生い立ち(高校生)
6 生い立ち(高校生)
高校は、県下で一番の進学校である県立高校に進みました。
この高校では、生徒の自主性が尊重され、自由な校風を良き伝統としていました。これまで通っていた市立中学校のように、服装や髪型だのに口うるさく注意してくるような教師はなく、制服はあっても、その制服を着るか着ないかも自由でした。
そんな自由な雰囲気の中での高校生活というものは、実はアスペルガー症候群にとっては、大きく道を誤るような落とし穴をはらんでいるのです。
アスペルガー症候群にとって、規則や校則といったものが事実上無く、行動の指針や準則が示されていない中では、他意なく行っている日常的な様々な行動や所作が、他者から見れば、自由をはき違えた、非常識極まりない行為と写ることがあるのです。そして、そのような行動が目に付いたとしても、目くじらを立てて注意するような教師や同級生はいません。アスペルガー症候群は、具体的な指示や注意をされなければ、やっても良いことと考える嫌いもあるのです。
私は高校生活の中で、人と違った行動をすることが多く、それは、その方が合理的だからというような理由でやっていたのですが、それは決して周囲の教師や同級生達から認められていた訳ではなく、かといって誰かから注意される訳でもない。冷ややかな目で見られていたことに間違い有りません。
私が何か人と違う変わった行動をしたときに「さすが、豪快だねぇ!」等と笑いながら声を掛けてくるクラスメートもいましたが、そのような時は、私は本気で褒められたと思い、かえって意気に感じていた程なのです。本当は暗に批判を込めて冷笑され皮肉を言われているということにも気付かなかったのです。
私の変わった行動の一例を挙げると、入学後しばらくしてから上履きを履かなくなり、通学時に家から履いてくる下足で学校の中でも過ごしていたことです。学校の上履きというものは、学校の指定業者から指定の物を買って履くのが当たり前です。しかし、進学校ならではなのか、上履きの指定も厳格ではなく、入学時には指定の物を買いますが、その後はサンダルでもスニーカーでも自由というような雰囲気があったのです。そのような中で、私は「それなら、通学時に履いているスニーカーでも良いだろう、別に泥が付いているわけでもないし、畳や絨毯の上に上がるわけでもないし、道路のコンクリートも校舎の床も変わらない」という解釈をして、無駄な履き替えを省いて合理的な行動を取っているつもりでやっていたのです。校舎に上がる時に上履きに履き替えるというのは、浄と不浄というような感情的な意味もあるでしょう。たとえ床を泥で汚してしまう等の実害がなかったとしても、下足のまま校舎の床を歩くということを、不潔に感じ嫌悪感を抱く人も当然いたはずです。私は、自分がやっている事を人が見てどう感じるかということを客観的に想像することが出来なかったのです。
担任の教師やクラスメートは、私が校舎の中で下足を履いていることに当然気付いていたでしょう。彼らの中には、それを不快に感じていた人もいたことでしょうが、注意してくる人はいませんでした。これも優秀な生徒が集まる進学校ならではなのか、私の行動についても多様性を尊重するような見地からお目こぼしされていたのかもしれませんし、或いは、単に変な奴に関わりを持たないようにしていただけかもしれません。
部活はラグビー部に入りました。野球やサッカーをはじめとした球技は苦手でしたが、ラグビーは俊足が生かせることや、その頃テレビドラマで「スクールウォーズ」が流行っていたことも影響していました。
ラグビー部の雰囲気は、これも進学校ならではなのでしょう、先輩後輩の関係も緩く、中学や高校の運動部に付き物の、先輩から後輩に対する理不尽なしごきや制裁として殴打するというようなことはありませんでした。
運動部であれば、一年生が練習後にグランド整備や用具の手入れをするのは当然でしょうが、これも上級生から命令されてやるのではなく、二年生が後片付け作業等をやっているのを見て自然に自発的に一年生が取って変わってやるようになりました。また、一年生が手際が悪くて用具の手入れに時間がかかっていると見れば、さりげなく二年生が手伝ってくれるといった、高校生ながら大人的で民主的な雰囲気の運動部でした。
