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生い立ち(大学時代)

7 生い立ち(大学時代)


 東京郊外にある国立大学に入学する事になり、私は大学の寮に入りました。人付き合いが苦手なことは百も承知の私が寮生活を選んだのは、経済的な理由が一番ですが、あえて寮生活をすることで、自分の対人コミュニケーション能力を高めることが出来るのではないか、という思いもありました。ところが、コミュニケーション能力を高めるどころか、入寮初日からアスペルガー症候群的言動丸出しでした。


 寮は築40年の代物で、鉄筋コンクリート造の四階建て、部屋数は総計40部屋位はあったと思います。一部屋は四人部屋の構造でした。廊下から鍵のないドアを入ると、畳敷きの8畳間があり、ここが夜は四人のルームメイトが川の字に布団を敷いて寝る空間。その奥が6畳の板の間、その先が掃き出し窓で、窓の外はベランダ。板の間には両側の壁に向かって机がそれぞれ2つ、机の上には作り付けの本棚がありました。食堂は朝夕の食事が出る。トイレは各階に1箇所の共用。トイレの個室の壁には、猥褻な落書きがあり、そこで自慰をして壁に向けて射精した跡だと明らかに分かる染みが無数にありました。洗面所は各階に1箇所、横長で深さのある一続きのステンレス製のシンクに蛇口が一列に10個くらい並んだもの、洗面所のシンクの反対側には共用の洗濯機が5~6台ありました。洗面所には冷蔵庫が1台あり、冷蔵が必要なものは、この中に名前を書いて入れました。風呂は寮の1階に大浴場がありました。昔の男子学生寮とは、こんなものだったのです。

 このような構造の寮なので、入寮にあたっては、衣類と学用品さえあればよかったのでした。


 入寮日、父親が運転する車に荷物を積み込んで行きました。荷物はプラスチック製の衣類ケース2個と段ボール箱3個位だったと思います。

 寮に到着し、受付で手続きを済ませると、4階の部屋の部屋番号を教えられました。他の同室者3名は、いずれも今日入寮する新入生で、既に2人到着していると教えられました。

 私と父は、とりあえず衣類ケースを1つずつ持ち、段ボール箱3個は後で運ぶことにして、階段を上って部屋に向かいました。部屋に入ると、先着した2人と対面し、簡単な挨拶を交わした後、残りの段ボール箱を運ぼうと部屋を出ると、2人は頼んだわけでもないのに、私と父の後について一緒に荷物運びを手伝ってくれたのです。私は初対面の同室者からの意外な親切に驚き、そして内心、こう考えました。「この2人は人に親切にすることが好きなんだな、だから頼まれもしないのに、自分から荷物運びを手伝ってくれるのだな」と。実際のところ、このような状況で荷物運びを手伝うことは、親切を施すのが好きかどうかの問題ではなく、当たり前の社会的行動なのでしょうが、私にはそれが分かりません。

 3人が畳の8畳間に車座に座って他愛ない世間話をしている間に、4人目の同室者が到着しました。先の2人は、待ってましたとばかりに立ち上がって、4人目の残りの荷物を運ぶために部屋を出て行きました。ここで私も立ち上がって荷物運びに加わるのが当然でしょう。しかし、私は立ち上がることをせず、その場を動かなかったのです。私の内心は「荷物運びを頼まれたわけでもないのにやる必要はない。先の2人は親切を好きでやっているのだ。自分は親切を施すのが好きなわけではない」という考えで、手伝うことをしなかったのです。

 この荷物運びの件一事をとっても、入寮初日に同室者の3人は私をどう思ったことでしょう。対人コミュニケーション能力を磨くどころか、初日から人間関係を壊すようなことをやったのです。

 これが、寮規則か、あるいは事前に入寮者に対する指示として、「入寮日に先着した人は、後から到着した人の荷物運びを手伝うこと」というようなことが1行書かれていたならば、きっと私は他の誰よりも率先して、他の部屋の人の分まで、後から到着した人の荷物を運んでいたのではないか思います。そして、付き合わされた同室者たちが「もう程々にして、部屋に引き上げようよ」というサインを送ってきたとしても、私は、どこまでも最後の一人までが到着するまで、荷物を運ぶことにこだわって、これはこれでひんしゅくを買うのだろうと思います。アスペルガー症候群とはそのような性質を持っているのです。


