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02. La vie quotidienne à être(在るべき日常)



 ◇ 2 ◇


 コッコッコッコッ。

 夕刻、エレーヌはパリの裏通りを駆けていた。


 働いている食堂で必要な食材が足りなくなり、急な買い出しに向かっている。表通りを通っていたら間に合わない。仕方なく昼なお暗い裏通りを通り抜けようとした。

 しかし、何故か往々にして急ぐ時ほど揉め事が起こるもの。ましてや、今は革命の混乱と恐怖政治で治安が悪化しているのだから、


「へへへ、ネエちゃん。そんなに急いでどこ行くんだい」


 当然の如く柄の悪い男が現れ、道を塞ぐ。

 エレーヌは舌打ちしたくなる気持ちを抑え、通ってきた道を振り返る。だが、そこにも同じようなチンピラ風の男たちが二人立ち塞がっている。


 面倒ね。彼女に怯えはない。だが、余計な時間をとられることに苛立つ。


「ちょっとあんたら馬鹿じゃないの。こっちは買い出しで忙しいの。さっさと退きなさい」


 もちろんそんなことで退くような男たちではない。黄色く濁った目でエレーヌの体を眺め回し、一層笑みを深める。


「オウオウ、なかなか気の強いネエちゃんじゃねえか。黙って一杯つきあえよ」

「そうそう買い出しなんてつまんねぇだろ。オレらとお話ししようぜ」

「ヘヘ、なんならもっと楽しいことでもいいからね」


 ねっとりした目つきで話し掛ける男たちは、彼女に近づきその手首を強引につかむ。


「へへへ、大声上げても無駄だぜ。こんな場所に来るのは俺らみたいな奴か、行き場のない死にかけた奴だけだからな」


 乱暴に引っ張り担ぎ上げようとした、その時。


「いやー、そうとは限りませんよ」


 唐突に、場違いに暢気のんきな声がする。

 見れば物陰から、二十代半ば、エレーヌと同い年くらいに見える一人の青年が落ち着きはらった態度で姿を現した。


「んだ、オメエは」


 チンピラたちはいつも行っているように大声で威嚇し、すごんでみせる。

 しかし、青年に恐怖する様子は全く見られない。むしろ余裕を感じさせるその様子にエレーヌは考える。

 もしや、武術の達人? 白馬の王子様的なやつ?

 期待を込めた目で見詰めるなか、再び青年が口を開く。


「今は王も廃され、旧体制もなくなった新時代じゃありませんか。理性と啓蒙の時代に相応しく、問題があるなら話し合いで解決しましょう」


 青年は満面の笑顔で言いきった。

 あ、これだめなやつだ。エレーヌの頭は冷えきった。


 そんな彼女の気持ちとは関わりなく青年は話を続ける。懐の巾着袋から銀貨を一枚取り出し、


「どうですか。僕と一緒に美味い酒を飲むということで」


 爽やかな笑顔で提案した。


めてんのか、コラ」

「いい度胸じゃねえか、この野郎」

「調子乗んなよ、優男」


 いや、優男違う。エレーヌはそう思ったが、今はそんな場合ではない。邪魔され、頭に血が上ったチンピラたちはエレーヌのことを忘れ、全員で青年を囲んでいる。


 今だ。悪いけど、そう思いながらもエレーヌは隙を見つけて駆け出した。背後で何やら怒号や悲鳴が聞こえたが、足を止めることなく人混みにまぎれるまで走り抜けた。





 エレーヌは予定通りの買い出しを済ませ、真っ直ぐ自分が働く店へと帰ろうとする。

 が、その足取りは重い。胸をふさぐ思いが渦巻く。

 自分が助けてと言った訳ではない。青年が勝手に口を挟んできただけ。世間知らずがズレたことを言っただけ。自分が気にする必要なんて無い。だけど……。


 盛大にため息をつき、裏通りの方向へ足を向けた。

 とはいえ、さっきのチンピラにまた会ってしまったら逃げ出した意味がない。他の馬鹿どもに会っても同じこと。面倒事に巻き込まれないよう周囲に気を払いながら、一歩一歩慎重に進んでいく。じきにさっきの現場に辿り着いた。


