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暗澹の赤

作者: 青木森羅


「酒井さん、お薬の時間ですよ」


 先週入院してきた彼にカートの上に置かれた処方箋を渡す。


「ありがとう、真鍋まなべさん」


 私は「いえいえ」 と手を顔の前で横に振り、


「これがお仕事ですからね」


 そう話をしながらも彼の腕に血圧計の腕帯わんたいを巻きつけて空気ポンプを押し、表示された数値をメモした。


「血圧問題なしですね」


「よし、これなら早く出られるかな?」


 こういう質問には適当に答えてはいけないのだけど、彼の退院は夕方のミーティングで来週に決まっていたので、


「そうですね、そろそろじゃないですか?」


 そう答えた。


「ここに運ばれた時にはどうなるかと思ったけど、これも先生と真鍋さんのおかげだな」


 急に出された名前に少し照れ臭かったけど、看護師に、人を助ける仕事に就けてよかったと思える言葉だった。

 ひと通りの巡回を終えてナースステーションに戻ると、師長の佐竹さんが手招きをしていた。


「はい、なんでしょうか?」


「皆さんの様子はどうでした?」


 私はメモ帳を取り出して、その結果を彼女に伝えた。


「大丈夫みたいね。ただ、佐藤さんだけはちょっと様子を見た方がよさそうね」


「はい」


 彼女は患者さんの血圧をパソコンに打ち込む。


「そういえば真鍋さんって、ここに来て数ヶ月経ったわよね?」


「はい、そうですけど」


 師長はパソコンの手を止めてこちらをまっすぐに見ながら、


「どう? ここにはもう慣れたかしら?」


 私は頷き、


「みなさん親切にしてくださいますし、患者さんもいい方達ばかりなので」


 大学を出たばかりの私だけど、ここはいい職場だと思えている。


「そういえば、真鍋さんって今日は夜勤なんだっけ?」


 はい、と答える。今日が初の夜勤なので、ちょっとだけ緊張している。

 師長はカレンダーを眺めると、


「あー、そっか。まあ、私も一緒だからなにかあったら報告してね」


 と、言ってくれた。

 その言葉に安堵した。ただ、師長にしてはいつもより歯切れが悪く、なにかを言いよどんでいるようにも感じた。



「お疲れ様です」


 先輩看護師が業務を終えてナースステーションを出ていく、これで残ったのは私を含めた当直組の師長、先輩の中島さん、それに私だけ。はじめての当直で緊張もしているけど、一緒に夜勤をする師長も中島さんもベテランなので心配はなかった。

 そんな事を考えていた時、視界の端でなにかが光っているのが目に入った、そしてピピピと甲高い音がナースステーションの中に響いた。


「岸和田さんね……私が行ってくるわ」


 師長はそう言ってナースコールの応答ボタンを押すと、すぐに608号室へと向かった。

 彼女の言葉にホッとしてしまっている自分がいる事に気づき、自己嫌悪してしまう。仕事だから仕方ない事なのだけど、608号室の岸和田さんは少し認知症があり時々だけど暴れたりして手がつけられなくなって、私ではどうしたらいいのか分からなくなってしまう事があった。そんな事ではいけないというのは分かっているのだけど、苦手意識というのはそう簡単に消えてくれそうにないのだけは理解していた。

 医療に係わる者としては、失格なのかもしれない。



 時計の針が夜の二時を越えていた、いつもなら寝入っている時間のせいか眠くなってきて本の文字がグニャグニャと見づらくなってきた。

 眠気を覚まそうと目をこすると、


「真鍋さん、少しなら休んでてもいいわよ。あんまり根を詰め過ぎても良くないからね」


 と、佐竹師長が気遣ってくれる。


「いえ、大丈夫です」


 彼女は首を横に振る。


「私も新人の頃は夜勤に慣れるまで大変だったわ。だから分かるし、もし大変な状況になった時に体が動かないんじゃ、そのほうがもっと迷惑をかける事になるわよ?」


 その言葉には重みがあった、もしかしたら師長の体験談なのかもしれない。


「すみません。じゃあ、少しだけ」


 そう言って机に顔を伏せ、目をつぶる。


 ジリリリ!