そんな大人的な雰囲気というものも、アスペルガー症候群の私にとっては行動面で失敗の原因になるのです。
後片付け作業等を、誰に命令されるでもなく、自発的にやる同級生を見て、私は「この人は、人のやりたがらないような仕事をやることが好きなんだな、いやだとは思わないのだな」と考えてしまいます。実際は、「決して好きでやっているのではなく、やらなくていいならやりたくないが、立場上やらなくてはならないからやっている」という心理なのでしょうが、そこまで人の気持ちを想像することができないのです。
そして、私が積極的に自分から後片づけの仕事をやらないでいるうちに、後片づけ作業は済んでしまうのです。さらに悪いことに、私は後片づけをやっている同級生達を尻目に先に帰っていたのです。それを私は悪いことをしているとは思っていませんでした。なぜなら、「後片付けが私の仕事であるとは誰からも指示されたわけではなく、片や、同級生達は義務ではない仕事を好きでやっている」という考えを持っていたからです。
この文章を読んでいる方は、このような私の考えや行動について、「ご都合主義で単なる我が儘の極み」「極めて自己中心的で集団行動の出来ないイヤな奴、ダメな奴」と思うかもしれません。しかし、信じられないかもしれませんが、アスペルガー症候群はこのような思考回路を持っているのです。あるいは、社会的な行動に関する思考回路の発達が極めて遅いということかもしれません。
私は、悪意で作業をサボろうという気持ちは全くないのです。私は中学校の時も運動部に入っていました。テニス部でしたが、テニス部も練習後のグランド整備や後片付け作業があります。この時は、顧問の教師が後片付け作業をめいめいに輪番で割り振ってくれました。このように具体的に割り振られた仕事なら、私は誰よりも率先して仕事を始めて完璧にやり遂げました。同級生の中には割り振られた作業すら、こっそりサボっている人もいて、そんな奴を苦々しく思っていたものでした。
とにかく、このような私の行動は、皆でやらなくてはならない作業をサボっている、という外見を持っていることに違いありません。ラグビー部の同級生達は私を白眼視し、私はここでも直ぐに浮き上がってしまったのでした。
ラグビーの技術については、一年生ながら先輩達にまじってレギュラーになるなど、意外にも戦力として活躍したのでした。これは、私が50メートルを6秒フラットで走る程の俊足であったこともあり、私がボールを持って無我夢中で走ると誰も止められなかったのです。しかし、パスを受けてボールを持って走りトライする事は出来ても、敵味方双方の布陣を見渡しながら判断してボールをパスするというようなことは全く出来ませんでした。ボールを蹴ることも苦手でした。高く蹴り上げられたボールを落下地点でキャッチすることも苦手でした。
後片付け作業をサボっている私が、一年生からレギュラーとして試合に出場することに皆疑問に感じていたことでしょう。しかし皆大人の心を持っていたこともあり、チームの戦力になるならばと、容認されていたのかも知れません。また、私が毎日の練習が終わると、後片付けもせずにそそくさと帰るのは、きっと何か事情があるに違いないと言い出す人もいたと、後に聞きました。何と寛容なことでしょう。
しかし、確かにその時の私には、練習が終わったら直ぐにでも帰りたい事情があったのです。一緒に練習で汗を流す仲間にも決して言うことのなかった、あまりにも低劣な事情が。
私は中学校の同級生に好きな女の子がいたことは前に書きました。彼女は私とは別の高校に進みましたが、私は彼女のことが諦めきれず、告白して付き合いたいと思っていました。
私は、ラグビー部の練習が終わるやいなや、自転車に乗って、彼女が通う高校の校門が遠くに見えるところで待ち伏せをしていたのです。首尾良く彼女が自転車に乗って出てくるところを捉えることができれば、後を追いました。
私は、信号待ちか何かの時に偶然ばったりと出くわした振りをして、彼女に声を掛け、一緒に帰りながら、チャンスがあればデートに誘おうという腹積もりで、彼女の後を追いましたが、勇気を奮って声を掛けるなどということは出来るわけもなく、ただ彼女が家に着くまで、付かず離れず後を追うだけなのでした。そんな後追いを何度したものか、私の行為は単なるストーカー以外の何物でもありませんでした。もっとも当時、ストーカーという言葉はなかったと思います。
