チャプター3 バイルシュタットの長と姫
にぎやかな表通りを抜けて路地に入ると、それまでに喧騒が嘘みたいに、急にひっそりと静まり返った。不意に車の途絶えた真夜中の幹線道路みたいな静寂に、不安は募る。
「ねぇ、カデル。どこ行くの?」
「アナイを置きに、いったん兵舎へ戻る。それから、館だ。」
「館って、あの?」
丘の上の、重厚な木造建築へ目をやる。
「ああ。」
「でも、あそこ、なんだか偉い人がいそうな雰囲気だけど・・・。そこに何の用があるの?」
「・・・・。」
カデルは何も答えない。その沈黙が、さらに不安をあおった。携帯とか、自動車とか、そういう文明の利器とは無縁の、アナログな場所だ。アナログといって、黒電話すら期待できないこの状況で、これからいったいどうすればいいんだろう。
先行きに多大な不安を抱えながらも、今はカデルについて行くしかない。
路地を抜けて、カデルは、大きな建物へと向かっている。建物脇には壁のない屋根だけの施設、それもかなり大きな場所で、数頭のリウがつながれていた。リウの厩舎ってとこかしら・・・。
カデルは手馴れた様子でアナイをつなぐと、荷物を降ろしてからその鼻先をちょっと撫でた。アナイは嬉しそうに頭をカデルへ擦り寄せる。
「荷物。半分持て。」
「あ、うん。」
鍋や毛布やらを持ってカデルの後から建物の中に入る。
「ここが兵舎・・? 誰もいないみたいだけど。」
「教練中だろう。皆出払ってる。きょろきょろするな、こっちだ。」
階段を上って二階の奥の一室へ入る。カデルの個室・・、みたいだけれど、なんだか、この年の男の子に似つかわしくないというか、妙に整頓された部屋だ。いや、男の子の部屋に行ったことはないんだけれどね。もうちょっとこう、雑然としたイメージがあったから、意外だった。
整頓された、というより、何もない、といった方がいいのかも知れない。ベッドと机と椅子があって、それだけ。カデルが時折見せる、荒涼とした砂漠みたいな沈黙を象徴するかのような部屋だった。
「ねぇ、ここだったらフード取ってもいいんでしょ。」
「ああ。」
ベッドに腰を下ろしながら、被っていた暑苦しいフードを取って、ようやく一息つけた感じだ。
「ふぇー、暑かった。・・・・。さっきの、館に行くって話さ。そこに行くと、何か状況が変わるのかな。電話とか、そういうものをまったく期待できそうもないし、私のいたところとは、もう何もかもが違う感じなんだけど・・・。」
「国が違えば雰囲気も違うだろう。慣れろ。」
「慣れろって言われても、雰囲気が違うとか、そういうレベルじゃないんですけど。時代というか、フレームそのものがまったく違っちゃってるっていうか。オープンワールドのゲームの中みたいな・・・。ほんとに現実、なのよね?」
「オープンワールド・・? 何か知らんが、現実は現実だろう。あんたが今、五感で感じてる世界そのものが、偽りでない限りな。」
「偽り・・。」
窓から差し込む光。ちょっと埃っぽい部屋の空気と、目の前のカデル。座っているベッドの感触。まだ耳に残る、町の喧騒。そのどれを取っても、偽りや空想とはかけ離れた、動かしがたい現実、そのものだった。
「仮想、じゃないよねぇ、やっぱり。うぁー、どうすりゃいいのよ、これから。」
「・・・ついて来い。」
「あの館に行くの? ちょっと待ってカデル、やっぱり、心配なんだけど。」
「心配だと?」
「だって、いきなり私みたいなのが行って、相手にされるのかな。偉い人がいる場所なんでしょ。」
「首長がいる。」
「やーる? 領主、みたいな感じ?」
「そんなところだ。相手にされるかされないかって話なら、恐らく・・・。」
そこでカデルはまたも、にや、と笑った。にこ、じゃない。
「相手にされるだろう。」
「そうなの?」
「あんたは沈んだ船に乗っていた、国外の人間だ。扱いを取り違えると、外交問題にも発展しかねないからな。」
「取り違えるって、物みたいに。」
「あんたが外国の者だってことだけでも、館に顔を出す理由になる。」
「・・・まぁ、そういうことになるのか。」
海外で困って大使館に駆け込む、みたいな感じなら、ありえなくはない。
「そもそも、この兵舎にあんたをかくまうわけにもいかないだろう。」
「確かにそうよね・・・。」
「理解したなら、さっさとついて来い。」