 けたたましい音がこの階全体に鳴り響いた、私は驚いて顔を上げて周りを確認する。暗い廊下の方で赤色灯が点滅しているのが見えた、その後アナウンスが火事を告げ始めた。


「師長! 火事です!」


 そう言って見た彼女の顔はたいして慌てたふうもなく、


「そうね」


 と、短く言い「確認に行ってくるわ」 と懐中電灯を持ち、立ち上がった。


「中島さんは北側を、私は南側を見回って来るから。真鍋さんは放送をかけて。細かい事はマニュアルに書いてあるから」


 彼女の人差し指がさす方を見ると「緊急対応」 と書かれたファイルがあった。


「そこの最初の所だけ読めばいいから。じゃあ、よろしく」


 と、背を向けていってしまう。

 私は慌ててそのファイルを取り出し、目次を見る。そこには次のページが初期対応なのだと書かれていた。すぐにページをめくり、そこに書かれていた通りにマイクの電源を入れた。


「ただいま火災報知器が鳴っております。現在、確認中ですので分かり次第、再度放送させていただきます。なお、万が一の事もありますので貴重品などをすぐに持ち出せるようご準備ください」


 マイクの電源を消し、ファイルのページをめくって先の確認をしたが、ここから先の行動は確認が終わってからの事だけでいまは出来そうな事はなかった。

 とりあえず落ち着かないと、と自分に言い聞かせて深呼吸をする。

 けど、そうやって考えるたびに呼吸が浅くなってしまうのが分かる。こういう緊急の事を体験するのは初めてだから、どうにも落ち着かない。

 ピピピ! という音に、体がビクリと跳ねる。

 音の方を見るとナースコールだった、発信したのは608号室の岸和田努きしわだつとむさん。


 一瞬だけ身構えてしまったが、こんな事ではいけないと頭を振って気合を入れ直す。机の上のペン立てから一本の黒いボールペンを抜き出すと、メモ帳のページを破って608号室の岸和田さんからナースコールがあった事とそちらに行く事を書き残し、急いで608号室に向かった。


「岸和田さん、どうかなされましたか?」


 病室に入り、左にポツンと一床だけ置かれたベットの方を確認する。ここも本当は他の病室と同じく六人部屋なのだけど、岸和田さんの症状がかんばしくない時は周りに迷惑を掛けてしまう事もあり、病床びょうしょうにゆとりのある時はひとり部屋にしているのだと説明を受けた。岸和田さんのご家族も了承している事だった。


「あ、お嬢さん。すまないね」


 岸和田さんはどんな女性に対しても「お嬢さん」 と呼ぶ。


「どうしました?」


 彼は体を起こそうとしたので手を貸して背をもたれかけさせる体勢にした、あまり治療中の足に負担をかけないほうがいい。


「いやね、さっきからドタドタと五月蠅くて眠れないんだ。お嬢さんの方から注意しておいてくれないか?」


 ドタドタ?


「そんな音、してましたか?」


 ナースステーションの受付は西向きにあり、その対面にエレベーターホールとその向かいの食堂を繋ぐ通路を挟んだ先には脳外科の受付がある。今いる608号室はナースステーションをコの字に囲うようにして配置された病室の東側、ナースステーションの裏にある。あいだにはトイレがあるものの、五月蠅いと思うほどの音ならば、深夜の静まり返った病院では簡単にナースステーションまで響くはずだけど、そんな音は聞こえていない。