結局、彼女に告白することも付き合うことも出来なかったのですが、高校生の間中、彼女のことを執着的に想い続けていました。家にいても、いつも彼女への思いに囚われ、一緒にデートをする場面を想像したり、背徳的で淫らな妄想に耽ったりしていました。
待ち伏せして後を付けたり、彼女のことを考えることに囚われてしまったり、異性や恋愛や性行為に対する興味は常軌を逸する程の強さだったと思います。これもアスペルガー症候群であることと関係があるのではないかと思っています。
ラグビー部の話に戻ります。
彼女への待ち伏せ等の行為も、一年生の夏休みあたりを期にやらなくなり、部活の練習が終わったあとの後片付けも、同級生と一緒に最後までやるようになりました。そこでも困ったことが起こりました。
私は、学校からの帰り道を、人と一緒に帰るということが苦手でした。一人で気ままに通りたい道を選び、寄りたい場所に寄り道して帰りたかったのでした。
部活が終わった後、同級生達は連れだって、校門を出てすぐのところにある、パン屋に立ち寄りました。その店は、部活帰りの高校生を当て込んで、ベンチを置いて買い食いが出来るようになっていました。みんなで自転車を乗り付けて、めいめいカップラーメンを買ってお湯を入れてもらって食べたり、パンやジュースを買って飲み食いしながら、雑談をして笑い転げたりしながら小一時間程を過ごしたのでした。
私も強引に誘われて、そのパン屋に行ったのですが、私はそのような場所でそのような時間の過ごし方をすることが苦手でした。全く楽しいと思えず、早くその場を立ち去って家に帰りたいと思いながらその場にいたのです。
私をそのパン屋に誘った友達がジュースを奢ってくれたことがありました。当時50円位で売っていた瓶に入ったメロンソーダです。私は奢ってくれるのならと、買ってもらったジュースを飲みました。後になって、その友達が、私が奢り返さないことについて陰口を言っていることを知りました。私の考えでは、奢ってくれと頼んだわけでもないのに奢ってくれたのだから、借りたお金を返すように返さなくてはならないとは露ほども思いませんでした。しかし、奢られたら奢り返すということは人付き合いの不文律です。アスペルガー症候群は、このような教科書に書かれていない、学校で先生が教えるわけでもないが、社会に共通して通用しているようなルールを知らないことがあるのです。定型発達の人(普通の人)なら、誰から教えられるでもなく、普通に友達付き合いをしながら自然にそのようなルールや人の機微を学習していくのでしょうが。
ラグビー部は結局一年間で辞めてしまいました。ラグビー部の仲間は、問題行動が多くて変な奴である私に対しても寛容でしたが、一蓮托生の運命共同体的に結束してまとまっている仲間達の中に、どうしても入り込めない一線があるように感じてしまい、それが辛くて辞めました。
高校生の頃から、私はピアノにのめり込んで行きました。
ピアノは5歳位から習っていましたが、小学生になるとピアノを習っていることについて「女だ」など冷やかされるようになり、ピアノ教室に行くことが嫌になってやめました。
高校1年の時、芸術鑑賞特別授業として、ジャズのピアノトリオの生演奏を体育館で聴きました。出演バンドはかの前田憲男トリオでした。ジャズについての解説を交えながら演奏が進んで行きました。この時初めて、ジャズの演奏者がアドリブで弾いているということを知りました。それまでは、ジャズの曲のなかで、音が土砂降りの雨のように鳴っているパートでも、それらの音の一つ一つが全て楽譜に記載されているものと思っていました。それがアドリブで弾かれているということを知った時、俄然ジャズに興味を抱いたのです。
とりあえず、スタンダードナンバーを上級者向けにピアノソロにアレンジした楽譜を買い、何度もさらって弾けるようになりました。アドリブも見様見真似でやってみましたが、かっこいいフレーズはどうしても弾くことが出来ませんでした。チャーチ・モードやブルース・スケールといったジャズの理論的な知識は、この時まだ知らなかったのです。
ピアノはこの先も、現在に至るまで、私の趣味です。