カデルはそれだけ言うと、もう部屋から出ている。
「分かったわよ。分かったから、ちょっと待って。」
慌ててついて行こうとして飛び出すと、急に立ち止まったカデルの背中にぶつかってしまった。結構勢いがついてたんだけど、小柄なくせにカデルはびくともしなかった。
「わぷっ。ちょ・・、なに?」
「フード。」
「うげ。また被るの? 暑苦しいんだよね、これ。」
抗議をしてみるものの、カデルは私をじっと見て、フードを被るまで一歩たりともその場を動かない、そんな雰囲気をかもしている。
「はいはいはい。分かったわよ。被るって。」
暑苦しいフードを頭からすっぽり被ると、晴天に暗雲が立ち込めるような、重い影が視界を狭めた。
路地から路地へ、足早に進むカデルの後ろをついて行くと、いつのまにか、丘の上の館前に着いていた。一度も大通りに出なかったから、近道というか、裏道づたいに歩いたみたいだ。
てっきり、そのまま正面から入るものと思っていたら、なぜかカデルは館の裏手に回る。
「ねぇ。なんでわざわざ裏に回るの?」
「こっちの衛兵は、さっきのガナリみたいにぬるくないからな。いろいろ聞かれても面倒だろう。」
「ガナリって・・ああ、町の入り口のところにいた。こっちだと、いろいろ聞かれるの?」
「首長の館だからな。あんたの素性、目的、紹介の有無、細かいところまで聞かれる。」
そういうもの、なのか。
「そうなんだ。」
館を大きく回って裏口のところまで来ると、それでも衛兵の人が一人、木扉に鉄格子を合わせた、頑丈な扉の前に立っていた。
カデルは、
「ちょっとここで待ってろ。」
そう言ってその人のところへ行くと、何か小声で話し始める。私を指差して、それから、何かを相手に握らせた・・・? あんまりさりげなかったもので、ただの勘違いかも知れないのだけど、確かに何かを渡したように見えた。
カデルは私の方を見て、来い、と顎をちょっと動かして呼ぶ。
衛兵の人は無言のまま扉を開けると、私にじっと視線を据えながらも中へ通してくれた。
「何か渡さなかった?」
あっさりと館の中に入ってしまってから、私はカデルの背中に囁いた。
「賄賂。」
「ワイロ?」
助けを求める外国人が、公的な施設へ入るのにワイロが必要・・? そんなものなのか。そんなものなのかしら?
しきりと目立ちたくない、と言い続けるカデルの、私が外から来た人間ゆえ、って説明は一応納得のゆくものではあるのだけれど、それにしたって、ここまでこそこそする必要があるんだろうか。
「厨房で下働きをしたいって奴に、仕事の口を紹介したことになってる。何か問われたら、口裏を合わせろ。」
「厨房でって、誰が・・?」
「あんたがだよ。」
「私が?」
「館に入る口実だ。本当に働くわけじゃない。」
カデルは周囲を見回しながら、通路の角へ差し掛かるたびに、いったん立ち止まってその先の気配をうかがってるみたいだ。なんかもう、この建物へ忍び込んだも同然の態度だ。
「そんな嘘までついて、それほど私がここに来たこと、秘密にしなきゃならないの?」
「しっ。黙ってろ。」
どこをどう上ったのか、カデルと私はいつのまにか館の二階部分まで来ていて、まるごと吹き抜けになった広間を見下ろせる場所にいた。
広間の真ん中には大きな囲炉裏のようなところがあって、揺らめく火が室内をオレンジ色に照らしていた。広間の突き当たり、玉座にはがたいのいい、初老のおじさんが座っている。豪奢なファー付きの服といい、鋭い目つきはいかにも強そうで、
「あれがヤールの人・・?」
つぶやくと、カデルがうなずいた。
「ああ。ニール様だ。レナ族の長、バイルシュタットの主だ。」
ニール様、とカデルの呼ぶおじさんが、隣に立つ側近らしき人に話す声がここまで聞こえてくる。低いけど、肺活量の多さを感じさせるというか、なかなか素敵な声だった。
「ヘイデンケル砦の方はどうなっている。」
「はい。ビトリナス側の斥候がやはり増えているようです。しきりと周囲の地形を探っているようで、攻囲の準備行動とも取れます。」
「ふむ・・・。どう見る?」
「・・・やはり警戒が必要でしょう。ビトリナスは鉱山開発の失敗で財政基盤にヒビが入った状態です。大きな軍事行動を起こすには、資金面で問題が出るはずなのですが、それにしても斥候の数が多すぎる。強行偵察中の一隊を追い払ったとの報告もあります。」