「私の気のせいだったのかな? いや、たしかに聞いたはずなのだけど。分からなかったのかい?」


「ええ、すみません」


 たぶん、症状が出ているのだろう。あまり刺激しないようにして、もう一度寝てもらおう。


「さ、もう大丈夫ですから寝て下さい。早く治すためにも」


 笑いながらそう言うと、岸和田さんもハハッと笑い、


「なら、寝るとするよ」


 言いながら岸和田さんは横になろうとしたので、手を貸して姿勢を変えた。


「おや、君はどこから来たんだい?」


 彼の視線は私の後ろ、ひらっきっぱなしの扉に向けられていた。

 とっさに振り返ったが、そこには誰もいなかった。


「うん? 私の気のせいかな?」


 岸和田さんはそういうと体を横たえた。



「岸和田さん、どうだった?」


 ナースステーションへ戻ると、見回りに行ってたふたりが戻ってきていた。


「目を覚まされたようでしたが、他には問題なかったです」


 彼が言ってた音の事が気にならない訳ではないけど、あえて説明するほどの事でもないだろうと伏せた。


「警報機はどうでした?」


 私がそう尋ねると師長も中島さんもこちらを向かず、


「なにも。この病院も古いからね、誤作動じゃないかしら」


 ジリリリ! と、また警報機とアナウンスがまた鳴りだした。


「師長!」


 再度鳴った警報機に私は身構えたが、師長はゆっくりと立ち上がり、中島さんは耳を塞ぎ顔を伏せ立ち上がる様子がなかった。


「な、中島さん? どうしました?」


 そう声をかけたが師長は私にライトを持たせると、


「中島さんはアナウンスをお願い。真鍋さんは南をお願い、私が北を調べるわ」


 懐中電灯を受け取ると、師長に言われた通り南側を確認しに向かう。横目で見た中島さんは、震えているかのようだった。

 病室にその周辺、廊下のコンセントにゴミ捨て場など火の元になりそうな所を見回ったが、これといった物はなかった。

 ナースステーションに戻り、報告を終えると再度警報機が鳴った。


 三度の確認をしたが、なにもありはしなかった。



 あの夜勤の後から中島さんの顔色が悪い、あれからもうひと月も経つというのに。


「中島さん、今日はもう上がっていいわよ」


 師長が言うと彼女は「はい」 と、か細い声で答え、そのままナースステーションを出ていった。


「中島さん、最近調子悪そうですけど、どうしたんでしょうね?」


 夜勤の準備を進めていた師長に尋ねるが、


「まあ、色々あるんでしょ」


 そんな答えが返ってきた、なんだか師長にしてはそっけない態度のように感じた。



 三度目の夜勤、その日の太陽もとうに落ちた。

 次に見る太陽は夜明けだろう、なんて詩的な事を考えてしまう程度にゆっくりできる時間になった。

 とはいえ、そんなに余裕がある訳でもなかった。温かいコーヒーを口に含みながら時刻を見て、一時間後には点滴の確認に行かなければいけないのを確認する。

 目を横に向けるとカレンダーが目に入る、そして今日が初めての夜勤日と同じ日付だというのにふと気がついた。

 ピピピ! と、聞き慣れてしまったナースコールが鳴った。


「601の鹿島かしまさんね、ちょっと見てくるわ」


 そう言うと師長は同期の真下ましたさんを連れて601号室へと向かった。

 彼女達が出ていってからあまり間を置かずに再度ナースコールが鳴った、岸和田さんだ。メモ帳を手に取り、岸和田さんからナースコールがあった事を書き置きして小走りで向かう。


「岸和田さん?」


 608号室の中を覗くと、彼の声が聞こえてくる。


「どうしました、岸和田さん?」


 彼は視線をベッドの向こう側からこちらに向けた。


「あ、お嬢さん。いい所に来てくれた」


 そういうと手招きをして私を呼ぶ、彼の枕元に近づくと私の立っている方とは反対側を指さして、


「この子がね、さっきからここに座っていてさ。なにを言っても聞いてくれないんだ、どうにかしてくれないかね?」


 彼が指し示した所をのぞき込む。

 けど、そこには誰もいない。

 最近は岸和田さんの認知症が進んできていると江ノえのしま先生からも聞いているし、実際に病室から逃げ出そうとした所も目撃していた。


「ええ、分かりました。だから今は寝ましょう、岸和田さん」


 そう言って布団をなおす。こういう時は下手に否定をしてしまうと、患者さんが意固地になって余計に酷くなると聞いていたから、肯定しつつ聞き流す方が良いという師長から教わった方法を実践する。