 他に、寮での私の問題行動として思い起こされるのは、ラジカセを大音量で使用することでした。私が好きな歌手のCDを、朝起床してから身支度をして授業に出掛けるまで、フルボリュームで流したのです。私にとっては、これが朝一番に元気を奮い立たせる特効薬でした。高校生の頃から自分の部屋の中で習慣的にやっていたことでした。しかし、相部屋の寮で暮らす他の人にとっては、これが不快であることは間違いないでしょう。

 ラジカセの音について、同室者や部屋の前を通る人から、苦笑いされたり皮肉を言われても、私はそれで行動を変えるようなことはありません。むしろ、「みんなこの曲を聴けば元気になるんだ。この歌手の良さをみんなに分からせてあげるんだ」と本気で考えていたのでした。


 また、一日の授業が終わった後、同じクラスの中に寮居住者がいると、自然の流れで寮まで一緒に歩いて帰ることになります。大学の敷地は広大で、教室の場所によっては、寮まで歩いて20分位はありました。この区間を人と並んで歩いて帰ることは、私にとってかなりの心理的な負担でした。よほど話題が豊富で一方的に喋り続ける人なら、適当に相槌を打ったりしている内に過ぎますが、そうでなければ、会話に詰まり、重苦しい空気の中で長い道のりを歩くことになり、私自身が負担に感じるだけでなく、私と一緒に帰らなくてはならなくなった相手も、さぞかし嫌な気持ちにさせたことだと思います。

 私は、寮までの長い道のりを、なるべく寮居住者と一緒に帰らなくて済むように、何かと理由を付けて時間をずらして帰るようにしていましたし、人と一緒に帰ることが苦手なこと(これは人と他愛ない世間話をしながら時間を潰すことが出来ないことと同じ事です)を周りに悟られたくないという思いから、寮から教室までの行き帰りに、歩きながら本を読むことにしました。歩きながら本を読むことは、最初は揺れる文字を読みづらく感じましたが、馴れると大学構内を歩く時だけでなく、一般の公道を歩く時でも、いつでも本を読みながら歩くようになりました。歩きながら本を読む習慣は現在まで続いて、おかげで読書量は一層増えることになりました。


 大学の寮生活にコンパ、酒盛りは付き物です。何処かの部屋で集まって飲み、食堂の一テーブルを囲んで飲み、また居酒屋に行って飲みました。

 私は、生来酒には強かったのだと思います。順番で一気飲みをしなけらばならないような時でも、私は最後まで酔い潰れないでいるのでした。

 しかし、私は人と一緒に酒を飲んで、何が楽しいのか全く分かりませんでした。3~4人で居酒屋に入って、いつも顔を合わせている人と、改めてテーブルを囲んで向かい合って酒を飲み、数千円の代金を払うという行為に、私は無駄以外の何物も感じませんでした。

 馬鹿話をしながら、冗談を言い合いながら、腹の底から大笑いしている同席者達を不思議な思いで見ながら、自分なりに調子を合わせているつもりでその場に座っていたのです。

 お酌をしたり、グラスを持ち上げてお酌を受けたり、といった酒の席での作法のようなものも、しっくりと感じたことはありませんでした。自分が飲みたい時に飲みたい量だけ自分で注げばいいと今でも思います。

 アスペルガー症候群は、酒の付き合いが苦手だと言われていますが、その通りで、とにかく居酒屋のような場所で人と顔を付き合わせていることが、全く楽しくないばかりか、何か会話しなければならないと思い、話題を切り出そうとしても思いつかず、会話に詰まり、息が詰まるような感じになるのです。 


 こんな調子ですから、同室者との関係も悪くなり、また、他の寮居住者の間でも評判は悪くなり、寮の中で浮いてしまいました。結局、寮には1年間住みましたが、これ以上寮生活を続けるのは難しくなり、寮を出てアパートを借りて住むことになりました。


