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シンデレラの兄に転生しました。

作者: 枢 呂紅





 どうやら、僕はシンデレラの兄に転生したらしい。


 というか、シンデレラの兄ってなんだ。

 それについて、僕はこの世界の神に小一時間問いただしたい。



*   *   *



 僕には、前世の記憶というものがある。といっても、記憶は極めて断片的で、〝クルマ〟というものが道を走っていたとか、ものすごく大きな〝ビル〟がにょきにょき立っていたとか、そういうことをバラバラと覚えているくらいだ。


 だから、僕は前世というものにそこまで興味がなかった。時々、ふと前世の出来事がフラッシュバックしてびっくりすることはあるけれど、本当にそれぐらいだった。


 なのに、そう呑気でもいられなくなった。


 そこそこの家柄に生まれた僕には、母と妹が二人いる。早くに父が亡くなり、家族三人細々と――少なくとも僕は細々とやっていこうとしたのだが、これがなんとまあ、他の家族たちは絵にかいたような散財家。


 あっという間に財産を食いつぶし、慌てた母はとある豪商と再婚。結果、僕には義理の妹ができた。


 その子がものすごく可愛い子なのだ。


 ふわふわした金髪に、ぱっちりとした碧眼。つんと尖った小さな鼻も、ぽってりした唇も、すごく魅力的で。おまけに心根の優しい素直ないい子で、男はみんなあの子に惹かれてしまうんじゃないかという具合だ。


 それが女の敵対心にメラメラと火をつけたのか、母と妹たちは出会った瞬間彼女を睨みつけていたが、僕はまったくの逆。年上としての意地もあり、澄まして挨拶なんかしてみたけれど、彼女が笑うたびにドキドキしているのをバレないよう必死だった。


 そうやって、ぎこちないながらも、僕らの新しい生活は始まった。母たちが義妹にねちねち嫌味を言ったりもしたけれど、義父や僕が間に入ってなだめたりなんかもして、基本的にはのほほんと幸せに暮らしていたと思う。


 それが変わったきっかけは、義父の死だった。


 新しい父が、不幸にも事故で亡くなってしまった。それで、家の中は一気に暗くなった。母も、ふたりも夫に先立たれるとは思わなかっただろう。葬式からしばらくはさすがの母も塞いでいて、僕はそれを気の毒に思った。


 だが、時が過ぎること一カ月。調子を取り戻すにつれて、だんだんと母と妹たちが、義妹に辛くあたるようになっていった。


 彼女は使用人として扱われ、掃除に洗濯、あらゆる仕事を押し付けられた。部屋も、元の可愛らしい部屋から屋根裏部屋に移された。「いくらなんでも、これはひどい」と僕が焦り始めた頃、事件は起きた。


「まあ、まあ。お前ったら灰にまみれて、なんてみすぼらしいのでしょう。そうだわ。お前を今日から、シンデレラと呼んでやりましょう!」


「やだわ。お母さまったら、ぴったりよ!」


「シンデレラ! 灰かぶりのシンデレラ!」


 汚れたぼろ服を身にまとい、たっぷりの灰の中で項垂れる美少女。

それを囲んで、ほーほっほっほっと高笑いする身内の女三人組。


 その光景をみたとき、僕の全身にずがんと衝撃が走った。あまりのことに、身体はぷるぷると震えた。そのまま、自室に飛び込んで頭から毛布をかぶってしまったほどだ。


 なんということだろう。

 僕が生まれたのは、『シンデレラ』の世界だったのだ!


 毛布にもぐりこんだまま、僕はもんもんと考えた。


 この世界が本当にシンデレラの世界なら、可愛いあの子は舞踏会で王子様に見初められる。そうなれば、僕はどうなるのだろう。少しだけ考えて、さあっと血の気が引いた。


 王子様と結婚したら、シンデレラは――いや、僕は彼女を、親しみを込めてシンディと呼ぶことにした。


 では、あらためて。こほん。

 王子様と結婚したら、シンディはこの国の妃殿下となる。


 そのシンディを前妻の子だからと目の敵にして、あんなことやこんなことにこき使っている僕ら――正確には、僕の家族、だけど――が、お咎めなしの無罪放免といくだろうか。


 答えは否。


 善因善果、悪因悪果。

 仮に王族からのお咎めがなくたって、石を投げられる人生しか待っていない。


 道の両側から大きな石礫を浴びせられ、ぱっくりと額が割れる様を想像し、僕はふたたび震え上がった。ぷるぷる震えつつも、僕は真剣に対策を練った。練りに練ったあげく頭の中がぐるぐるにこんがらがり、うっかりそのまま寝込んだ。たぶん知恵熱というやつだ。


 高熱がひいてから僕は、愚妹共を止めるべく自室を飛び出した。とにもかくにも、あいつらにシンディ虐めをやめさせなきゃならない!