「威嚇を目的とした線は?」
「それは考えにくいでしょう。ハイミの連中の動静が読みきれません。我々以上に、ビトリナスがハイミへ根回ししている気配はありませんし、そうなると、我々に対するただの威嚇は、この時期、無意味です。実行動を伴う次の段階を想定している、と考えるべきでしょう。」
ニールのおじさんの質問へきびきびと応えるあたり、側近の人はかなり優秀みたいだ。
おじさんは軽くため息をついて椅子に身体をもたせかけると、
「・・・分かった。ヘイデンケル砦の防備を固めろ。」
物憂げな雰囲気の混じる声で言うのだった。
「承知いたしました。」
それからニールのおじさん立ち上がって、
「部屋に戻る。」
そう言って去りかけるところへ側近の人が言った。
「あまり気を落とされずに、ニール様。無理なことは承知の上で申し上げておりますが、このところ、気の抜けぬ状況が続いております。ニール様のお疲れなご様子は、兵の士気にも影響いたします。」
「分かっている、ハイネル。」
「私も微力ながら、お力添えをさせていただきますゆえ、なにとぞ。」
広間を後にするニールのおじさんの背中はとても広いのだけれど、どこか力の入らない、寂しげな空気をかもしてるようでもあった。
おじさんが広間から姿を消すのを見届けてから、カデルが言った。
「よし。ついて来い。」
「あ、うん。どこへ?」
「来れば分かる。」
「来れば分かるって言っても、なんか、この館に来てから全然詳しいこと、話してくれないじゃん。いったいどういうことよ。」
「悪いようにはしない。いいから黙って来い。」
「まったく・・・。」
なおも文句を言いかける私に構わず、カデルは館の奥へ奥へと進んで行ってしまう。やがて、蔦の飾り紋様が全面に入った大きな木の扉の前に来ると、カデルは軽く扉をノックした。
「入れ。」
ニールのおじさんの声だ。
小さく扉を開けると、カデルは部屋の中へ身体を滑り込ませるようにして入った。扉の隙間からのぞいてみると、赤い豪奢な絨毯に黒光りする大きな机、机の上にはロウソクの燭台、羽ペン、書きかけの羊皮紙、壁の一角を埋める天井丈の書棚と、どうやら書斎のようだった。
カデルが入り口のところで軽く一礼する。ニールおじさんは何か書き物の途中だったみたいだけれど、目を上げてカデルに気づくと、静かに微笑んだ。微笑みの優しさが、いかつい容姿とギャップになって余計優しそうに見える。
カデルは、私の前で見せるぞんざいな雰囲気とは打って変わって、神妙な態度でいる。といって、ニールのおじさんをひどく畏れているとかそういう風にも見えず、心の通じ合った拳法の師弟というか、通じ合うものを醸す雰囲気だった。
「戻ったか、カデル。ビトリナスに動きは?」
「はい。かなり慌ただしさを増しています。近々、正規軍が動くのでは、という情報もあります。傭兵も含めれば、それなりの人数になるでしょう。」
「やはりそうか・・・。動く時期は?」
「まだ分かりません。食料、その他、行軍物資の集まりが悪いようで、準備に手間取っています。ガルハイムに向かう途中の物資を、野盗に奪われたという噂もありました。」
「羆団か。」
「おそらく。」
「ふむ・・。ビトリナスの連中も、奴らには手を焼いているようだな。どこの勢力かなど、かまう素振りもなし、か。・・・よし。ご苦労だった。詳細は追って報告書で読ませてもらう。」
「はい。・・・・・。」
「どうした?」言葉を切ってなおその場に留まるカデルへ、ニールおじさんが問いかけた。
「ニール様のお目にかけたい者がいるのですが、よろしいでしょうか。」
「構わんが。」
「おい。」
呼ばれて、私はおずおずと部屋に入った。さすがに、こういう部屋で偉い人に面と向かわれると緊張してしまう。まるで、校長先生から直接話があると言われて、校長室に呼び出されたみたいだ。
「その者は?」
と、ニールおじさんは興味深そうにカデルへ促した。
誰とも言わない相手といきなり引き合わされても、警戒したり見下したりしないあたり、この人の人柄というか、性格が出ている気がした。来る者を拒まずというか、いかにも良い人材を集めそうな雰囲気がある。
カデルは応えた。
「一目見て天啓を受けたとはまさにこのこと。」
テンケイ? なんのこと?