 大学でのサークル活動は、吹奏楽団に入りました。私は高校生の頃からピアノに夢中となっていたのですが、私は移り気な性格でもあり、図体の大きい据え置きの楽器であるピアノとは違う、小さくて何処にでも持ち運べるような楽器をやりたいと思うようになりました。そして、フルートをどうしてもやってみたくなり、フルートは全くの初心者ですが、フルートパートを希望して吹奏楽団に入ったのでした。

 この吹奏楽団は、楽器を介した仲間で集まってサークルとして学生生活を楽しもうというようなスタンスでした。また、近隣の女子大生や短大生も参加していました。

 楽器の練習は程々にして、コンパやテニスや海水浴といったレジャー活動にいそしむような、典型的な学生サークルといった感じでした。ただ、1年生から4年生までの年次ごとに、様々な場面で階級的な差別を付けるような、体育会的な風習も併せ持った、ある意味へんちくりんなサークルでした。

 年次ごとの差別とは、4年生は就職活動等で忙しいので、サークル活動には参加したい時だけ参加。3年生は会長等のサークルの役員をやる。2年生はコンパやレジャー活動や学園祭等の企画(幹事)役。1年生は、2年生の仕事の手伝いをしながら、いずれは2年生になったときにコンパやレジャー活動や学園祭等を企画出来るように要領を覚える。といった感じでした。学生が卒業後に巣立っていくことになる、会社組織等の中での上下関係の棲み分けにも似たようなところがある点では、高校生までは受験一辺倒で来た大学生が、吹奏楽を名目として集まり、遊びを通じて、社会人としての素養を涵養していくような意味合いもあったのかもしれません。

 しかし、私はこのサークルの遊び中心的なところが馴染めず、というかサークルのあり方が間違っていると思い、吹奏楽団なのだから、それこそ明けても暮れても楽器の練習に打ち込むべきなのだ、というような考えを周囲に表明していたと思います。当然、先輩からは生意気だと言われ、サークルの中で浮いてしまいました。そんなことなら、サークルなど辞めればいいのかもしれませんが、私は、音楽を中心に考えている自分が正しく、間違っているのは他のサークル員なのだからという考えで、辞めることなくサークルに参加し続けました。

 私は楽器の練習だけは徹底的にやりました。空き時間があればサークル部屋に行きフルートの練習をし、ヤマハの教室に個人レッスンを受けにも行きました。演奏の技術は高まり、サークルが長年来に渡って指導と指揮者を依頼している、プロの音楽家からも高く評価されるようになりました。サークルにとって特別の存在である指導者から一目置かれていたこともあり、上級生達にとっても、辞めさせる訳にもいかず、扱いに困るような存在だったと思います。


 週に1回集合練習がありました。集合練習の後は、皆でファミレスに行って、アルコールを含めて銘々好きなものを頼んで時間を過ごしました。そろそろお開きという頃に、2年生の先輩が伝票を見ながら、飲食代金の取りまとめを始めました。小銭がなく、お札を出してきた人には、それぞれ計算してお釣りを渡したり、4年生が「お釣りはいらないよ」と言いながら多めにお金を出したり、いずれにせよ面倒な作業であることは間違いありません。私も小銭がなければ、千円札を出して先輩からお釣りをもらいました。しかし、このような場面では、1年生である私が飲食代金の取りまとめをしなければならない場面ですが、アスペルガー症候群である私が、そのことに自分から気付くことはありません。2年生の先輩にしても、私が気付いて、自分からお金の取りまとめを代わってくるものと思っていたことでしょう。私はこの時、2年生の先輩が自分から飲食代金の取りまとめを始めた姿を見て思ったことは、「この人は皆のためにお金を取りまとめるのが好きでやっているんだな、親切で奇特なひとだなぁ」となるのです。アスペルガー症候群である私が、このような仕事をやるには、「飲食代金の取りまとめは、末席である1年生の仕事なのだよ」と具体的に言われないない限り、やろうとしないのです。