 そして青年が出てきた物陰に身を隠し、からまれた現場をそっとうかがう。

 が、


「きゃー」


 慎重さなど何処へやら。辺り一帯に響き渡る悲鳴を上げた。


 現場には青年が一人殴られ倒れていた。そう、完全に身ぐるみを剥がれて。生まれた時のままの姿で、足を開いて仰向けに……。




 ◇ 3 ◇


「あいたたた」

「おぉ、気がついたようだのう」


 青年が目を覚ました時、気の良さそうな老人がのぞき込んでいた。


「ここは……。一体」


 青年は頭を押さえながら上半身を起き上がらせる。ゆっくりと周囲を見回す青年に後ろから声を掛ける。


「良かった、気がついて。ここはあたしの働く食堂よ」

「え、あ、君は」


 戸惑う青年に、給仕のためのエプロン姿になったエレーヌが歩み寄る。手に持ったお盆を横の卓に置き、見惚れるように綺麗なお辞儀を見せる。


「まずは、お礼を言わせて。助けてくれて、ありがとう」

「あ、いや、そんな」


 まだ意識がはっきりしないのか、背年はどこかぼんやりした様子で答える。


「大丈夫? そんなに腫れてはいないけど、だいぶ殴られたみたいだったから心配したのよ」


 青年が素っ裸だったことなどは省き、何があったのか簡単に説明する。

 エレーヌは、あの後なんとか気を取り直し、青年を一人でこの店まで運びこんだ。あり合わせの服を着せ、濡らした手拭いを額に当てて椅子を並べた上に寝かせる。

 青年はなかなか目を覚まさず気を揉んだが、食堂の忙しさも一段落した頃合いにちょうど目を覚ましたという訳だ。


「それはご迷惑をおかけいたしました」


 やっと状況が理解できた青年は恐縮して頭を下げる。


「何言ってるのよ。迷惑だなんて」


 とエレーヌが話している途中に、突然横から口を挟まれる。


「まったくだ。迷惑掛けたのはうちの嫁き遅れだからな」

「うっさい、馬鹿兄貴。あ、これうちの兄貴。ここは兄貴の店だから」


 会話に加わってきたのは、三十歳過ぎの背は高くないががっちりした体格の、力の強そうな人物だった。今は料理を盛った皿を手に持ち、快活な笑顔を浮かべている。


「お兄様ですか。この度はご迷惑をお掛けしました」


 青年は急に立ち上がろうとする。そんな青年に、エレーヌの兄は立ち上がらなくていい、と座るように押し留める。


「いやいや、いいって。本当、迷惑掛けたのは妹だから。あんたには助けてもらって感謝してるよ」


 手に持っていた皿をコトリとテーブルに置き、


「礼にもならないが、まあ、これでも食ってくれ」


 美味しそうなソシス(腸詰め肉)シュークルット(発酵キャベツ)の煮込みを薦める。だが、青年は恐縮するばかりで手を出そうとしない。


「いや、礼なんて。僕は何の役にも立てなかったので」

「まあまあ、そう言うな」


 エレーヌの兄は青年の隣に座り込み、強引にフルシェット(フォーク)を握らせる。


「それにこっちには謝らないといけないこともある」


 快活だった表情を改め、神妙に青年の目を見詰める。


「うちの嫁き遅れが男に飢えてあんたを襲ってしまうなんて、って痛ぇ。おい、お前兄貴の頭を叩くか、普通」


 エレーヌがお盆を手に取り兄の頭を強打した。


「襲ってないし。そもそも飢えてないから」

「本当かよ。いい機会だからってじっくり堪能したんじゃねえか」

「馬鹿兄貴、最っ低。本当だからね。何にも見てないし。脇の下に変わった入れ墨入れてるなってぐらいしか見てないからね」


 やっぱしっかり見てるじゃねえか、と続ける馬鹿兄貴は再びお盆で強打しておく。二人の遣り取りに唖然とした青年は、不意に吹き出し大きく笑う。