「おや? どこに行ってしまったんだろうか?」


 彼がひとりごとのように呟いた。その本能を見て、対応は間違っていなかったんだとホッとした。

 安堵した瞬間、ジリリリ! と、警報機の音が寝静まった6階に響いた。


「おや、そこにいたのかい」


 彼は私の後ろ、入口の方を見てそう言った。


「え?」


 誰かが私を見ているのを感じて振り返ると、身を翻してそこから離れていく誰かの影だけが見えた。それを追って部屋の外に飛び出したけど、誰もいなかった。


「お嬢ちゃん、誰だったんだい?」


「さあ?」


 そう言って首をかしげてみせたが、私にはその姿が背丈の小さな子供のように見えた。

 だけど、この階には子供の入院患者なんていないはずなのだけど。



「そう、子供を見たの」


 ナースセンターに戻り、警報機の確認を終えて戻ってきた師長に先ほど見た子供について尋ねると彼女はこちらを見ず、呟くようにそう話した。


「はい。今、この6階に子供の患者さんはいませんよね? あの子は一体、どこから来たんですか?」


 小児科は下の5階だ、ましてや深夜に用もなく上がってくる事などないだろうし。今までにそんな事をしている子供を見た事もないし、看護師仲間の噂でも聞いた事もない。


「そんなに気にするような事じゃないわ、よくある事よ」


 よくある事だなんて、そんな対応の仕方で良いのだろうか?


「けど、親御さんだって気になさるでしょうし」


「それに」 と、言葉を繋げようとした私の言葉を師長が遮った。


「大丈夫よ」


 大丈夫? 自分の子供が居るべき場所から消えているのを心配をしない親だとでもいうの?

「どうして?」 と、尋ねようとする私を疲れたような目で師長が制す。

 そして、彼女の口は重々しく動いた。


「あの子は、健太君はもうこの世にはいないの」


 師長はこちらから目を逸らす。


「彼は、幽霊よ」



「お疲れ様でした、お先に失礼します」


 夜勤を終え、ナースステーションの中にいる日勤の人達に声をかけて背を向けた。


「お疲れ」


 これから忙しい時間だからかその声はまばらだった。中に師長の姿は見えなかった、先に帰ったのかも知れない。

 その場を離れ、エレベータホールの角に置いてある透明の花瓶を見つけた。


「健太君、か」


 この花は彼の為に置かれているのだと師長は言っていた。


(私がここに入った時だから、亡くなってから十年は経つかしらね。彼は、健太君はいたずら好きでね。五階の小児科を勝手に抜け出しては、この六階や下の四階にもよく来ててね。その度に捕まえては五階まで連れ戻していたわ)


 師長の瞳は今にも泣きそうなほどに潤んでいた。


(あの子は小児がんでね、けど進行速度はそんなに早くなかったの。けど、ある日の夕方に四階のエレベーターホールに倒れてるのを発見して精密検査したら、もう手の施しようがない位に進行していて。どうしようもなかったわ)


 その子は倒れたまま意識が戻る事もなく、亡くなった。


(健太君が良くやってたイタズラが警報機を鳴らして、みんなを慌てさせる事。当時は迷惑な事この上ないと思っていたけど、あの子寂しかったんだと思うわ。小学校に入ったばっかりだったのに入院しちゃったしね。誰かに構ってもらいたかったのかもしれない)


 師長は目元を手でぬぐった。


「私は、きちんと向き合う事が出来てなかったのかもしれないわね」


 そう言った師長の顔が忘れられなかった、彼女の後悔のようななにかを感じてしまったから。


(それからは毎月、彼の月命日になると警報機が勝手に鳴るのよ。まるで誰かに構って欲しいって言ってるようにね)


 そう語る彼女の顔には看護師としてではなく、ひとりの人間としての後悔が浮かんでいるように思えた。



 ジリリリ! と、警報機が鳴った。私は急いで六階の病棟を確認に周り、どこにも異常がない事を確認する。

 各病室、ゴミ捨て場、そして食堂に備品室、全部まわったがどこにも異常はなかった。


「間違いだったのね」


 そう言って気を落ちつけさせた、はずだった。

 けたたましい音が急に消え、一瞬にして静寂が訪れる。その無音はただひたすらに私の気持ちを不安にさせる、この気持ちがどういう事なのか分からないのだけど不安だけが際限なく押し寄せる。