 恋愛と性体験について話そうと思います。

 吹奏楽団の同級生に、綾という女性がいました。同じ大学ではなく、近隣の短大に通っていました。綾も楽器はフルートでした。

 綾は色白の下膨れな顔立ちで、ちょっと垂れ目気味で、睫毛の長い、伏し目がちの大きな瞳が印象的な、おとなしい印象の、とても可愛らしい女性でした。

 綾はサークルの男達の間では、上級生も含めて一番人気があったと思います。私も熱烈に綾に惹かれていました。

 綾は幼児のころからピアノを習っていましたが、フルートは初めてでした。フルートに漠然とした憧れがあって、短大生になったらやってみたかったのだそうです。私もフルート初心者でしたが、猛烈に練習をしたこともあって、綾に教えることが出来る程になっていました。

 集合練習日以外に、サークル室で二人だけで練習をしたり、私は綾を射止める絶好の位置にありました。サークル室には、教育学部の音楽科からもらい下げた古いアップライトピアノがあり、私は練習したジャズスタンダードナンバーをピアノで弾いて聴かせ、綾が「この演奏をカセットテープに録音してもらえたら、家で何度でも聞きたい」と言った時には、本当に嬉しく思ったことを覚えています。

 そのうちに、練習だけでなく、二人だけでデートを重ねるようになりました。

 綾は、私が初めて付き合った女性でした。綾の外見も性格も、完全なる理想の女性像と思いました。これは一種の刷り込みのようなものだと思います。綾を理想の女性だと思う気持ちは、現在、妻もあり、子供がいる今となっても変わりません。

 サークルの他の男達からは、綾を取られたということで妬まれました。方や私は、一番人気の綾を「我が物」にしたという気持ちで、鼻高々となり、キャンパス内をこれ見よがしに手を繋いで歩いたりしました。私は綾との交際に夢中で、毎日夜は電話を掛け、無口で会話が苦手な私がよくもここまで次々と話題を繰り出せたものだと思うほど、一生懸命彼女と電話で話しました。

 私は、性欲が人と比べて異常に強い(と自分で思っている)、ということは前にも書きました。綾が理想の女性ということは、性欲の対象としても理想的だったのです。私は、綾に対して欲望の丈を余すところなくぶつけました。背徳的な行為もしました。行為の終わった後、綾は泣きました。何故泣くのか尋ねると、優しかった私が急に変わったからだ、とのことでした。綾は、決して泣かない女性でした。映画の感涙するような場面でも、卒業生の追い出しコンパで、卒業生からの挨拶場面で、他の女子学生達が皆ハンカチを鼻に当てて涙を流しているような場面でも、綾は泣かないのでした。そのこともあって、綾が泣いた時のことは強く印象に残っています。

 私は、一途に強く綾のことを想い、男女を問わずサークルの誰に対しても、綾は自分の独占物であるかのような態度をとったと思います。大学卒業後に結婚することを申し込みもしました。ただ、綾にとっては、私のような「変わった人」と交際し続けることは出来ないし、結婚相手としても相応しくないと思ったのでしょう。交際して数ヶ月後のある日、行きつけのファミレスで、綾は突然、私にきっぱりと別れを告げると、直ぐに席を立って店を出ていきました。私にとっては晴天の霹靂でしたが、綾は長い間考えた末の事だったのでしょうし、それまでにも、これ以上私と交際を続けられないという、警告やサインを送って来ていたのだと思います。しかし、アスペルガー症候群の私がそのようなサインに気付くことは出来ませんでした。

 私は、お互いに好き合っていることを確認した恋人同士であれば、好きであることを動機とするどのような言動も、許されるものだと思っていたのでした。それを、綾が全て受け入れて、好きだという気持ちから来ていることだからと許せるはずがありません。

 時期は1年生の終わり頃のことでした。綾は短大生なので、2年生から就職活動が忙しくなるから、という理由で、吹奏楽団サークルを辞めてしまいました。


 綾と別れた私は完全に打ちひしがれた状態でした。サークルの中で誰もが憧れていた綾と付き合っていたことで、それまで得意絶頂であった反動も大きく、周りの誰からも「ざまあみろ」とせせら笑われているように感じました。