「仲の良いご兄妹なんですね」

「何言ってんの」

「そうだぞ。こんな嫁き遅れ」


 口では文句を言い合うが、二人ともどこか照れくさそうで、そしてどこか幸せそうだった。


「いいから、それ食べちゃって。兄貴は馬鹿だけど、料理の腕だけはいいんだから」

「ありがとうございます。ただ……」


「ん、どうした」

「まだ、名前も名乗っていませんでしたね。僕はアシェルと言います。手当といい、食事といい何から何までありがとうございます」


 一度立ち上がり、丁寧にお辞儀する。

 エレーヌたちも名乗っていないことに初めて気付いた。顔を見合わせ笑い出す。


「済まない。つい忘れてたよ。俺はアンリ。こいつはエレーヌ。あっちは近所に住む常連のハンス爺さんだ」


 その様子を見て気を利かせたのか、ハンス以外に残っていた二組の客たちはアシェルにエレーヌを助けてくれたことの礼だけを言いすぐに帰って行った。いつも通りハンス爺さんは残り、店を閉め皆で卓を囲む。話題は自然にそれぞれの自己紹介となる。


 アンリたちは六人兄弟。アルザスのリクヴィールにある実家には、嫁に行った長女以外に家を継いだ次男とまだ成人前の弟妹が居る。

 他に、この店は二人の祖父の弟にあたる人物が始めた店で、アンリは二代目店主である叔父から譲られた三代目だということ。ハンス爺さんも含めてこの店の常連は皆、アルザスがフランス領となってからアルザスから出てきた人たちだということなどを話した。

 ちなみにハンス爺さんは最初にこの店を始めた大叔父の親友で、二人にとっては家族同然だという。


 一方、アシェルは行方不明の家族を探すため外国からやって来たばかりだそうだ。それらしい人物をパリで見掛けたという話を聞いたらしい。


「それは大変だな。しっかし、そうなると文無しってのはまずいよな」


 アンリは腕を組み、額に皺を刻んで考え込み始める。エレーヌにしてみれば、ここで考え込む意味がわからない。悩むまでもなく言うことは一つだろう、と思うエレーヌは兄を突っつきせっつく。


「兄貴」


 その声に決心がついたようにアンリは腕を解き、宣言する。


「おう、そうだな。じゃあ、アシェルさんはうちで働くってことでよろしくな」

「え」


 突然の申し出にアシェルは驚き固まる。本人の意見を全く聞かずに決めるのは、親切なのか押しつけなのか。せっついたのは自分だが、もっと言い方があるだろう。あまりにも強引な話の持って行き方にエレーヌはそっとため息をついた。

 だがうちで働くかどうか尋ねたら、アシェルはまた遠慮をしそうだ。そう考えれば強引に決めるのもあながち間違っていないのかも知れない。


「元々妹が原因で文無しになったんだし、混み合う時間だけ手伝ってくれればいいから。給金はさほど出せないが、食べる物と寝るところの心配はいらないから。おい、エレーヌ。二階の叔父貴の使ってた部屋、ちょっと片しといてくれ」

「はいはい」


 エレーヌはアシェルに遠慮する暇を与えず、返事をしてサッと席を立つ。掃除に向かい食堂を出る前に一言言っておく。


「手伝ってくれたら助かるのは本当だから。アシェルさんも遠慮しないで」


 エレーヌは背中で兄とアシェルの話を聞きながら奥へと向かう。

 どうやら、アシェルが家族を探しに行くのは夜になるようだ。家族らしき人物を見掛けたと聞いたのは、あまり治安のよくない場所だったらしい。当然危険はあるが、その手の場所に人出が増えるのは暗くなってから。道理であんな時刻に似合わない裏通りに居たわけだとエレーヌは納得した。

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