんですけど、答えてもらえますか?」
ケインは神妙な面持ちで、ゆっくりと、この10日間で考えていた可能性について尋ねた。
何故、魔獣の勢力がそこまで衰退したのか。
何故、魔王は、魔界にいなかったのか。
そこから導き出される、一つの可能性について。
「魔王ゴアは、もうこの世にはいないんですか?」
その問いかけに、二人の先輩勇者は黙り込む。
ケインはクラリがこちらに視線を向けているのに気づいて、そちらを見た。
この女は何か知っているのか、そう思って言葉をかける前に、ブンが口を開いた。
「そうだ。魔王ゴアは既に死んでいる」
推測した通りの答えだった。
それでも、ケインにはわからないことだらけだったが。
わからないことがありすぎて、何から訊けば良いのかがまずわからない。
ブンはスカーの横に椅子を持ってくると、そこに腰かけながら言った。
「今から親父と俺が話す内容は、20年以上かけて親父が調べたことだ。全部が全部真実とは限らないが、俺たちは間違いないと判断して話すことだ」
スカーもきまり悪そうにではあったが、ブンの後に続いて話し始めた。
「順序良く教えてやった方がいいだろうな」
「お願いします。200年の間に魔王が誰に倒されて、この世界に何が…」
「ちょっと違う」
スカーがケインの言葉を遮る。
驚くケインの顔を見て、スカーは苦笑しながら続けた。
「今からそんな顔してたら、話し終えた時にどんな顔になってることやら。まず、魔王ゴアは確かに倒された。しかしそれは200年の間じゃねえ」
次にスカーが発した言葉は、ケインには到底信じられない内容だった。
「魔王を倒したのは、初代勇者、ドーズ=ズパーシャ様だ」