 だが僕は、すぐに負けを悟った。


 手すりにしがみついて階下を見下ろせば、傍らにバケツ、その手に雑巾、鼻歌と共に床を磨き上げるシンディの姿。かと思えば、妹ふたりがスキップしながらシンディのもとに行き、ぽーんと勢いよくバケツを蹴っ飛ばした。


 あ・の・ば・か・ど・も・め‼


 ガラガラガシャンという騒がしい音と、見事なまでの高笑いを階下に聞きながら、僕はその場に崩れ落ちてぎりぎりと歯を鳴らした。


 今更僕ひとりがシンディの味方になったところで、なんになろう。相手は妹ふたりに、母ひとり。僕ひとりがわあわあ騒いだって、さらっと流されるのがオチだ。


 だから、僕はこのように腹を括る。


 そもそも、ここが『シンデレラ』の物語の中なら、この世界の主人公はシンディだ。今は哀れ、ほうきだか洗濯物だかを抱えて駆け回っているけれど、そのうちキラキラのドレスを着て、カボチャの馬車で王城へ上がるのが定め。


 ならば、僕がすべきはひとつ。なんの因果かシンデレラの兄という立場に落ち着いたのならば、不肖、兄として妹の背を押してやるべきではなかろうか!


 覚悟を決めてからの僕の行動は早かった。


 方針はこうだ。物語はすでに動き始めている。だから僕は来たるXデーに備えて、彼女を立派なレディに育て上げる。もちろん、表向きは母や妹のいじめに加担している風を装ってだ。


 なんたって僕はシンデレラの〝兄〟。僕の知る限りそんな奴はおとぎ話に登場しなかったけれど、あの子が『シンデレラ』でいるためには、きちんと家族に虐められて、きちんと妖精に助けてもらわねばならない。


 僕は心を鬼にした。


 かわいそうだけど、母たちと一緒に、掃除に洗濯、料理に片付けと、あらゆる仕事をあの子に命じた。加えてその合間で、レディとしての振る舞いをみっちり仕込んだ。時々、僕の練習に突き合わせるという名目で、ダンスレッスンを施すのも忘れない。


 すると不思議なもので、だんだんと母や妹がシンディに辛くあたらなくなった。理由はわからない。もしかすると、今まではどちらかというと彼女の味方であった僕が母たちの側についたことで、少しだけ留飲が下がったのかもしれない。


 とにかく、すべてはシンディが正しくシンデレラとなるため。


 罪悪感でしくしく痛む胸の内を隠して、僕は彼女の前に立ちふさがる。それに、シンディも健気にひたむきに立ち向かう。ああ、これではまるで、熱きスポ根もの。感極まった僕は何度となく、心の中の夕陽に向けて拳を突き出す。


 信じる心が夢を叶えるんだろ?

 さあ、もっと熱くなれよ。お前なら出来るぞ、プリンセス‼




 そうこうするうちに時は流れ、ついに王宮から舞踏会の知らせが届いた。




 以前より意地悪が減ったので心配したが、問題なかった。僕の知っている物語の通り、母は、お前は舞踏会に出てはならないよとシンディに告げた。


 僕もそれに賛成した。なにせ、ここで彼女に同行を許可しようものなら、妖精とやらが彼女を助けに現れてくれなくなってしまう。シンディは可愛いから何を着ても似合うけれども、今家にあるドレスを着せるよりかは、妖精が魔法で用意するドレスのほうがずっと彼女にふさわしいはずだ。


 シンディはというと、母に言われたときは平然としていたくせに、僕が来てはいけないと告げたらちょっぴり不満そうに頬を膨らませた。そんな顔をしたって彼女の愛らしさが目立つだけなのだが、僕だけにその反応はちょっぴり傷ついた。