「フードをお取りください。」
と、カデルは私に言った。
「お取りくださいって・・・。」
気持ちワル。これまで、人を小馬鹿にしたみたいな物言いしてたくせに、突然、敬語を使い始めるカデルだ。フードを取った私を指して、カデルはとんでもないことを言い始めた。
「フィオラ様の再臨。天のもたらした、大いなる恩寵となりましょう。」
「さい、りん・・? 誰が? 誰の?」
まったく、何を言っているのか理解できない私を置いて、ニールのおじさんが、はっ、と立ち上がった。そのまま私のところへ歩み寄ると、いきなり大きな身体で包み込むようにして、私を抱きしめる。おじさん、かすかに震えているのを感じる。泣いている・・?
立ち上がってから私を抱きしめるまで、それはあたかも、交通事故で亡くなった娘が、不意にただいまと言って帰ってきたのを迎えるお父さんのような、そんなリアクションだ。亡くなったことを受け入れきれない家族は、いなくなった人が何食わぬ顔で帰って来るような気が毎日してならないと、だから故人の部屋も持ち物もそのまま。持ち主の不在となった鞄や筆記具が、あたかも亡き人の帰る寄る辺となっていて、いつまでも捨てきれないところに本人が帰ってきちゃった、というか。そんなシチュエーションを想像させる反応だった。
「ちょ、ちょっと、あの・・・。」
とはいえ、いきなりそんな反応されても、こっちは戸惑うばかりだ。抱きしめられ、自由を奪われたまま顔だけカデルに向ければ、にや、と笑みを返される。
これか。
今ようやく、出会ったときから度々カデルの浮かべた、この、にや、という笑みの意味が理解できた。このニールというおじさんにとって、とても大事な人、おそらく娘さんなんだろうけど、その人に私がそっくりなんだ。だから、私をここまで連れて来て、天啓だとか、再臨だとかいう大仰な言葉でもって紹介した。途中、しつこいくらい顔を隠させたのはたぶん、顔を見られただけで大騒ぎになるから。
「ニール様最後の御子、第六子、フィオラ様が天界よりお戻りになられました。こちらに戻られた時の影響で少し混乱されているようですが、やがて落ち着かれるでしょう。」
カデルは、すらすらと勝手な筋書きを並べ立てて行く。
「ちょ、待って、カデル。そんな急に言われても。あの、ニール、さん。とにかくいったん放してもらえますか。」
「・・・フィオラ。よく戻った。」
ニールのおじさんは私の肩を岩のような手でつかんだまま、涙の浮かぶ熱い目で私を見つめるのだった。
「感動の再会って場面で申し訳ないんですけど、私、水際花音っていって、そのフィオラさんとはまったく関係が・・・。」
大急ぎで否定しようとする私の言葉を、カデルがさえぎる。
「記憶に混乱が生じておられるようです。ご自分を別の人間と混同されている。転生のさなか、天のさらなる高みへと向かう船が、沈んだ拍子にこちらへ戻られたと、そううかがっております。」
「うかがっております、じゃないわよ! ひとことも言ってないわ、そんなこと。天のさらなる高みへって、何よ! 地中海を航行してただけだっていうのに。ねぇ、カデル。私は自分の家に帰って、友達や家族とまた会いたいだけなのよ。別の人間に間違われても困るわ。きちんと説明して。お願い!」
カデルは笑みを浮かべたまま、
「このように、今のフィオラ様は私にたいして大いに心を開かれています。よろしければ、私にフィオラ様の目付け役を任じていただけませんか。」
そんなことを言い出す。
「いいだろう。確かに、少し興奮しているようだ。お前に心を開くというなら、側で支えよ。」
「は。」
これがカデルのシナリオだったのね。ニールさんの娘、いわゆるお姫様ってやつとくりそつな私を連れて館に戻り、その側近という立場を得る。この人達がどういう統治体制を敷いているか知らないけれど、最後の子って言ってたから、王位? の継承権がフィオラって人にあったのかも知れない。次期首長の側近という立場を獲得することが、カデルの「にや」に込められた、筋書きの一部始終なんだろう。
私はこのとき、嬉しそうな視線を向けてくるニールおじさんと、策にはめやがってくれたカデルのどや顏を、交互に見つめることしかできなかった。