 ただただその不安に飲み込まれそうになる、その場から足が動かせない。


 背後に誰かの気配を感じた。

 振り返りたくないはずなのに、なにかに引っ張られているかのように私は後ろを振り向いた。


 そして、目が覚めた。


(そういえば夜勤を終えて、そのままベットに倒れ込んでしまったんだっけ)


 重たい頭を片手で押さえながら台所に行き、洗ってそのままにしていたコップへと水道水を注ぐ。なみなみと注いだ水を一気に半分ほど飲み干すとようやく頭の重さが軽くなり始めた。

 けど、それはさっきの夢を思い出させる余裕を生んだ。あんなに気持ちが悪いジトッとしたような、それでいて吹雪の中で感じる寒さのような感覚を夢で味わったのは初めてで、心がざわついていた。

 怖い。



 この病院に勤めて四ヶ月。

 日に日に気温も上がり、今も昼を過ぎたというのにまだ太陽が頭の上にあるかのように暑かった。院内は特に暑い、人が多いのもあるけどなにより口調の効きがそんなに良くない。

 そんな中で仕事をこなしながらも、今朝の朝礼で師長から聞いた事が思い出される。


「中島さんは本日で職を辞しました」


「そんな急に? 何かあったんですか?」


 私のその質問に、


「私にも分からないわ、ただ一身上の都合としか答えてくれなかったから。それでなんだけど、真鍋さん? 本当なら中島さん、今日夜勤なのよ。けど、こんな事になってしまったから真鍋さんにお願いしたいのだけれど、駄目かしら?」


 私は少し悩んだが、了承した。


「ありがとう。もし疲れたら言ってね、フォローするから」


 師長がそう言ってくれたおかげで、お昼の検診を終えて余裕のある今から少しだけど休憩をとる事になった。

 休憩室に入り横になる、なんとなしに眺めたカレンダーに丸がついていた。

 今日は健太君の月命日だった。



 休憩を終えナースステーションに戻ると夜勤担当の新山にいやまさんも来ていた。

 私はすぐに業務へと戻り、それらをこなしているうちにいつの間にか窓の外はすっかりと夜に変わっていた。


「じゃあ、私たちは休憩に入るからしばらくよろしく頼むわね。真鍋さん、新山さん」


 そう言って師長と、私と同じように夜勤を頼まれた真下さんがナースステーションを出ていく。


「分かりました」


 私と新山にいやまさんだけになったナースステーションには、沈黙が訪れた。彼女はあんまり個人的な話はしない、仕事に係わる事と当たり障りにない事だけ。だから、どうしても無言の時間が増える。

 それがなんとなく気まずい。


「そろそろ巡回の時間ね。ちょっと見てくるから」


 彼女は立ち上がると、そのままスタスタとナースステーションを出ていく。


「あ、お願いします」


 去って行く背に声をかけると、新山さんは一瞬こちらを見て巡回に向かった。

 ひとりになったナースステーションはなんだか少し冷え込んできたように感じ、半袖の皮膚が出ている部分をさする様に触れた。しばらくそうしていたがほとんど改善されない、風邪でも引いたのだろうか? なんだか体の芯から寒気がしているみたいだ。


 ピピピ!


 ナースコールが鳴り、確認をすると岸和田さんだった。書き置きを残し、懐中電灯を持ってナースステーションを出る。

 瞬間、廊下に身を切るほどの寒さのある風を感じた。全身の毛が逆立つほどのが分かる。608号室へと続く廊下を進もうとするが、たった二十歩程度の距離が何十倍にも遠く感じた。まるで誰かがそこへ行かせないようにしているように。