 私は、生まれて初めて、死にたいと思いました。サークルの仲間が、私の失恋を嘲笑っていることへの反発心から、自殺だけはやるまいと思っていましたが、道を歩きながら、すれ違ったり追い越して行ったりする大型トラックが、ハンドル操作を誤って、自分をひき殺してくれれば良いのに、等とばかり考えていました。

 男女を問わず誰でも、失恋によって死にたいと思うほどに悩むことはあるでしょうし、私が綾にふられて死にたいと思うことは、特別のことではないと思います。そして、失恋の傷も、誰でもそうであるように、長い時間だけが癒しとなり、小さくなって行きましたが、決し消えることはありませんでした。


 綾と別れた後、私は、好感を抱いた女性のことを、誰でも「綾」と名付けるようになりました。さすがに相手に直接「綾」と呼びかけることは憚りましたが、私の中では「綾」なのです。

 後に社会人となり、浮き世の付き合いとして、ナイトクラブのようなホステスが接待してくれる店にも行くようになりました。私は勿論、そのような店に行っても楽しくはありません。ホステスが隣に座ったところで、話したいこともなく、ホステスが相手でも会話に詰まったりすれば、かえって自己嫌悪になるだけです。それでも、多少なりとも波長が合って会話が弾むホステスや、容貌が好みのタイプのホステスがいれば、私はその女の子を「綾」と呼びます。相手がホステスであれば、もともと店での名前も源氏名なのだし、失礼には当たらないと思うからです。それにしても、ホステスに感心する事は、私が相手構わず「綾」と呼ぶことについても、大爆笑や大盛り上がりの種にしてしまうことです。

 私が、好感を持った女性を一方的に「綾」と名付ける習性については、これまで深く気に留めることもなかったのですが、最近、アスペルガー症候群の著述家であるジョン・エルダー・ロビソンの著書『眼を見なさい!アスペルガーとともに生きる』、『変わり者でいこう あるアスペルガー者の冒険』、『ひとの気持ちが聴こえたら:私のアスペルガー治療記』を読んだところ、この著者も弟や恋人や妻を本名で呼ばず、自分で別に付けた名前で呼んでいたことが書かれています。もしかしたら、人を自分独自の名付けで呼ぶことは、アスペルガー症候群と何か関係があるのかも知れません。


 大学4年となり、就職活動をすることになりました。我ながら、私のように対人関係が苦手な人間が、まともに就職できるのだろうか、就職したとして社会人として通用するのだろうかと不安でした。また、学生寮や吹奏楽団サークル等で、私を知っている誰もが、私が企業に就職して社会人としてやって行く事などは無理だと思っていたことでしょう。

 私を含めた大方の予想を裏切り、私は現在勤務している一流大企業への就職が内定しました。

 この当時、発達障害やアスペルガー症候群という言葉は、ほとんど認知されていませんでした。かろうじて自閉症という用語が、言葉を喋れない子供の病気という程度の認識で知られていた位でしょう。

 アスペルガー症候群という用語は浸透していなくとも、企業の採用担当者は、新卒学生の組織人としての適格性を審査する過程で、アスペルガー症候群的な者は当然、不適格者という判断をするのではないでしょうか。

 時は、買い手市場、就職超氷河期と言われていた時代でした。

 私の採用を決定した採用担当者は、私のことをどのように評価していたのでしょう。変わり者だが、計り知れないポテンシャルを秘めていると判断したのでしょうか。

 そうだとしたら、その判断は半分当たっていて、半分外れです。

 社会人として踏み出した私は、新入社員として圧倒的な営業実績を上げ、職種が変わっても、その部署々々で最高の結果を出し続け、将来の経営トップ候補者として、最短の年次で管理職に昇進し、管理職と成るや否や、全く仕事が回らなくなって破綻寸前に追い込まれて行くのです。

 このことについては、次話以降でお話しします。

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