 何はともあれ、シンディひとりを館に残し、僕は母や妹たちと一緒に王宮へと向かった。招待状には若い娘をご招待とあったが、付き添いであれば家族も同席可であるらしい。


 そうして初めての宮廷舞踏会に参加して早半刻、僕はすぐに音を上げた。


 なんというか、甘く見ていた。

 具体的には、女たちの本気度が違った。


 僕も立場上、社交の場にはいくつか顔を出してきた。内実は散財家の母と妹に食いつぶされているとはいえ、僕もそこそこの生まれ。おまけに母に顔が似たこともあって興味を持ってくれる子もいたりもしたのだけれど、今日はレベルが違う。


 彼女たちにとって、今宵の獲物はたった一人。

 比喩でも冗談でもない、唯一無二の王子様。


 ホールの中央にいる王子殿下に向けて、あちこちから熱烈な求愛ビームが乱れ飛ぶ。それらを物ともせず、春風のような爽やかさで王子様が首を巡らせば、その視界に飛び込もうと令嬢たちがダッシュをかます。


 だめだ。見ているだけで疲れた。


 他と同じに目の色を変えて王子争奪戦を繰り広げる妹たち(と、それをえんやえんやと盛り上げる母)を置いて、僕はこっそりとバルコニーへと逃げ出した。


 夜風に吹かれて、僕はほっと息を吐き出した。そうやって柵にもたれて外を眺めていると、無性にシンディに会いたくなった。


 あの子はちょっとばかり変わっていて、無理難題を突き付けたり意地悪をいったりしても、けろっとした顔で首を傾げる。今日だって、僕が言ったときは少しばかり不満そうにしたけれど、舞踏会に行けないこと自体を嘆いたりしている様子はなかった。


 もしもシンディも一緒に来ていたなら、あの子も令嬢たちの熱意にびっくりして、バルコニーでぽけっと休憩したりしているのだろうか。


 それとも、普段は母や妹たちに睨まれて手をつけられないご馳走に目を輝かせて、ここぞとばかりにあれこれ口に詰め込むのだろうか。


 そんな想像をするのはとても愉快だったけれど、最後に僕は首を振った。


 だって、あの子はシンデレラ。舞踏会に現れたが最後、王子様の目に留まり、その手をとられて軽やかに踊りだす。これはそういう、シンデレラストーリーなのだから。


 そのとき、視界の先、外へと伸びる長い階段の先に、一台の丸っこい馬車が止まった。ころんとした形のそれの扉が開き、氷を閉じ込めたような澄んだ水色があふれ出した。


 姿を現したのは、やっぱりシンディだった。


 艶のある金髪は優雅にまとめられ、もともと愛らしい顔はうっすらと施された化粧でさらに魅力的となり、見たこともない気品に満ちたドレスを身にまとう。


 控えめにいって、彼女はものすごく綺麗だった。


 ああ、そうかと。

 どうしてか僕は、ツンと鼻の奥が痛くなった。


 彼女は本当に、おとぎ話のお姫さまだった。


 兄妹という縁で結ばれたって、同じ窓から世界を眺めていたって。やっぱり僕は、君の隣にはいられない。


 だって僕は、王子様にはなれないから。


 すると、ふいにシンディが顔をあげてこちらを見た。だが、ありえない。外は暗いし、あの子からみたらこっちは逆光だ。だから僕を見つけて――あろうことかぱっと笑顔の華を咲かせるなど、ありえない。


 だというのに、シンディはドレスを揺らしてすたたたたと走り出した。そして、あれよあれよという間に城の中に消えたかと思えば、ぎょっとして欄干から身を乗り出した僕の背後に瞬く間に駆け付けた。