 あまりの風圧の強さに目をつぶると、私の周りを吹いていた音のない風が通り過ぎたのが肌で分かった。恐る恐る目を開くと、いつもと同じ変哲のない廊下だった。

 周りを見ると608号室の前に立っている事に気づく、自分でもどうやってここまで来たのか判然としない。

 だけど、そうやって呆けている時間も無いと急いで病室へと入った。


「岸和田さん、どうかなされました?」


 彼が眠っているベットを見る、どうやら岸和田さんはこちらに顔を向けていないみたい。


「どうしました?」


 ゆっくりと彼がこちらに向けた目は大きく見開かれていた、怒りでも困惑でもない見た事のない感情を含んでいるように思えた。


「あ、お嬢さん」


 口調はいつも通り。


「さっきから五月蠅いんだよ、誰かがずっと走っているんだ」


 そう言われてライトを部屋の中に向けるが、そこには当然誰もいない。


「そうですね、注意しておきますので眠ってください」


 岸和田さんの症状はだいぶ悪くなっていた。もうウチの病院では見切れないと、看護医療が厚い病院へと一週間後に転院することが決まっていた。


「いや、そうは言っても。こう五月蠅いと眠られないよ」


 彼は苛立ち始めていた。


「大丈夫ですよ」


 そういう自分の言葉に感情がない事が分かる、あまりいい気分ではなかった。


「ううむ」


 彼は渋々ながら、言う事を聞いてくれた。


「さあ、寝ましょう」


 布団をかけ直す。


「あ、ほらそこに!」


 彼は急に腕を伸ばすとまっすぐに闇の中を指した。


「えっ?」


 その行動に驚き、反射的にそちらの方を見る。

 が、当然なにもない。


 ガダン。


 ただ、私が見る事を待っていたかのようになにかが倒れる音がした。


「この部屋には何も置いていないはずなんだけど」


 気がつかないうちにひとりごとが出ていた、一旦消したライトをそちらに向けた。ゆっくりと動く光の円がそこを照らす。なにもない、はずだった。

 だけど、そこには花びらが一枚だけ散っていた。


「あれは?」


 ベッドの横を抜け、その花びらを拾いに行こうとした。

 ジリリリ! という音に、体が跳ねる。警報機だ!


「岸和田さん、動かないで下さいね! 少し確認してきます!」


 警報機の音が私の鼓動を早くする、なんだか急かされているようだ。物を落としたようなあの音のせいかもしれない。

 慌てて608号室を飛び出す、後ろでなにか聞こえた。まるで、子供が走っているかのような。

 振り返る、しかしライトで照らされた病室の中には当たり前だけど誰もいなかった。


 心の芯の部分で本能的に感覚として恐怖が湧き上がってくるが分かった。けど、その気持ちを殺してナースステーションまでの通路を確認する。仕事だから、というよりも本当にどこかに火種があって欲しいと思ってしまっている自分がいた。誤報でない事を願っていた。真実の警報であって欲しい、そう願うたびに心の奥底が冷えていく。

 けど、私が確認した北側には火の気はなかった。

 ナースステーションに新山さんの姿はなかったが、机の上にメモが残されていた。


(真鍋さんへ、南側の確認をしましたがなにもありませんでした。ただ、612号室の別府さんからナースコールがあったので様子を見に行ってきます)


 そう書かれていた。

 応援に行こうかとも思ったけれど緊急ならばナースコールを鳴らすだろうし、他の患者さんから呼び出しがあるかも知れないと待機することにした。

 いや、本当はそうじゃない。

 さっきの足音がまだ耳の中で木霊して消えない。まるで夢、それも悪夢のように思えた。

 ソレを忘れる為にイスを引き腰をかけようとした私の眼の端に、誰かの走り去る足が見えた。


「えっ?」


 ふいに声が漏れ、そちらのほうに目を向けるがなにもいなかった。ただ、その音だけは廊下に響いている。その姿を見ようと、カウンターから体を出して確かめた。一瞬、黒い背中がエレベーターホールに入って行くのが見えた。私はなにかに誘い出されるかのようにナースステーションを飛び出して、エレベーターホールへと小走りで向かう。