アスペルガー症候群は絶対音感や楽器演奏技術に優れるということが言われています。私のピアノ演奏について、人から「プロ級だ」と言われることがあります。私は絶対音感はありません。ただし、楽器であれば、管楽器であろうと弦楽器であろうと、初めて触った楽器でも直ぐに音を出すことが出来、弾けるようになります。
勉強面では、私は大学受験や学歴社会というものに疑問を持ち始め、それが昂じて、授業や教師や学校が嫌いになっていき、授業は上の空だったり、サボったりするようになり、成績は落ちて行きました。
大学生活に関して、その頃私が持っていた認識は、「大学は遊びに行くところ」「大学生活は受験が終わってから社会人になるまでの四年間の夏休み」「授業はサボってバイトやサークルに精をを出す」「大学で勉強したことは就職後に何も役に立たない」といったものでした。その通りだとしたら、大学進学なんて意味のないものだと考えるようになりました。学歴社会とは、大学入試日のペーパーテストの得点を以て人生のコースが決まるようなものだとしたら、そんな社会はおかしいと思い始めました。
高校の授業は、そんな大学に入るための試験に合格するためだけの知識やテクニックを詰め込むだけのものと考えるようになり、授業が無意味に感じるようになりました。また、日々一生懸命に勉強に取り組んでいるクラスメート達についても、盲信的に無意味な勉強にいそしんでいるのだとと思うようになりました。
授業をサボって図書室に行き、読みたい本を読んで過ごすというようなことが多くなりました。この頃、本当にたくさん本を読んだと思います。印象に残る小説にもたくさん出会えることが出来ました。
高校3年生の時、担任教師と私と私の母とで三者面談がありました。母が「家では、ほとんど喋らず何も言わないので・・・、学校ではどんな様子ですか?」と担任教師に聞きました。
これに対して、担任教師は「教室でも口数は少ないですね、何を考えているか分からない感じで、友達も少ないようです」と答えました。これを聞いた私は少なからず衝撃を受けたことを覚えています。
担任教師は率直に私について感じているところを答えたのでしょうし、客観的には的を得た答えと言えるでしょう。しかし、私は常に正しいことをしているという意識を持っていました。何か変わったことをやっている時でさえ、合理的な方法を人に先駆けてやっているという意識を持っていたのです。
教師は生徒より一段高いところから生徒たちを公平に評価する存在であると思っていましたから、その教師から否定的な評価を表明されたことに、当時の私は衝撃をうけたのでした。
今になって考えれば、教師だって普通の人間ですから、アスペルガー症候群の私がとった奇異な行動や、他の生徒との交流状況を見れば、問題があると感じることは当然だったのですが。
進学校に通う高校生の高校生活の集大成が大学入試結果だとするなら、私は図らずも果実を実らせたことになりました。首都圏の国立大学の文系学部に現役合格したのですから、誉められるような結果を出したということになります。
大学や学歴社会に疑問を持って、受験勉強を否定していた私ですが、幸か不幸か、生来のペーパーテスト巧者であることは変わらず、センター試験などはマークシート方式で、教科書の範囲を出ないクセのない問題であることもあって、選択肢の中から正解が浮き出て見えるような感覚でした。数学などは授業で選択しなかった「確率・統計」を選択したのでした。確率を計算する教科書的な解答手順などは知りませんでしたが、問題文と数値資料を読んで確率を答えることは即座に暗算で出来たのです。
先に、「幸か不幸か、生来のペーパーテスト巧者」と書きました。アスペルガー症候群が持つ脳の働きで、ペーパーテストで高得点をとってしまうことは、高得点に相応する知識だけでなく人格も備わっているものと見なされてしまうのです。高得点を取ることや、高得点に伴う地位や評価は妬まれます。高得点に相応しくない人格だと相手が感じ始めると、失望を通り越し、より以上の嫌悪や反感を呼ぶのです。
もちろん、高校生の時の私が、自分が人格的に問題があるなどと考えていたわけではありませんでした。その頃、私の周囲には私を嫌悪し、露骨に否定する人もおり、私はそれを認識していましたが、大学受験という節目を曲がりなりにも「勝ち組」として通過したことで、私は、「自分を否定する奴らに勝った」「自分は正しかった」と考えました。