「兄さま! 見つけました!」


「し、シンディ!?」


 慌てて振り返れば、きらきらと目を輝かせ、やたらと嬉しそうなシンディの姿。何が何だかわけがわからない僕の前に身を躍らせると、しっかと僕の手を握りしめた。


「逃がしません、兄さま。さあ、私と踊ってください!」


「ちょっと、待て。なんでそうなる!?」


 我に返った僕は、シンディの手を振りほどいて一歩後ろに下がった。すると彼女は、僕が別の理由で戸惑っていると勘違いしたらしい。


「言いつけを守らなくてごめんなさい。けれど、とても親切な妖精さ……女の人が、どうしてもお城に行きなさいとドレスを貸してくださったの。それで私、」


「違う、僕が聞いているのはそういうことじゃない!」


 一生懸命に身振り手振りで説明するシンディを遮って、僕は叫ぶ。いや、シンディの話も興味深い、特に妖精の件などは本当にそんなものが現れたのかとか色々聞きたいのだが、いま問題とすべきはそこじゃない。


「こんなところで何を油を売ってるんだ! お前は今夜、王子殿下とめぐり合うためにここに来たんだろう!?」


 僕としては、当たり前のこと。だというのに、シンディはきょとんと首を傾げるだけで、「むしろお前が何を言っているんだ」とでも言いたげな目をしてくる。まったく手ごたえを感じない彼女とのやり取りに焦っていると、シンディはふん、と鼻を鳴らした。


「王子様なんて知りません。私は兄さまがほかの方に奪われてしまわないよう、兄さまを捕まえにきたのです」


「は、はあ!?」


「踊ってください、兄さま。――お願いです。今宵の魔法が、とけてしまう前に」


 魔法が、とける。

 その言葉に、ぎゅっと胸が苦しくなった。


 僕だって、馬車を降りてくるシンディを見たときに――あるいはこの子と初めた出会ったときに、自分では解くことの出来ない魔法にかかっていたんだ。


 今夜が、僕に許された最後。

 今夜を過ぎたら、この魔法から目を覚まさなきゃいけない。


 一瞬だけ頭の中を駆け巡った想いに、胸がズキズキと痛んだ。だから僕は、ついシンディの手を取ってしまった。何度となく繰り返したダンスレッスンと同じに足を前に踏み出せば、シンディは嬉しそうに僕の腕に手を絡めた。


「一曲だけだぞ……。それが済んだら、お前は、お前の行くべきところへ行くんだ」


「わかりました、兄さま。だから、だからお願いですから、私をちゃんと見てください」


 だが、シンディは王子のところに行かなかった。

 というか、行けなかった。


 ホールの隅で控えめに、柔らかな調べに乗って夢のような時間をすごすこときっちり一曲。にも関わらず、曲が終わった瞬間、お約束の鐘の音が響いたのである。


 いやいや、待てよ。

 いくらなんでも、時間的余裕がなさすぎだ!


 そんな僕の叫びは、無情にもリンゴンと鳴り響く鐘の音により掻き消される。当のシンディはというと、しまった!という顔をした直後、「お先に失礼します!」との一言を残して、来たときと同じくすたこらさっさと駆けていった。


 ところがどっこい。世界的プリンセスを侮るなかれ。


 未練のかけらも見せずに王宮から逃げ出していくシンディに僕が呆然としていると、どこからともなく現れた王子殿下が彼女の後を追って外に飛び出していく。


 さすがはシンデレラ。僕とシンディのダンスに目を留めた王子殿下が、ちゃんと彼女に一目惚れをしていたのである!


 とはいえ、案の定という王子がかシンディを捕まえることは出来ず、残ったのは片方のガラスの靴だけ。愛しいプリンセスの落し物を大事に抱えたまま、王子殿下は僕の襟首をつかんでぶんぶんと詰め寄った。あの娘はだれだ、どこに行けば彼女に会えるのだと。


 もちろん僕は、親切に教えてやった。当然だ。シンディがきちんとシンデレラとなり、王子と結ばれるように、僕は今まであの子を特訓してきたのだから。


 彼女の身元がすぐにわかったことで、王子殿下は小躍りして喜び、翌日にはすぐさま僕らの家に乗り込んできた。もちろん、ガラスの靴を持って、だ。


 舞台は整った。あとはシンディがガラスの靴に足を通し、彼女こそあの夜のプリンセスであると証明すればいい。今まで僕が胸の痛みやら胃痛やらを抱えながら続けてきた地道な努力も、これでようやく報われるのだ。





 なのに、だ。

 なのにどうして、こんなことになる。


「ご令嬢、どうぞこの扉を開けてください」


「お願いだ、マイ・レディ。部屋から出て、私に愛らしい姿を見せておくれ」


 もう随分長く続いている攻防に、僕は頭はズキズキと痛んだ。せっかく王子が我が家に来ているというのに、なんとシンディのやつ、屋根裏に閉じこもってしまったのだ!