 そこには誰もいなかった。


 じゃあ、さっき見たのは誰? 私は一体なにを見たの!? 顔を伏せた私の頭の中にはそんな事ばかりがは止めどなく溢れ出てくる。それと同時にあの足音が再び聞こえて来てどんどんと大きくなる、それはまるで私の周りをずっとつきまとっているかのように聞こえ続けた。

 体が震える、ガタガタといくら抑えようとしても止まらない。その場に崩れ落ちそうになる体を支える事だけで精一杯だった。どぶのような臭いまでしてきて吐き気がする。あまりの不快さにどこにいるのかすら分からなくなりそうになり、顔を上げた。


 それまでつきまとっていた不快感が、永遠にも思えたその苦痛が一瞬にして消え去った。


 目の前には花瓶と、そこに生けられた花から落ちた数枚の花びらが見える。その黄色い花びらに見とれ、落ちたそれに触れようと近づく。

 屈んで摘まもうとした時、背後で甲高い音が鳴るのが分かった。それがエレベーターの到着を告げる音だというのを理解するのに少し時間がかかった。振り返ろうとした時、私の鼓膜に足音が聞こえた。その足音は私の後ろをグルグル、グルグル、グルグル、グルグル、何度も何度もずっと周っている。

 私は恐る恐る振り返った、閉まっていくエレベーターの扉が見えた。


「なんだ。単なる気のせいか」


 安心して漏れた声に自分でも驚いたが、そんな事よりも誰もいなかった事の方が重要だった。そう誰もいなかった、ただそれだけが救いだ。

 安心した私は落ちた花びらを拾おうとそちらを向くと、暗闇の中で赤く光る警報機が目に入った。今まで見えてなかったのが不思議に思えた、それにエレベーターの事も。

 なぜ開いたのだろうか? なぜ閉じたのだろうか? 誰もいなかったのに。

 カチリと警報機のボタンが押された音がした、火事を告げるアナウンスが響いてきた。


 足音が私の周りをまわっている、グルグルと、グルグルと。

 また寒気が襲ってきた、吐き気に頭痛も。私は我慢できずに、その場に手をついて四つん這いになってしまった。


 肩を誰かに捕まれた感覚があった。

 振り返るとそこにあったのは子供の幼い顔なんかではなく、大人の男の顔だった。


「あなたは、誰?」


 そう呟いた私の言葉に彼はにやりと笑い、そのまま消えていく。

 視界が急激に暗くなった。



「お世話になりました」


「本当に辞めるの?」


 私の辞表を持ったまま俯き、師長はそう尋ねた。


「はい」


「そう、仕方ないわね」


 彼女は全てを理解しているかのような顔でそう答える。


「あんな体験をしたんだもんね」


 気を失った私を発見したのは休憩を終えた師長だったと聞かされた。

 目を覚ました私は、自覚がないが激しく動転していたそうで訳の分からない事ばかりを叫んでいたという。その内容はあまりに支離滅裂で師長も含め、その場にいた全員が「なんと言ったか理解出来なかった」 と。


「師長は、見た事があるんですか。あの男性を」


 私から出た声は思っていたよりも冷たく、怖かった。


「ええ、何度も。それだけじゃない、お婆さんに妊婦、女の子に胎児も」


「それを、隠していたんですか」


 責めるような口調になってしまっていたが、そのまま続ける。


「隠していたわけではなかった、と言ってもあなたは信じないでしょうし、実際に隠していたわ。アレは、そこにあるモノとして扱う以外に方法がないの。何度お祓いを依頼して除霊してもらっても、どうやっても消えてはくれない」


 その声には諦めのような感情あった。


「ここでやっていくには慣れるしかないの、そうする以外ない」


 私は師長のようにはなれない。


「短い間でしたがありがとうございました」


 そう言って去ろうとした。


「昨日、岸和田さんが亡くなったわ」


 驚いて振り返る。


「アレが出るとね、どうしてもそういう事が起こるの。ごめんなさいね、最後にこんな事を言うだなんて」


「いえ」


 そう言って私はその場を去った。

 私はもう看護師という仕事をする事はないだろう。あんな体験をしたからだけではない、私は死というモノをあまりに軽く捉え過ぎていたから。

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