 誓って言おう。今日は僕も家族も、誰もあの子を閉じ込めちゃいない。なのに、王子来訪とその理由を説明した途端、あの子は屋根裏に飛び込んで中から鍵をかけたのである。


 屋根裏へと続く階段の下で交互に呼びかける王子と従者の声に僕が頭を抱えていると、先に諦めた従者がやれやれと首を振りながら戻ってきた。


「いやはや、参りました。ご令嬢はよほど頑固な方のようです」


「申し訳ありません。王子殿下に対し、身内がご無礼を……」


「いいんですよ。こんだけ拒絶されたんじゃ、脈がないのは一目瞭然。王子もちゃっちゃと諦めて、次にいけばいいんです」


 小さくなって平謝りするしかない僕に、意外にも従者はあっけらかんと手を振ってくれる。きっと、ものすごくいい人なのだろう。けれどその人は、困ったように王子殿下のいるほうを見て肩を竦めた。


「しかし、失恋するにしても、理由がはっきりしないと殿下も浮かばれません。せめて、外に出て理由を教えてくれたらいいんですけどね」


 その一言を聞いて、僕ははっとした。シンディが閉じこもっている理由まではわからないが、殿下とシンディが出会うようにお膳立てしたのはこの僕だ。自分で始めたことは、きっちり最後まで責任を取らなければならないのだ。


 そうしたわけで、僕はひとり、ガラスの靴を手に屋根裏部屋の扉の前に立った。殿下や従者には、一旦外してもらった。その方が、あの子と腹を割って話せると思ったからだ。


「シンディ。僕だよ。聞こえてるんだろ?」


 扉の内側で、息を詰めてこちらを伺う気配がする。静かに呼びかけると、ややあってから「聞こえています、兄さま」と返事があった。


 返事をしてくれた。とりあえずそのことにホッとしつつ、僕は辛抱強く続けた。


「出ておいで、シンディ。こんなところに閉じこもってたって、お前にとっていいことなんか何ひとつ無いだろ?」


「嫌です。兄さまの言葉でも、今日ばかりは素直に従うわけにはいかないのです」


「なんで。どうしてだよ」


 片腕の中に大事にガラスの靴を抱えたまま、僕は薄い木の戸に肘をついて寄りかかった。大して重くないはずの靴なのに、なんだかとても重く感じた。


「お前は扉を開けて、この靴を履くだけでいい。それだけで、綺麗なお城で、綺麗なドレスを着て、愛する人に愛してもらえる。お前は、世界中の誰よりも幸せな女の子になれるんだ」


「……兄さまが、それを言うんですか」


 なんだか、シンディらしくない不穏な声がした。んん?と疑問に思ったときはすでに遅く、かちゃりとカギが開く音と同時に、中から扉が勢いよく開かれた。


 当然、扉に寄りかかっていた僕は悲惨なもの。悲鳴をあげる暇もなくガラスの靴を庇ったまま、僕は思い切り尻餅をついた。幸いに靴は無事だったけど、僕はあんぐりと、目の前に仁王立ちするシンディを見上げた。


 シンディは怒っていた。

 柔らかそうな頬を真っ赤にして、ものすごく怒っていた。


「お城に住むのが幸せなんですか。綺麗なドレスを着るのが幸せなんですか。それで、私が幸せになるっていうんですか⁈」


「そうじゃない。僕は、お前が!」


 王子様と。そう言った途端、シンディの目がきっと鋭くなって、僕が抱えるガラスの靴を見た。そして、あろうことか、素早くそれを奪い通ると頭の上に掲げた。


「こんなの、こんなの!」


「わ、わ、わぁーーー! シンディー!」


 ガッシャーンと。


 シンディがガラスの靴を床に叩きつける前に、僕は夢中で飛び起きて彼女を捕まえた。動けないようにぎゅっと抱きしめれば、なんとか無事だったガラスの靴が僕の胸に当たった。


「ば、ば、ばかなのか、お前は!」ぜーはーと息をつきながら、僕はどぎまぎと叫んだ。「これはガラスだぞ⁈ そんな物割って、お前が怪我でもしたらどうするんだ⁉︎」


 僕としては、すごく尤もな主張だと思った。

 なのに。それなのに。それを聞いたシンディはなぜだかふるふると震え始め、気がつけば彼女の大きくて綺麗な目には大粒の涙が浮かんでいた。


「に、兄さまのばかぁぁあ……」


 さっきとは違う意味でぎょっとした僕の前で、彼女はわんわんと泣きはじめた。


「どうして城に行けなんて言うんですか。私が好きなのは、兄さまなのに‼」


「はぁ⁉︎」


「あんなに優しくしたくせに。いっぱいっぱい好きにさせたくせに。なのに王子様と結婚しろなんて、今更そんなの、そんなのぉぉお!」


「なるほど。そういうわけだったんだね」


 飛び上がって振り返れば、すぐそこに殿下がいた。僕は慌てた。なんていったって僕はシンディを抱きしめたままだし、離れようにも胸にすがって大泣きする彼女を突き放すことなんて出来なかった。


 けれど殿下は、慌てる僕を片手で制した。


「ここまで見せつけられても身を引かないのでは格好悪い。私は大人しく、城に帰らせてもらうよ。だから君も、ちゃんと答えを伝えてあげるのだよ」


 そういって殿下が投げてよこしたウィンクは、やっぱりものすごく決まっていた。返す言葉もなく、熱くなった顔のままこくりと頷いて殿下を見送ってから、僕はやれやれと肩を落とした。


「バカだなあ、シンディ。王子様と一緒になったほうが、ずっといいに決まっているのに」


「バカなのは、兄さまです」小さく鼻をすすって、シンディは涙声で答えた「私が幸せなのは、兄さまと一緒にいるときです。ずっとずっと、兄さまと一緒にいたいんです」


 兄さまは違うんですかと。不安そうに見上げたシンディに、僕は盛大に溜息をついた。


 まったく、僕が今までどれだけお前のためにお膳立てしてきたと思っているんだ。大切な――可愛くて愛しい君が幸せになりますように、それだけを祈ってきたというのに。


「僕だって」言いながら、僕はシンディをぎゅっと抱きしめた。「僕だって、お前とずっと一緒にいたい。そのほうが幸せに決まっている」


 お前が好きだよ。


 シンディの髪に顔をうずめて、やっとの思いで僕はそれだけ告げると。

 泣き虫な彼女はちょっぴり笑ってから、やっぱりわんわんと泣いたのだった。





*  *   *



 拝啓。天国のお父さま。


 お父さまは、そちらでお元気にお過ごしでしょうか。私は、いろんなことがありましたが、今は愛する旦那さまと一緒に幸せに暮らしています。


 旦那さまは――ライアン兄さまは、すごく優しくて、素敵な方です。


 お父さまが亡くなってから、つらいこともありました。けれど、そんな私を救ってくださったのがライアンさまでした。


 ライアンさまは、「お前は不器用すぎて見ていられない」とか「仕事が遅い、いつまでかかるんだ」なんて、口ではたくさん文句を仰っていました。けれど、それが全部うそっぱちであることなんて、すぐわかってしまったんです。だって、そういうことを仰ったあと、ライアンさまは必ず私を助けてくださったんですもの。


 疲れていたら、心配してくださって。

 落ち込んでいたら、慰めてくださって。


 はっきりと言葉には出さなかったけれど、ライアンさまはいつも私に寄り添ってくださいました。だから私も、だんだんとお父さまを失った悲しみ、寂しさを乗り越え得ることができたんです。


 今、私のお腹には、ライアンさまとの子が宿っています。


 この子が生まれたら、私は伝えてあげるつもりです。

 夢を信じぬく強い心があれば、それはきっと叶えられると。


 どうしようもなく優しくて、ほんのちょっと鈍くて、すごく格好いい自慢のお兄さま。そんなライアンさまに愛してもらうという夢を、私が叶えることができたみたいに。


 それではお父さま。どうか、天国から私たちのことを見守っていてくださいね。


 

 あなたの娘より。愛をこめて。



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